第23話 十倍の完成
測定室の床は冷たい。
円陣の刻印は薄く擦れている。
ここは毎日、人が立って、同じ動作を繰り返す場所だ。
リュミナは、最初から最後まで立ち位置を変えなかった。
息を吸う。
短い詠唱を唱える。
光が生まれる。
白く澄み、輪郭だけははっきりしていた。
散る直前の一瞬だけ、床の刻印まで薄く浮く。
測定器の針が跳ねる。
リュミナは針を見る。
そして、すぐ次へ進む。
腕は細い。
だが、肩には力が残っている。
指先は赤く、爪の端が欠けていた。
何度も同じ姿勢を取り、同じ距離で測定器へ向かう。
息を吸うたび、肩が小さく上下した。
それでも、彼女は下がらない。
努力はしていた。
誰が見ても分かる程度には。
侍女が布を差し出す。
リュミナは汗を拭き、すぐ測定器の前へ戻る。
補佐役が水を用意する。
一口だけ飲む。
すぐ戻る。
「もう一度ですわ」
声がかすれても、言い方は崩さない。
「次は、もっと上げます」
測定器の横で、計測技士官のダンテが記録簿を開いている。
白い手袋の指が、針の位置に合わせて止まる。
数字を書き込む手は速い。
ためらいがない。
「2640」
「2760」
ダンテは淡々と読み上げ、記録簿へ書き込んだ。
数字が読まれるたび、周囲が反応する。
まだ光が消えきっていないのに、誰かが手を叩く。
その音に、別の手の音が重なる。
「新しい聖女様だ」
「これなら結界も――」
誰かが言い切る前に、リュミナはもう次の息を吸っていた。
数字が上がる限り、誰も止めない。
次の測定だけが続いていく。
王子は壁際に立っていた。
腕を組み、目だけで針を追っている。
目元には疲れが残っている。
だが、数字が上がるたび、口元だけが少し緩む。
一度、短く息を吐いた。
それを見て、補佐役が頷く。
侍女が手を叩く。
貴族たちは、表示板へ身を乗り出した。
リュミナはそれを見て、さらに早くなる。
速く。
強く。
派手に。
針が跳ねる。
光が眩しい。
ダンテが記録簿の端に印を付けた。
いつもの確認とは違う、本測定に移るための印だった。
「本測定に移ります」
淡々と言って、測定器の位置をわずかに調整する。
支えの脚を確かめ、揺れを止める。
表示板の目盛りを確かめ、読み取りの角度を決める。
周りの者が一斉に黙った。
誰も先に声を出さない。
リュミナが一歩だけ前へ出る。
深く息を吸った。
胸が上がる。
肩が上がる。
それを自分で下ろす。
息を整える。
ここだけは軽く扱えない。
そう体が知っている動きだった。
短い詠唱。
光が広がる。
さっきまでより、縁がくっきりしていた。
床の刻印の線が、白く浮く。
測定器の針が跳ね上がり、止まった。
ダンテが目を細めた。
記録簿の上でペン先が一瞬だけ止まり、それから数字が書き込まれる。
「計測値、3012」
数字が口にされた直後、誰も動かなかった。
やがて、誰かが表示板を見上げたまま呟く。
「……十倍」
その言葉に、周囲が飛びついた。
「聖女様の十倍だ」
「十倍……」
「これで、もう疑いようがない」
ざわめきが重なり、歓声へ変わった。
光は、見栄えだけなら申し分なかった。
白く、強く、表示板の前でよく映えている。
だが、ダンテの視線だけは、光が散ったあとの刻線に残っていた。
拍手が一斉に巻き起こる。
表示板の点滅に合わせるように手が鳴り、誰も床を見ようとしない。
リュミナは息を切らしながら胸を張った。
表示板を確かめたあと、すぐにアルベルトを見る。
「数値が証明していますもの」
アルベルトが一歩前へ出た。
「これで、異論は出ない」
その言葉で、拍手はさらに大きくなった。
ダンテだけが手を叩かなかった。
彼は記録簿を閉じず、針が戻りきるまで待った。
光が消え、床の刻印も沈んでいく。
結界片は、最後まで明るくならなかった。
ダンテは欄外へ一行を書き足す。
――結界片、反応継続なし。
その下へ測定担当者として署名し、記録簿を閉じた。
蝋を落とし、印章を押す。
赤い蝋へ印が沈む。
その作業を見ていた者は、ほとんどいなかった。
別の係員が、測定結果の確認書を机へ置いた。
最上段に記されているのは、一行だけだった。
瞬間最大測定値 3012。
結界への接続、持続時間、適合を確認する欄はない。
「セラフィナ様にも、ご確認を」
私は文面を最初から読み、測定値確認欄へ署名した。
リュミナがすぐに紙を覗き込む。
「これで、セラフィナさまも私が十倍だと認めましたわね」
「私が確認したのは、瞬間最大測定値です」
拍手がわずかに乱れた。
ダンテが顔を上げる。
係員も、確認書と封をした記録簿を見比べた。
だが、リュミナは確認書から目を離さなかった。
「でも、3012が出たことは事実ですわ」
「ええ」
「でしたら、同じことです」
同じではない。
だが、彼女は聞いていなかった。
リュミナは確認書を持ち上げ、アルベルトへ向ける。
アルベルトは『瞬間最大測定値』の文字ではなく、3012という数字と私の署名を見た。
「正式な確認も済んだ」
彼は確認書を受け取った。
机の上には、二つの記録が残っている。
アルベルトが手にした確認書には、瞬間最大測定値3012と私の署名。
ダンテが封じた記録簿には、結界片、反応継続なし。
リュミナは確認書を見つめたまま笑った。
封をされた記録簿には、一度も目を向けない。
十倍。
彼らにとっては、それが答えだった。
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