第22話 4-3
「どこから、話そうか。あれは私がユーラシア大陸の紛争地帯にショゴスを落とした後の帰りだったか。それとも、欲望のままに増え続ける仮想通貨のハッシュ関数の中に呪いを組み込ませた後だったか……。気まぐれに立ち寄った日本という国で異世界転生とか荒唐無稽な話が流行していると耳にしたんだ。転生はまだしも、外宇宙の存在も知らない地球人が異世界に思いを馳せるとは、その逞しい想像力に目を見張ったものだよ。異世界ってどこだろうね? 無数に広がる他なる宇宙のことかな? それとも無限の可能性によって分岐した平行世界かね。平行世界なんて私は見たことが無いけれどね。
まぁ、とにかく。私は異世界転生とやらの存在を知った。そして異世界に転生した人間は都合よく生まれや能力に恵まれ、大抵は前世より幸福な人生を送るストーリーであることも理解した。これは面白い、と思った。異世界に転生すれば幸せになれる。そんな図式が出来上がっているのだ。これを使って一つ、余興をしてみようと考えた。そう決めた私は、死んだ人間の魂をドリームランドに連れて行って遊ばせてやろうと思ったよ。
ただ、その対象者を自分で選んで殺すのは味気ない。だから、次に自分の目の前で死んだ人間を連れて行こうと思いついた。それから私は車が威勢よく走っている道路を歩道橋から見下ろして待った。しばらくすると、とうとう運命の日が訪れた。あれは雨の激しい日だったね。ビル風に煽られて道路に飛ばされた傘を1人の女が取り戻そうとした。見通しの悪い道路では急に入り込んだ人間の姿など見えるはずもなく、その女は2トントラックに轢かれて死んだ。即死だった。その女が、もちろん、君だよ」
覚えているかい? と耳元で囁かれる。私は思い出した。妹から誕生日プレゼントで貰った傘をどうしても拾いたくて、ガードレールを跨いで車が駆け抜ける道路に飛び出したことを。サッと取ってサッと戻るつもりだった。だけど、風が強くて傘が暴れて手間取った。そのうちに、トラックが近づいてきて私は跳ね飛ばされたんだった。
「君の死顔は綺麗だったよ。何が起きたかも理解できずに呆然と目を見開いたままで、実に味わい深い凡庸な表情だった。最期まで傘は離さなかったね」
そうだ。私は跳ね飛ばされた後に、私を見下ろす男と目が合った。その男は雨の中傘も差さずに歩道橋の手すりの上に立って、高いところから私を見下ろしていた。あれが、王太子――いや、ニャルラトホテプだったのね。
「そうだよ。それで、肉体から離れたばかりの君の魂を捕まえて、ドリームランドに連れて行こうとした。しかし、不思議なことに君の魂は私の手の中からするすると抜けていったんだ。何かに引っ張られるようにして魂が上へ上へと登っていった。興味が惹かれた私は、それを追うことにした。そうして君の行く先を辿った結果、この宇宙にたどり着いた。
君の魂はその宇宙で新たな肉体を得ようとしていた。そこで私は閃いた。ここを君が知っているゲームの世界そっくりに改造して遊んでやろうと考えた。幸い、君が新たな肉体を得るまでに時間はあった。この国の様々な人間に干渉し、ゲームの設定に合わせることは簡単だったよ。どうだ? なかなか上手くできているだろう?」
人為的なものは感じていた。この国のあちこちに作為の影が見え隠れしていた。ただ、ゲームの世界だからと自分を納得させていた。だけど、ここが乙女ゲームの世界でないなら、その作為の影は強烈な違和感に変わる。この国は100年前を境に目まぐるしい発展を遂げた。まるで、高度な天文学を引っ提げて地球の人類史に突然現れたシュメール文明のように、他国を圧倒する発展を一瞬で遂げている。天才が綺羅星の如く現れた時代だと歴史家は評するが、当の天才たちは揃って手記や証言に残している。『神が閃きを与えてくれた』と。天才たちの謙虚な言葉だと受け止められていたけれど、ニャルラトホテプの介入によるものだと分かれば、腑に落ちた。
「そうですね。乙女ゲームの世界にそっくりで、すっかり騙されてしまいました」
「その割には冷静だね」
「そうでもありませんわ。驚きすぎて反応する余裕がないのです」
「気に入ってくれた?」
邪神に反抗などできようか? 私はもちろん頷こうとしたけれど動けなかった。王太子の長い手によって顎を掴まれ上を向かせられていたからだった。
「私は君の魂が欲しい。他なる宇宙の創造主に選ばれた君の魂を手元に置きたいんだ。だから、私の許可なしに死ぬことは許さない。例えそれがアザトースでも、邪魔はさせない。他の誰にも君を殺させない。君の魂は私の物だ。わかったかな?」
王太子の金色の瞳が漆黒に変わった。いつか見た宇宙の闇のように暗いその色を見ていると、上下左右が分からなくなる。平衡感覚を失う。王太子に魂を捕らえられてしまえば、永遠に邪神の玩具になる悲惨な運命しか見えない。なのに、頭がぼうっとして王太子の言葉をそのまま受け入れてしまいそうになる。
だけど、私が返事をする必要はなかった。なぜなら、王太子が私を突き飛ばしたからだ。
「殿下?」
突き落されたベッドの下から王太子の顔色を伺った。王太子は悲痛な顔をして叫んだ。
「ティナ、早く行くんだ! ここから逃げて」
「どうなさったんですか、急に」
苦しそうな顔をしている王太子の背中をさすろうと、手を伸ばしたけれどその手は払われてしまった。
「早く、私を置いて行ってくれ。早く!」
早く、早くと王太子がうわ言のように繰り返した。今にも泣きそうな、悲しい声で叫んでいた。その必死さに押されて私は後ろ髪をひかれながらも救護室を出た。救護室の扉を閉めた後、ビリビリと扉が風圧で震える音が聞こえた。濃厚な魔力の気配がする。
「なんだったの? 急に人が変わったみたいに私を突き飛ばしたりして」
最後の王太子の様子は明らかにおかしかった。まるで、突然人が変わったようだった。ニャルラトホテプは千の顕現を持つと聞くし、その何れかが現れたのかもしれない。邪神の生態なんてよく知らないけれど、人格が入れ替わってもおかしくない、と思う。
「でも、やっぱり気になるわ」
廊下を引き返した。邪神の異変に対して私が何かできるとは思っていない。だけど、あの悲痛な表情を放っておけなかった。救護室の前に戻ると、既に魔力の気配は消えていた。扉を少しずつ開けて中の様子を伺う。
「殿下、お加減はいかがでしょうか……」
返事はない。恐る恐る救護室の中に入ったけれど、拒絶の声はなかった。
「誰もいないの……?」
救護室は嵐が通り過ぎた後のように荒れていた。薬品棚から瓶が散らばっているし、椅子は倒されている。窓は開け放たれたままで、カーテンが風にそよいでいた。
夕食を終えて、寮の部屋に戻るとコツコツと窓を叩く音が聞こえた。
「窓から音がするわ。風が強いのかしら?」
不思議に思って窓に近づくけれど、外は穏やかな夜だった。春の爽やかな新緑の香りのする夜だった。開けた窓からは、柔らかいそよ風が吹いてきた。平穏な夜だ。だが、窓を開けてもコツコツという不規則な音は続いていた。
「おかしいわね。どこから音がするのかしら?」
それは偶然だったと思う。私は何気なく視線を上に向けた。そうして、目が合った。白っぽい二つの目が闇夜の中からこちらを向いていた。
「だ、誰!?」
精一杯のプライドで私は声を張り上げた。誰よ、淑女の部屋の窓に貼りつくのは! って、あら? こんなこと、前にもなかったかしら?
「俺だよ。クティアーナ嬢。入れてくれ。この体勢結構つらいんだ」
「ディーゴ?」
私は慌てて、窓を全開にするとディーゴが人間離れしたぬるぬるとした動きで窓から部屋に降りてきた。どうやって4階のこの部屋まで登ってきたのかしら。深く考えると正気を失いそうだったから、
「ありがとな」
「お礼を言われることではないわ……って、どうして私の部屋にやってきたの?女子寮は男子立ち入り禁止よ」
王太子殿下は例外だろうけど。あの殿下に人の法律が適用されるとは思えないし。
「立ち入り禁止なのは知っている。でも、どうしても言っておきたいことがあったんだ」
「なにかしら? そちらの椅子が空いているからどうぞ座って。落ち着かないでしょう」
ディーゴの真剣な様子から長くなりそうだと判断した私は、ディーゴに椅子を勧めた。呪文を唱えて、お湯を沸かす準備をする。窓を開けて夜風に当たったせいで少し体が冷えていたからだ。ハーブティーをティーポットに用意すると、ディーゴの元に戻った。
「それで、言いたいことって何かしら?」
ディーゴは遠慮なくティーポットの中身をカップに注ぎ、飲み干すと言った。サヴィア公爵家御用達の商会のハーブティーで、私のお気に入りだから美味しいのに、ディーゴは味わう気も無く飲み干した。
「俺はリリアンの事を、好きじゃなかった」
「どういうこと?」
「俺はリリアンを好きにさせられていたんだ」




