第29話 α―Ω
恐怖のあまり飛び起きた。
そこは、見知らぬ場所だった。
機械の規則正しい音がする。鼓動の波形がモニターに映し出されていた。機械の線は私の体につながっている。モニター上の波形は私の心臓の鼓動に合わせて動いていた。
「お姉ちゃん、起きたの?」
開いた扉から入ってきたのはよく知っている顔だった。私の前世の妹だ。
「どうして……」
「どうして早く目覚めなかったの? 私ずっと心配したんだからぁ!」
妹が泣きついてきて、私の疑問はかき消された。私は泣いた妹に勝てたことがない。小刻みに震える妹の背中を力の入らない腕で辿々しく撫でた。
「長い夢をみてたの」
「こういう時くらいは早起きしていいんだよ」
「ごめんなさいね……」
泣く子には弱い。手が疲れ始めたころ、ようやく妹は泣き止み、すっきりとした顔で立ち上がった。
「じゃあ、看護師さんに知らせてくる。お父さんとお母さんは病院の売店で買い出ししてるだけだからすぐに戻ってくるよ」
「わかったわ」
私の返事に妹はプッと軽く吹き出した。
「お姉ちゃん、そんなお嬢様みたいな口調だった? 夢でマナー講座でも受けてたの?」
あれ? 私はどういうふうに話していたかしら。あまりにも長く悪役令嬢をやってきたから、わからなくなった。あの奇妙で、クトゥルフ神話生物に溢れた世界は夢なのよね?
大人しくしててね! と言い残して妹は去った。がらんとした部屋を改めて見回せば、そこは確かに病院の病室だった。それも、精密機械がいくつも取り囲む、重病人が入院しそうな病室だった。
「目覚めたんですね。よかった」
看護師がやってきて、脈拍と体温と血圧とその他の私には分からない機械の数値を確認していた。
「あの、ここは、どこでしょうか?」
看護師の回答によれば、ここは、私でも知っている都内の大病院だった。どうやら、トラックにぶつかった後に救急車で緊急搬送されて、そのまま入院していたらしい。
「ひどい大怪我でしたけど、1週間で目覚めてよかった。全身を強く打って緊急手術が必要な状態でした。その時たまたま勤務していた先生が外科手術のスペシャリストだったから助かったんですよ。運が良かったですね」
自分が瀕死だった話を聞かされてどう返せばいいかわからない。それはラッキーでした、と返せばいいのかしら。
「あ、そうだ。今日の夜、ちょうどその先生が当直なんです。先生に顔を出してもらうように言っておきますね」
良い事を思いついたように看護師は言った。確かに、私も事故当時のことは聞いておきたい。手術の具体的な話はSAN値が減りそうだから遠慮しておきたいけれど。
「ありがとうございます」
親切そうな看護師は朗らかに笑った。
その後、妹からの知らせを受けて慌てて戻ってきた両親と肩を抱き合って泣いた。
「会社の人もあなたがいなくて大変だって言ってたわよ。仕事が回らないんですって。早く元気にならなくちゃね」
母は嬉しそうに言った。仕事が回らなくなるほど求められていたのだと知って、くすぐったかった。
その日の夜、読書灯をつけて本を読んでいた。長く眠っていたせいで、とうぶん眠れそうになかったし、私を助けてくれた医者がやってくると看護師が教えてくれたからだ。
扉をノックする音がした。例の医者だろう。
「どうぞ」
扉が動いて、電気がつけられて、訪問者の姿が露わになった。明らかにされたその姿に私は言葉を失った。
「王太子殿下……?」
白衣を着た背の高い訪問者は、どう見ても王太子にそっくりだった。褐色の肌、金の髪と瞳。そして整った美貌。夢の中の王太子をそっくり写しとったようで、双子かクローンと言われても納得してしまう。逆に一番信じたくないのは、同一人物である可能性。だって、もしそうなら、あの異世界の出来事は夢じゃなかったことになる。
私の鼓動を几帳面に計測している機械の音が、切羽詰まったように小刻みになった。
「ティナを迎えにきたんだ」
「殿下、ですか? 本当に?」
そうだよ、と王太子は答える。
「本当の本当に真実、私だよ。
ここは無防備すぎて危険だ。あいつに気が付かれる前に一緒に来て」
そう言われても頭がついていかない。目の前にいる王太子が本物なら、あの夢は夢じゃなくなる。なら、この『現実』はどうなるの?
鼓動を知らせる機械の音が、絶え間なくアラーム音のように鳴り続ける。
「お願いだ、私を信じてほしい」
ティナ、とあの夢の世界での私の愛称を目の前の人物は呼ぶ。私をその愛称で呼ぶのはただ一人しかいない。今になって思い返せば、あの邪神は私の愛称を一度も口にしなかった。
「ラルなの?」
私が2人の間でしか呼んだことのない愛称で呼ぶと、目の前のその人は美しい顔をくしゃりと歪ませた。
「やっと気がついてくれた」
ラルは溢れそうになった涙を手で押さえる。その涙で、私はようやく確信を得た。時折遭遇した人格が変わったような態度の豹変ぶりは、本当に中身が入れ替わっていたのだ。
「ラルは体を乗っ取られていたのね。あのニャ……」
「その名は言わないで。どこであいつが聞いているか分からないから」
私の口を手で塞ぎながら、金色の瞳を左右に動かして何かを探っていた。
「あいつはまだ、この場所のことを知らないんだ」
「ここはどこなの?」
「混沌の世界。時空のはざま。宇宙の始まりであり終わり。色々な表現がある。でも、ティナにとって分かりやすくいえば、図書館の奥だ」
「ここは神の領域ってこと?」
「そう。正確には神だったものの領域だけど。
あの卒業パーティーの日、神は死んだ。アザトースが召喚されなくても、死ぬ運命だったんだ。生み出し続ける自分のエネルギーを抑えきれずに神は死んだ。そうして、宇宙は全てが消滅し、混沌の世界に戻った。私たちの言葉で魔力と呼ばれる物質だけの世界に変わったんだ。だけど、この状態からなら、宇宙を元に戻すことができる。それができるのはティナだけなんだ」
「どうして私なの?」
「ティナの魂が別の宇宙からやってきたからだ。ゲノス先生も言っていただろう? 時空は観測された時点で状態が確定する。逆に言えば第3者によって観測されなければ、いく通りの形をとることができてしまう。だから、時空を決定するには観測者の存在が必要なんだ。その観測者になりうるのは、この宇宙にとっての第3者であるティナしかいない。
ティナがいなければ、この宇宙は誰かに発見されるまで、ずっとこのままだ。
私はこうして姿形があるけれど、それはティナに存在を認識してもらえたからなんだ」
「どうしてラルは詳しいの?」
「神に飲み込まれて肉体を失ってからもずっと意識を保っていたんだ。皮肉な話だけど、あいつが身代わりになったのかもしれない。だから宇宙が終わる様子をずっと眺めていた。終わり方を知っているから、始め方もわかる」
「それって、私が目覚めるのを待っていたってこと?」
「うん」
私はため息をついた。
「私って、ラルのことを待たせてばっかりだったのね」
ベッドから降りて立ち上がった。機械と私を繋げていたケーブルはいつの間にか消えていた。この病室は私の願望が見せたまがい物の空間だったのだろう。実際には、ニャルラトホテプが話した通りに、私はトラックが当たった時に即死したのだ。自分に都合の良すぎる甘えた幻想を見ていただけだ。
「こんな馬鹿な私を待っててくれてありがとう、ラル」
「当たり前だよ。ずっと昔に約束したじゃないか。2人で助け合って世界を変えるんだって」
2人きりの花園で、小さな手で契った大きな約束。
「覚えてくれてたのね」
「忘れるはずがない」
私の手を握るラルの手は昔と同じく温かかった。これも私の思い込み、いや認識でしかないかもしれないけれど、それでも確かに温かかった。
「私はこの世界を目覚めさせてみせるわ」
ラルと私は扉を開けた。




