第30話 0-0
扉の向こうは、霧で覆われたように真っ白だった。
自分の手の平すら判別できないくらいに白くて、気を抜けば自我すらも溶けてしまいそうだった。
「大丈夫。ティナはそこにいる。私にはちゃんと見えているよ」
ラルの声で、私の体の輪郭が形作られていった。白い手が見える。鼓動が鳴り、指先足先まで血が行き渡っていくのを感じる。
「いいのか? この宇宙を再構成することは、この宇宙に魂を埋めることを意味する。二度と前世に戻れなくなる。君が望めば、この宇宙を故郷と一体化させて、君が死んだ事実を失くすことができるんだよ。そうすれば、会いたかった家族に再び会える。君の望みが叶うんだ。なのに、君はやすやすとその権利を捨てて、後悔しないのか?」
私を陥れようとする声が頭に響いた。灼熱の砂漠の中で差し出されたアイスクリームのように魅力的だった。でも、アイスで喉の渇きは満たされない。ニャルラトホテプの言葉はまやかしだ。
どうして私は間違えていられたのだろう。全く違う人物の声なのに。
「後悔はする。しているわ。でも、私はこの宇宙でラルと生きられない方がずっと後悔する。だから、悪いけど貴方の思い通りにはならない」
目前に異形の本性をむき出しにしたニャルラトホテプの姿が現れた。顔のない触手をのたうち回す怪物、膨れ上がった女性、泡立つ液体……目まぐるしく変わる姿を見ても私の心に波一つ立たなかった。
「どんなに脅しても私は怖くない。なぜなら、貴方はこの世界に必要ないのだから」
怪物の姿は消えた。最後まで怪物は笑っていた。
代わりに、ラルの姿が現れた。
「ティナ」
ラルが私を強く抱きしめる。傷一つない天井にはシャンデリアがすまし顔でぶら下がっていた。学園のパーティー会場に戻ったらしい。
「ラル」
全て終わったんだわ。
2人で子供のように泣いた。
卒業パーティーは何事もなく終わった。
しばらくして、王宮の庭園で私はディーゴに再会した。
「久しぶりだな」
「ディーゴ、お久しぶり。そういえば、貴方の勤め先も王宮だったわね」
王宮兵士の制服を着たディーゴの顔色は健康そのものだった。頬は滑らかで鱗もない。
「ああ。おかげで体は元に戻ったし、学園も卒業できたし。礼を言う。ありがとう」
「気にしなくていいのよ。私は大したことをしていないんだから」
「そんな訳あるか! リリアンの光魔法で鱗が溶けて身動きできない所に、よくわからない真っ白な物体が降りてきたと思ったら、次の瞬間には大広間に戻っていて、殿下とクティアーナ嬢が二人して泣いていたんだ。何かあったと思うだろう!」
ディーゴには記憶があったらしい。おかしいわ。やっぱりクトゥルフの眷属だから? それとも、ディーゴの肌を治すために特別に手を加えたから?
「学園に行ってリュシアンとリリアンとゲノス先生に確認したんだ。ほら、リリアンは結局、学園の保健室に就職しただろ。それで、学園に用がある時についでに聞いたんだ。そうしたら3人とも覚えていないって言うんだ。まあ、ゲノス先生はそもそもここ数年の出来事が記憶にないって言っていたけどな。
リュシアンはリリアンにブローチを渡したのは大広間だって言い張るし。俺が馬鹿にされたよ。でも違うんだ。確かにあの時、リュシアンは王太子殿下に連れられて小部屋に降りてきて、リリアンにブローチを返した。そして、その後、天井から白い眩い巨大な物体が降ってきて、身動きできなかった俺は押し潰されたんだ。
でも、次の瞬間には大広間に立っていて、鱗が消えていた。
クティアーナ嬢が何かしたとしか思えない」
ディーゴに真実を告げるのは簡単だ。でも、一度は崩壊した世界を、一から創り直したなんて説明したって信じてもらえそうにない。だから、私は魔法の言葉を使った。
「それは夢よ。白昼夢だったの」
「俺は騙されないぞ」
「本当よ。あの時の小部屋には魔力が尋常じゃないくらい溜まっていたの。リリアンが光魔法を使っていたし、殿下が転移魔法を使ったから。そのせいで一種の中毒症状が起きて集団で幻覚を見たの。怖かったわよね」
「なら、鱗が消えたのはどう説明するんだ?」
「さあ? 濃密な魔力に当てられて、代謝が良くなったんじゃない?」
「肌荒れの治し方みたいなことを言われてもなあ……」
ディーゴは納得いかなさそうに頬をポリポリと掻いたけれど、私が何も言わないでいると諦めてくれた。
「もういいや。クティアーナ嬢が話したくないんなら、俺は忘れることにするよ」
「それがいいと思うわ」
「おう。引き止めて悪かった。
じゃあ、俺は仕事に戻る。またな」
「ええ、また」
「あ、そうだ言い忘れてた」
一旦は背を向けたディーゴが振り返った。さらりと、さり気なくディーゴは言った。
「殿下との結婚おめでとう。幸せになれよ」
「ええ。ありがとう」
婚約破棄という脅威は無くなったから、当然ながら逃亡計画を白紙になり、当初の予定通り私は王太子と結婚することになった。
今更ながら王太子妃になるための勉強をし直すために王宮に日参している。どうせ婚約破棄されると思って、随分とサボっていたから。
女官長から出された課題について王宮の図書館で調べていると王太子が近づいてきた。
「勉強は進んでる?」
「進んでるわ」
「結婚式が待ち遠しいよ。ティナと毎日一緒にいられるから」
「……私もよ」
控えめに同意を示すと、王太子は柔らかく微笑んだ。
「あいつに体が奪われている間、気が狂いそうだった。メッセージカードを残すくらいしかティナに伝えることができなくて」
あのメッセージカードは王太子が書いていたのね、と驚き顔を上げると王太子の金色の瞳と目が合った。
本を読んでいたせいで前に流れていた私の髪を王太子の長い指が撫でて、そっと耳にかけた。そわそわとしてくすぐったい。
「忘れないで。君の魂は私の物だから。君は誰にも渡さない」
どこかで聞いたことのある台詞を言う王太子の声は、抗い難い魅力に満ちていた。
やっぱり私は王太子殿下のことが、中身がどうあっても、好きなんだわ。




