第27話 4-1
あれから大分苦労してブローチを外した。おかげで制服の胸元が少し毛羽立っている。
ブローチはハンカチに包んで制服のポケットに入れた。直接触れるとまずい気がしたから。一刻も早くリュシアンを見つけて押し付け――じゃなくて、渡さなきゃ。最初はリリアンに直接渡そうと思っていたけれど、今日はリリアンと揉め事が起きる日だから誰かに渡すことにした。リュシアンなら、リリアンの好感度をあげなきゃいけないから、ちょうどいい相手だ。そう思っているのに、肝心のリュシアンは見当たらない。西棟も東棟もしらみつぶしに探したけれど見かけなかった。
「あと残っているのは中央棟ね。できれば今日は行きたくなかったのだけど……」
今日はループ3日目。中央棟の大階段でリリアンが転げ落ちる日だ。イベントが発生する大階段には近寄りたくなかった。
「でも、今までのイベントは王太子殿下が起こしていたのよね?だったら今回は殿下が協力的だし、気にしなくてもいいかしら?」
それに、リュシアンにブローチを渡すのは王太子の命令だ。それを妨害するようなことはしないわよね。
私は意を決して中央棟に向かった。
大階段は明日の卒業式に備えているためか綺麗に磨かれていた。塵一つなく、人影もなかった。
「なんだ、ここも空振りだったみたい」
あんなに怖がっていたのが馬鹿らしく思えてくる。誰もいない大階段を一歩一歩、確かめながら登った。登りきって振り返ると圧巻の眺めだった。硬度の高い白の天然石で作られた大階段は末広がりになっていて、余計に高く大きく見える。床にシャンデリアの輝きが反射して眩しいほどだった。
「こうしてみると、素敵な場所ね」
もっと早くここに来てみればよかった。上手く行けば明日で卒業するのだから。上手く行かなくても、世界が終わるからこの日が最後になるかもしれない。目に焼き付けておこうと思った。
「このブローチさえ無ければこじれなかったのにね」
ポケットからブローチを取り出した。無垢の象徴である白ユリのブローチは可愛らしかった。
「危ない!」
どこからか声が聞こえた。私は声の主を確認しようと振り返ったが、別の人物と目が合った。
「リュシアン……!」
私の体はリュシアンによって宙に押し出された。
体が斜めになりながら、どこか他人事のように冷静だった。
この大階段では、突き飛ばしたり、突き飛ばされたり、一緒に落ちたりしたけれど、今度はリュシアンに突き落されるのね、と真上のシャンデリアを見上げていた。このままいけば頭から倒れて、後頭部を酷く打ち付けるだろう。
しかし、不思議なことに私の体は天上を見上げる格好のまま止まった。空中に静止したままの私は何者かによって地面へ引っ張り戻された。
「良かった。間に合った。クティアーナ嬢、大丈夫か?」
「ディーゴ、あなたこそ……」
王太子の策略によって暫くぶりに見るディーゴの顔のところどころに鱗が生えていた。顔色はあまり良くない。
「ゲノス先生の課題はいいの?」
ディーゴは顔をしかめた。
「なんとか終わらせた。酷いよな、俺だけ突然補習だなんて。ゲノス先生も意地が悪い」
本当に意地が悪いのは王太子だ。ゲノス先生は誤解されてかわいそうだ。まあ、それ以上にかわいそうだったのは、ディーゴなんだけど。
「大変だったわね」
ディーゴはまあな、と肩をすくめた。ディーゴは自然に私の肩に手をかけてこの場を離れようとしたが、それを止める声がした。
「ディーゴ先輩、違うんです。僕は何もしていないんです。なんでこんなことをしてしまったのか、自分でも分からないんです。リリアンのブローチがあると思ったら、なぜか手が出てしまったんです……」
リュシアンの緑色の目は血走っていた。すっかり興奮していて、話が通じなさそうだった。
ディーゴは少し魚めいてきた大きな目を見開いた。
「どうしてブローチを持っているんだ?」
「朝起きたら私の制服に縫い付けられてたの。身に覚えがないから、とりあえずリュシアン様からリリアンに渡してもらおうと思って持ってたの」
私は握ったままのブローチをリュシアンに差し出した。リュシアンは腕を伸ばしたけれどその手は震えていた。すっかり怯えているらしいリュシアンはブローチを掴もうとして失敗し、弾みで手からこぼれたブローチが床に転がった。
「どうして、ブローチが、逃げるんだ? 僕のことを……リリアンが嫌っているのか?」
「落ち着け、リュシアン」
どこかで見ていたに違いない王太子が現れた。私は昨夜の言い争いが思い出されて気まずくなる。今すぐ離れたいけど、ディーゴが肩を掴んでいたから、動けなかった。
先にいた王太子以外の3人の視線は交差して王太子に集まった。王太子は落ちていたブローチを拾うと、リュシアンの手に押し付けた。
「ほら、これを君にやろう。必ずリリアンに手渡すんだよ」
背筋が震えるほど優しい声で王太子が語りかけると、リュシアンの目がうつろになった。
「本当に、いいんですか? 僕がもらっちゃって……」
「いいんだ。それからリリアンに渡してくれれば」
「そうなんですか?」
噛み合っているような、噛み合っていないような会話を王太子とリュシアンが続けていた。私とディーゴは立ち去るタイミングがつかめずに身の置き場もなくその場に留まっていたが、王太子に行けと手で合図されると、前触れもなく体がふわりと宙に浮いた。上下左右の感覚がかき混ぜられて、胃がぐしゃぐしゃになるような気持ち悪さを経て、気がつけば私とディーゴは中庭にいた。私たちの背後には小さな時空の歪みが出現していた。転移魔法を使われたらしい。
「なんだったんだ?」
「さあ、なんでしょう?」
ディーゴと私は顔を見合わせた。
「王太子殿下って怖いよな。いつも超然としているし、何考えているのかわからないし」
「そうね」
私は全力で頷いた。王太子は怖い。
「さっきは危ないところをありがとう。助かったわ」
「祖父の夢によれば、毎回あの大階段で誰かが落ちていたらしいからな。注意していた」
ループ3回目になると手慣れるのか、ディーゴは淡々としていた。それもそうだ。思い返せばループ期間で同じ出来事を繰り返していたのだから。初日にリリアンと私が廊下でぶつかり、ブローチを落とす、大階段で誰かが転げ落ちて、最後には私が婚約破棄されてアザトースが召喚される。大まかな未来<シナリオ>は初めから決まっているらしい。ちょうど真っ直ぐに伸びた街道の行き先が変わらないように。ゲノス先生が『時間の座標は最初から決まっている』と言っていたことはこのことではないか、と一週遅れで理解することができた。
おそらくだけど、本来はループ毎の変化は街道沿いに建つ建物や木々の種類の違いくらいで、行き先が変わることはない。はず。
しかし、私たちは時空の街道の終着点を変えなければならない。『世界が滅亡する』という終着点を変えて、世界を存続させること。それがこの宇宙に私が呼ばれた理由で、元の宇宙に戻る道筋でもある。確かに、今までもがいても苦労しても成果はなく結末は変わらなかった。だけど、先程は大階段でディーゴが私を助けてくれた。決定された未来『大階段で誰かが怪我をする』を回避できた。このことは大きな意味を持つはずだ。
こうしてみると助かったことが尚更ありがたく思えて、私はディーゴに感謝した。
「落ちた直後に体が静止したのは、ディーゴが呪文を唱えてくれたからよね?」
「呪文? 俺はそんな事していないぞ。ゲノス先生の課題を終えて、大階段に駆け付けたらクティアーナ嬢が斜めに止まっていたんだ」
そうなの? それなら、誰がやったの?
「クティアーナ嬢が踏ん張っているものかと思ってたが、違うのか?」
「違うわよ! あれは静止の魔法だったわ」
全く、ディーゴったら発想が筋肉なんだから。私みたいなひ弱な淑女が逆マイケルジャクソンみたいな体勢を取れるはずないじゃない。
「それなら誰がクティアーナ嬢に魔法をかけたんだ? 呪文の名残りも見えなかったが」
ディーゴの素朴な疑問に対して、私は思い当たる人物がいた。呪文なしでも魔法を扱える人物は私の知っている限りただ一人。
「王太子殿下……」
「うん? 何か言ったか?」
「ううん、なんでもないわ」
私はすぐに考えを打ち消した。まさかあの王太子<ニャルラトホテプ>が人ごときを助けるなんて考えられない。私を見る王太子の視線は、前世の妹が拾ってきた猫が死にかけの蝉を見る時そっくりだもの。わざわざ、私を助けるはずがない。
でも、リュシアンに突き落とされる直前に聞いた『危ない』というあの声は、王太子の声によく似ていた。
「少しだけ信じてみてもいいのかしら……」
私の気の迷いにディーゴが反応した。
「俺のことなら信じてくれていいぞ! 今度こそ、頼ってくれ!」
無意味に元気なディーゴに私は呆れつつも、少しだけ胸のヒリヒリした感覚が和らいだ。
「しっかりしてよ。明日がいよいよ最終日なんだから」
「任せてくれ。夢で予習をしておく」
ディーゴはすっかりクトゥルフが見せる夢に適応してしまったらしい。考えてみればディーゴは相当な恐怖体験をしているはずだ。毎夜、不気味な(クトゥルフが見せる夢なんて狂気に満ち溢れているにきまってる)夢を祖父と名乗る生臭い異形の怪物に見せられて、おまけに夢から醒めるごとに全身が鱗に覆われていく。それでも正気を保っているディーゴは相当タフか、相当鈍いかのどちらかだ。……私もディーゴを見習おうかしら。
次の日、運命の時が訪れた。
卒業式を終えて華やかな装いに着替えた学生たちが次々と広間に集まる。
卒業パーティーだ。




