第14話 3-2、3-1
噴水に落ちそうなリリアンを助けるようとした結果、私は噴水に飛び込んだ。びしょぬれで、身動きが取れないときに王太子がやってきた。人を陥れることにかけては宇宙一の王太子が。
「ラルト様、私は大丈夫ですぅ。ですけど、クティアーナさんが……」
「クティアーナがどうしたんだ?」
王太子は噴水の方に近づき、私の無様な姿を見て白々しく驚いたように目を見開いた。
「水遊びには時季が早いと思うよ? それとも、またリリアンに何かしようとしたのかな?」
私は違うと言おうとしたけれど、私よりリリアンが先だった。
「ちが……」
「違います! クティアーナさんは私を助けてくれたんですぅ!」
「リリアンは本当に心優しいね。それに比べてクティアーナは……」
王太子が私を見下ろしてきた。あの、下水を駆け回る鼠を見るような目だ。これからどうやって痛めつけてやろうか、計算する音が聞こえてきそうだった。間違っても婚約者に対する視線ではない。私は怖くて言葉を失った。喉がカラカラになる。どうしてリリアンは王太子の側にいて平気なのかしら?
「とにかく、怪我をしているかもしれないし、着替えも必要だよね。ほら、手当してあげるからおいで。ゆっくり話を聞こうじゃないか」
親切を装って王太子が私に手を伸ばした。ニャルラトホテプが優しい時には必ず裏がある。それを前回のループで学んだ。きっと、私に拷問でもかける算段に違いない。私は王太子の手を取らず、力を振り絞って立ち上がった。
「結構ですわ。殿下のお手を煩わせるほどではありません。一人で部屋に戻ります。殿下はリリアンさんを手当してくださいな。リリアンさんこそ、私がぶつかった衝撃で腰を打ち付けて怪我をしているはずですから」
ねぇ? と相槌を促すとリリアンが首を縦に頷き、王太子の制服の裾を控えめに握った。
「ほら、リリアンさんも仰っていることですし、殿下はリリアンさんをエスコート差し上げて。それではお二人とも、ごきげんよう」
水を吸って重くなった制服のスカートの裾をつまみ、淑女の礼を取ってその場を去った。
びしょびしょの制服で足を引きずりながら歩いていると、後ろから追いかけてくる人がいた。警戒して振り返ると、そこには焦った表情のディーゴがいた。
「クティアーナ嬢、どうしたんだ? 随分酷い格好じゃないか」
「ディーゴね、良かった。ちょっと噴水で水遊びをしてたのよ」
「水遊びって軽快な感じじゃないだろ。ほら、これを着ろ」
ディーゴは自分の上着を私の肩に被せた。
「ありがとう」
「ちょっと失礼する」
そう言うと、ディーゴは屈んで私の膝の裏に腕を回し、私を持ち上げた。
「な、なにするのよ!」
「足を怪我しているんだろ? 俺が救護室まで運んでやるよ」
「恥ずかしすぎるわ」
「なら上着で顔でも隠しておけ。すぐに着くから」
「もう、デリカシーが無いわね!」
文句をいいつつ、ディーゴの言う通りに上着を持ち上げて顔を隠した。だって、こんな無様な姿を見られたら、淑女として二度と外を歩けないもの。
「着いたぞ。良かったな、先生がいるぞ」
「あら、マティウス君。どうかした?」
「俺じゃなくてサヴィア公爵令嬢が大変なんです。噴水に落ちたらしい。手当してくれませんか?」
「大変だったわね。まずは体を拭いて温めましょう。マティウス君、ありがとうね」
「いいえ。それじゃあ、俺はこれで失礼します」
ディーゴは救護室から去っていった。私にお礼も言わせてくれない。迷惑をかけてばかりだ。
「サヴィアさん。ほら、この毛布を被れば温まるわよ。熱を持つように呪文を編み込んであるの」
救護室の先生に渡された毛布は人肌のように温かかった。
ディーゴが完全に深化してしまえば、これからの一生を冷たい海底の都で過ごすことになる。人との触れ合いとは無縁な海底で。私はもう、ディーゴを巻き込みたくない。今夜は一人で図書館の奥に行く。そして、ネクロノミコンを手に入れて、ニャルラトホテプの手に渡る前に燃やしてしまおう。
そう決心したのに、それは簡単に打ち砕かれた。真夜中に部屋を抜け出して図書館に行くと、例の扉の前に先客がいた。
「来たか」
「ディーゴ、どうしてここに?」
「以前の俺は、ここで投げ出してしまったと聞かされた。だから、それをやり直したくて待っていた」
「まさか昨日も待っていたの?」
ディーゴは私の問いに答えず、視線を逸らした。
「この先に重要なモノがあるんだろ?行こう」
そう言って、ディーゴが真鍮でできたドアノブを回し始めた。当然ながらドアノブは回らない。
「む、開かないな。もっと押せば行けるか?」
「おやめなさいよ。なんでも力で解決しようとしないで」
放っておくとディーゴの馬鹿力で石造の扉を壊してしまいそうだった。既に真鍮でできているはずのドアノブは曲がっている。どんな力よ。
ディーゴは引き返すつもりもなさそうだし、かと言って、私一人で扉の向こうに行けば取り残されたディーゴがニャルラトホテプと遭遇してしまうだろう。そうすれば、ニャルラトホテプに触れられて深化が進むのは間違いない。
仕方がないけど、ディーゴを連れて行くしかない。ゲノス先生から貰った呪文が書かれた紙をディーゴに手渡した。
「呪文を唱えないとドアの向こうに行けないの。ほら、この呪文よ。一緒に唱えて」
「うわっ、なんだこの呪文。変な発音だな。どこで教わったんだ?」
「ゲノス先生からよ。ほら、確認できた? さっさと唱えましょう」
ディーゴが見えやすいように魔法で小さな光を出す。ディーゴは首を捻りながらも、口をもごもごと動かした。練習してくれているようだった。
「練習は充分かしら? せーので一緒に唱えるわよ」
「わかった」
私とディーゴはせーので呪文を唱えた。呪文は相変わらず虫のざわめきのような奇怪な音の羅列だった。唱え終えると、周囲の空気が変わったのが分かった。空気がピンと張り詰めて、皮膚を刺激する。急に攻撃的になった空気が細胞と細胞の隙間から入り込んで、体を崩壊させてしまいそうだった。
「なあ、足が消えているが、いいのか?」
焦った様子のディーゴの声に目線を下ろすと、私とディーゴの体が足先から消えていた。ディーゴが私の腕を掴もうとしたけれど、その手すらも消えてしまった。落ち着きのないディーゴを横目に2度目の私は成り行きに身を委ねた。
「クティアーナ嬢、しっかりしろ。起きろ」
ディーゴの大きな声がする。目を開けると、森の中にいた。前と同じ森の図書館だろう。後ろには扉があった。
「ディーゴも無事に来れたのね」
「ああ。それより、ここはどこだ? 不気味な感じがする。森のようだが生き物の気配が全くしない。風もないしおかしい」
「ええそうね。ここはおかしいわ。だから、さっさと用事を済ませてしまいましょう」
私はスカートの裾を払いながら立ち上がった。何しろ、ここは宇宙の中心で神様の領域らしい。あまり長居しない方がいいだろう。できれば、ニャルラトホテプが来る前に去ってしまいたい。
「ここで何をするつもりなんだ?」
「ある本を探すの。大丈夫すぐに終わるわ」
「本って、こんな薄暗い森の中で探すのか?」
ディーゴは戸惑っているけれど、説明している暇はない。時間との勝負だ。ニャルラトホテプが来る前にネクロノミコンを回収して、処分しないといけないのだから。さっさとネクロノミコンを燃やして扉の向こうに戻りたい。
「あったわ」
記憶を頼りに前回と同じ木の幹を探ると、一際分厚くて古い本が見つかった。ボロボロの装丁を傷つけないように慎重に取り出す。湿った皮の装丁がじっとりと私の手に吸い付く。表紙を確かめれば、ネクロノミコンと書いてあった。
「それが目的の本か? 随分古そうだ」
「そうよ。この本にはアザトースを始めとする神々の召喚呪文が書かれているのよ。これを処分してしまえば、邪神を召喚できなくなる」
ディーゴはそうか、とだけ返した。
「重いだろ? 俺が持つよ」
「いいわ。ディーゴが持つと危ないから」
「そんなに信用ないか?」
私はディーゴの言葉に何も返さなかった。本を持っただけで、鱗の範囲が広がるかもしれないなんて信じてもらえなさそうだったからだ。それに、すぐに燃やしてしまうのだからディーゴの心配は無用のはずだった。
「とにかく、これは危ないから処分するわ。炎を出すから離れてくれる?」
ディーゴが離れたのを確認すると、呪文を唱えた。強力な炎を呼ぶ魔法だ。呪文を唱え終えれば、青白い炎に包まれて本が端から燃えていくはずだった。
「おかしいわ、本に炎がつかない」
もう一度呪文を繰り返したけれど、炎は現れなかった。本は何かに守られるように、魔法を跳ね返していた。
「おかしいわ、どうして?」
どうして炎がつかないの? ちゃんと呪文を唱えているのに。魔力が呪文に乗って発動するのを感じるのに、呪文によって集められた魔力は本の上を滑り流れ、霧散してしまった。
私はムキになって何度も繰り返し呪文を唱えた。
「どうなっているの? 本に防御呪文でもかけられているのかしら?」
「おい! 誰か来るぞ! 走れ!」
ディーゴが私の腕を引っ張り、森の奥へと走り出した。
「ここまで来ればいいか」
暫く走った後、周囲を警戒しながらディーゴは汗をぬぐった。
「はぁ、はぁ、もう、いきなりどうしたの」
体力自慢のディーゴに合わせて全力で走ったから、肺が痛い。
「誰かが来たんだ。とても勝ち目のない強い気配がしたから逃げてきた」
「ええ! それって……」
「静かに! 近づいてくる」
ディーゴは私の口を手で塞いだ。包帯が巻かれた腕からは生臭い香りがする。ディーゴの乱暴な行動に文句を言おうとしたけれど、遠くから近づいてくる足音に息を呑んだ。嫌な予感がする。
その足音はサク、サク、と薄暗い森で懸命に光を求めて背丈を伸ばしていた草を軽快に踏みけながら近づいてくる。足取りからして、人間と同じくらいの姿かたちが想像された。ただ、足音に合わせて空気が震えて木の葉を揺れているのが、ただ事ではなかった。木の葉が足音の発信源の強大さに怯えているように見えた。
信じがたいことに、その異様な足音はこちらへまっすぐに向かってた。
ニャルラトホテプか、王太子なのか。どちらの姿を取っているのか分からないけれど、危険な状況には違いない。どうか見つかりませんように。この宇宙の神様に対して願った。ディーゴは警戒しながら私を抱き寄せた。1秒間に2回間隔で打っている心臓の鼓動が聞こえる。ディーゴも緊張しているのが分かった。
やがて、足音が止まった。それから、この世の全てを嘲笑うようなけたたましい笑い声と共に、辺りの木々がなぎ倒されていった。前回と同じように私の側を太い触手がかすめた。
触手がうねり、木々がバラバラにされていく音が聞こえる。木の中に収まっていた本が宙を舞い、地面に無様に落ちていく音も聞こえる。理由のない暴力を前に私たちは身を潜めているしかなかった。どれくらいの時の間、息を止めていただろうか。やがて、触手の持ち主は、幸いなことに元来た道へ戻っていった。
「行ったみたいだ」
ディーゴは腕に込めていた力を緩めて、私を解放した。私は直ぐに触手によって破壊された場所を見に行った。
「……酷いわね」
酷い有様だった。木々がなぎ倒されて、ぽっかりと空間が空いている。頭上には星々が煌いて、地面には無残な姿の本があちこちに散らばっていた。
「ヤバい奴だったな。学生の制服を着ていたが、まさかあれが王太子殿下の正体なのか?」
「見たの?」
ディーゴは頷いた。心なしか、顔色が悪い気がする。あの恐ろしい触手を見てしまったのだろう。
「そういえば、例の本はどうした?」
「忘れていたわ。ずっとこの重い本を抱えていたのよ。道理で腕が痛いはずだわ」
ディーゴに指摘されて、私はずっとネクロノミコンを胸に抱えていたことを思い出した。
「よかったな。それがあればアザなんとかをどうにかできるんだろ?」
「そうね。本当はこんな危険な本は処分してしまうのが良いのだけど、燃やせないようだし。私たちが持っていれば他の人がこの本を使ってアザトースを召喚することはないはずよ。ネクロノミコンの完全な写本なんて地球でも滅多にないのだから」
「なら、この本を持って逃げればいいんじゃないか? そうすれば、王太子殿下もアザなんとかを召喚できないよな?」
この時はディーゴの考えがとても冴えたやり方に聞こえた。
「その通りね。今すぐ学園から、いやこの国から逃げましょう!」
「いいぜ、と言いたいところだが、逃げるにも準備が必要だ。何しろ、この学園は周囲が崖に囲まれた陸の孤島だ。学園の敷地の外にある街の先にある橋を渡るしか学園から出ることができない。橋の先は王都だ。普通に橋を渡ればすぐに捕まるのは目に見えている」
「それじゃあ、どうするの?」
「大丈夫だ。俺に考えがある。明日の夜に寮の部屋に迎えに行く。クティアーナ嬢も荷物をまとめて準備してくれ」
どうやって? と聞き返したけれどディーゴは答えなかった。ただ、信じろと言うので渋々ながら私は引き下がった。大丈夫なのかしら? 不安だわ。
アザトースが召喚されるまであと2日だ。2日間だけ平穏にやり過ごせば、ループから解放されて元の宇宙、転生する前の世界に戻れるはずだ。
だけど、そんな簡単に行く訳がなかった。だってこの学園にはニャルラトホテプがいる。
次の日、私はなぜだか学園の大階段でリリアンと向き合っていた。
「クティアーナ様、お話があるんです」




