第11話 3-3
ゲノス先生はイースの偉大なる種族だった。ゲノス先生は予想通り協力的で色々と教えてくれた。ゲノス先生の推測によると私はこの宇宙の神様によって連れてこられたらしい。それも世界を救うために。
納得いかないことはあるけれど、やることは決まっている。アザトースの召喚を防ぐこと。そうすれば、元の宇宙に戻れるだろうと、ゲノス先生は言っていた。
「となれば、誰がアザトースを召喚するのか特定しなくちゃ」
ゲノス先生曰く、呪文と魔力さえあれば誰でもアザトースを召喚できるらしい。そんな手軽さは誰も求めていない。難易度設定がおかしいわよ。
「誰が何を召喚するのかな?」
後ろから声をかけられて、私の小さな心臓が跳ね上がった。その声の持ち主が先ほど話題にしたばかりの要注意人物だったからだ。
「王太子殿下……ご、ごきげんよう……」
なぜ王太子がここにいるのだろうか?それも一人で。今は授業中のはずだった。ここは教師の研究室のある東棟で、講義室のある西棟と反対に位置している。東棟と西棟を結ぶ長い渡り廊下を渡る必要があり、用事が無い限り東棟を学生は訪れない。品行方正で真面目な王太子が授業をさぼってまでここに来る意味はないはずだった。しかし、相手はニャルラトホテプだ。邪神の行動原理なんて理解できるはずない。
私は今すぐここから逃げたい気持ちが勝って、足早に立ち去ろうとした。
「どこへ行くの?」
王太子の長い脚が私の行く手を遮った。躓きそうになった私は、王太子の腕に絡めとられた。
「質問に答えて?」
耳元で囁かれる。甘い吐息が耳にかかる。王太子の声が鼓膜を震わせ神経を伝って脳の隅々まで侵してきた。頭がくらくらする。王太子の中身は恐ろしい邪神で、おまけにリリアンが現れてから冷たくされてきたというのに、囁かれただけで私の心は簡単に王太子に靡いてしまいそうだった。いくじなし。
ずっと考えないようにしていたけれど……。
やっぱり私は王太子殿下のことが、中身がどうあっても、好きなんだわ。
「で、殿下……」
私は顔を上げて王太子の金の瞳と目を合わせた。王太子は美しく微笑んでいた。だけど、その瞳の奥は笑っていなかった。
「うん?」
王太子は促すように相槌を打ったが、私は答えなかった。答えられなかった。それまで熱に浮かされていた頭の神経回路が凍ってしまって気持ちが一気に氷点下まで冷えた。優しさを含ませたその声も瞳を見てしまえば白々しく聞こえる。瞳の奥には隠しきれない侮蔑の色がにじみ出ていて、それはちょうど私たちがゴミ捨て場に集る虫を見下ろす様子と同じだった。
私は目が覚めた。
この人は邪神だ。危険人物だ。道理が通じる相手ではない。過去にどんなに優しかったとしても、仲が良かったとしても、愛していたとしても、心を許してはいけない。今すぐ離れないと。
私は自分の頬を思い切り叩いた。ばちんと皮膚が勢いよく弾かれる音がする。耳元で大きな音を立てられた王太子は驚いて私を拘束する手を緩めた。その隙にするりと王太子の腕から抜け出し、離れることに成功した。
「ごめんなさい、なんだか頬がかゆくって、虫にでも刺されたのかしら? 毒虫かもしれませんから、殿下もお気をつけあそばせ。
それでは殿下、ごきげんよう」
王太子に向かって頭を下げると、優雅さを保つことも捨てて速足で逃げた。そんな無様な私を見て王太子は笑っていた。遠ざかってもずっと、廊下の奥から王太子の笑い声が響いていた。
「こ、こわすぎる! なんであの場所に王太子殿下がいるのよ? 授業中のはずでしょう?」
必死に走り、東棟と西棟を結ぶ長い渡り廊下まで辿り着いた。充分に離れて姿が見えなくなったところで、私は足を止めて呼吸を落ち着けた。心臓がバクバクと鳴っているのは、全力で走ったせいだけではない。王太子の得体の知れなさが私を恐怖させていた。
「アザトースの事、聞かれたのかしら?どうしましょう。もし、殿下に聞かれていたら――」
私の余計な一言で、王太子がアザトースを召喚しようと動いたら?もしくは、私がアザトース召喚を妨害しようとしていることを悟られたら? 今度こそ王太子に殺されるかもしれない。
そんなことを考えながら長い廊下を歩いていると、妙に説明口調の台詞が前方から聞こえてきた。
「わぁ~! 風で先生から教室に運ぶように言われたプリントが飛んでっちゃう~。
たいへん! 追いかけなきゃ! どいてどいて!」
リリアンだ。そうだ、今日のリリアンのぶつかりイベントは渡り廊下で発生するのだった。今回は前回と違って正面からリリアンが向かってきた。風に飛ばされたプリントが視界を邪魔したけれど、私は真正面から彼女を受け止めた。
「うっ……」
受け身を取れたけれど、やはり痛い。リリアンの頭が私のみぞおちに入り、息が詰まった。
「ごめんなさぁ~い! 前見ていなかったの……って、クティアーナ様! きゃっ、こわい」
「いいえ……、それよりも……リリアンさんは、お怪我はないかしら?」
「えっ? 私ですか? 痛いところはないですけど……?」
リリアンがピンク色のふわふわとした髪を揺らして、自分の手や背中を見回していた。落ち着きのない元気そうなその様子に、私はひどく安心した。
「リリアンさんが生きてて、良かった」
「クティアーナ様ったら、大げさですね! 転んだくらいじゃ死にませんよ~。ええっ、ちょっと、どうして泣いているんですか?」
リリアンに指摘されて、頬に触れると指に生ぬるい涙がまとわりついた。
「どうしてかしら? ごめんなさいね、本当に……」
嘘だ。私が泣いた理由は分かりきっている。前回のループでリリアンを殺した罪悪感だった。私はリリアンの最期の姿をくっきりと今でも覚えている。血に染まった階段に転がる桃色の肉片。目の前にいるリリアンが生きていることが信じられない。
私は縋るようにリリアンの白い手を握った。リリアンの手は温かかった。
「本当にごめんなさい。私がしたことは許されないし、許されると思っていないけれど、それでも二度と貴女を死なせないわ」
リリアンは「え?」とか「どういうこと?」と戸惑い、目を白黒させた。それでもリリアンは私の手を振り払わなかった。
「えええ? クティアーナ様どうしたんです?
ぶつかったことなら気にしないでくださいっ! 私もちょっと慌ててたのでっ」
リリアンの言葉に対して私は首を横に振った。リリアンはどうやら前回のループのことを全く覚えていないようだった。だとしたら、ループのことを話しても混乱させるだけだ。覚えていなくても、私のした事は無くならない。
「……ごめんなさい」
ひたすらに謝るだけの私にリリアンはよく分からないけれど、と前置きして言った。
「よく分からないけど、許します。だって、クティアーナ様が心から反省しているみたいだから」
「そんな、私は、許される訳にいかないわ」
「もう、頑固ですねっ。私が許すって言っているんですよ! だから、もう泣かないで?」
リリアンは可愛らしい花の刺繍がついたハンカチを私に差し出した。顔を上げると、リリアンが優しく微笑んでいた。天使のような笑顔が、眩しかった。
ヒロインだ。リリアンはまさしくヒロインだった。
「ありがとう」
私はハンカチを受け取り、頬に流れた涙を拭いた。ハンカチは清潔な石鹸の香りがした。私はリリアンが王太子を始めとする攻略キャラから好かれる理由が分かった気がした。
「いいんですよ~。あ、ラルト様だわっ!」
リリアンが立ち上がり散らばったプリントを回収したところで、すぐに手を止めて西棟からこちらに歩いてくる人物に手を振った。西棟から歩いてきた人は王太子だった。私はあり得ない事態に体が硬直した。
どうして、東棟にいたはずの王太子が反対の西棟から歩いてくるの? 東棟から西棟に行くには中央棟を経由して大廻するか、この渡り廊下を歩くしかない。中央棟を通って1週したにしては、時間が足りないはずだった。
「大丈夫かい? リリアン」
「大丈夫ですよぅ! ちょっとプリントが風で飛ばされちゃいましたけど」
「それは大変だね。私も手伝うよ」
王太子が呪文を唱えると、そよ風が吹いて廊下中に散らばっていたプリントが一瞬でリリアンの手元に集まった。
「うわあ、すごい! ありがとうございますぅ。助かっちゃいました」
「いいんだよ。困っている人がいたら手を差し伸べることが王族としての努めだからね。そう思わないか、サヴィア公爵令嬢?」
リリアンに笑顔を向けた王太子が、私に冷たい視線を送った。石のように固くした私の体が、大理石と同じくらい硬くなった。
「大方、サヴィア公爵令嬢がぶつかってきたんだろう? リリアン、怪我はないかな?」
「ちがいますよ、ラルト様。私が不注意だったんです。それに涙を流すほど、たくさん謝ってもらいましたから、私は気にしてません。ほら、行きましょうよ」
「ふーん、泣くほど謝ったとはね……」
王太子の冷たい声の響きに、私の心臓は釘を打たれたように動きを止めた。
王太子<ニャルラトホテプ>は何もかも見透かしているのではないか?私が前世の記憶を持っていること、この世界をループしていること、そしてアザトース召喚を妨害しようとしていること。
「あ・・・……あ、」
弁解したくても言葉は続かない。王太子の放つ冷気に圧倒されて頭が回らなかった。例え、頭が回っていたとしても碌なことは思いつかなかっただろうが。
王太子は私の顔を執拗に眺めて、それから美しく微笑んだ。夜空に輝く満月のように美しい微笑みは、なぜだか私をゾッとさせた。
「行こうか、リリアン。先生が待っているんだろう?」
「そうですよ! いきましょう」
リリアンと王太子は東棟の方へ去っていった。私は、怖くて腰が抜けたまま立ち上がれなかった。
「いつ、どうやって殿下は西棟に? さっきまで東棟で私の目の前にいたはずなのに……それにタイミングを見計らったように現れるなんて、分身でもしているのかしら……」
そこまで口にして私は思い出した。
ニャルラトホテプは千の化身を持つという。であれば分身を作り出すことなど造作もないのかもしれない。無数の同じ顔をして、同じ声で話す王太子達が私に向かってくる光景を想像した。血の気が引く。
「もしかして、無数の化身に監視されてたりするのかしら……」
有り得る。だって、王太子がやってくるタイミングが良すぎる。リリアンのイベントが発生して、私の立場がまずい時に必ず現れる。今までは乙女ゲームのシナリオだから仕方ないと思い込んでいたけれど、果たして全てを嘲笑う存在のニャルラトホテプがシナリオ如きに操られるだろうか?
むしろ、私を監視して私を陥れるタイミングを見計らって出て来ていると考えた方が納得感がある。ゲノス先生の研究室から出てきた時に遭遇したことも説明がつく。シナリオ以外の行動を取ったから、怪しんでいたのではないか。
「そうすると、王太子殿下以外に邪神の化身がいる……? 私の監視のために……」
私は怖くなって辺りを見回した。リリアンと王太子が去って、誰もいないはずの渡り廊下には見覚えのある人物が立っていた。
「リュシアン様だわ」
大神官の息子、リュシアンだった。
前回のリュシアンは私を嫌悪している様子を隠しもせず、冷たい視線を向けてきて、心を抉った。もうあんな目線を向けられたくない。私はここからすぐさま逃げようと立ち上がった。
「クティアーナ様、待ってください」
歩き出した私に対して後ろから声がかかるが、無視する。どうせ、リリアンにわざとぶつかっただろう、などと因縁をつけられるだろうから。
「お願いです、待って」
腰が抜けていたせいで、ノロノロと歩いていた私は、あっという間に追いつかれて肩を掴まれた。幼いころから知った間柄とはいえ、淑女の肩を掴むなんて無礼である。私の制服に皺が寄るほど強く掴まれたリュシアンの褐色の手を振り払うと、リュシアンを睨みつけた。
「なんです?」
リュシアンは繊細そうな眉を悲壮な形に歪めていた。血の気が引いていて顔色が青い。必死さが全身からにじみ出ていた。
「リリアンから何を貰っていたんですか?」
「何って……ハンカチを借りただけですけど」
「ハンカチかぁ。いいなぁ。ねぇ、お願いです。みせていただけますか?」
「ええっ!?」
予想外の言葉に私は驚いた。というより、引いた。ドン引きした。ハンカチを見せてほしいという発言もそうだけど、リュシアンの表情が異常だったから。ハンカチと聞いた時、リュシアンは、目を爛々と輝かせて口を薄く開けてうっとりとため息をついた。恍惚を超えて、生々しい表情をしている。オブラートに包んで表現するなら、イタリアのローマの教会にある『聖テレジアの法悦』のように、意識がイッてしまっていた。
リュシアンは触れれば折れてしまいそうな繊細そうな輪郭の美少年だ。攻略対象の中では年下担当で母性をくすぐるタイプの美形だった。だけど目の前のリュシアンはハッキリ言って、き、気持ち悪い。
「ねぇ、いいじゃないですか。ハンカチを見せてくださいよ。リリアンはハンカチ一枚一枚に自分で刺繍しているんですよ。レースのハンカチが買えないからって、自分で努力しているんです。かわいらしいですよね。いいなぁ、クティアーナ様はハンカチをもらえて。おまけにリリアンにこれまでの悪行を許してもらえて。ずるいですよ、僕は一度も声をかけて貰ったことがないのに」
リュシアンは一方的に言葉を紡いだ。雪崩のように迫ってくる重い言葉を受け止めきれない。受け止めたくない。リュシアンはこんなに頭のおかしい人物だっただろうか? 言いたくないけど、ストーカーみたいだった。とにかく、偏執的な人物とは距離を取るに限る。
「ごめんなさい、先を急いでいますの。怪我をしたから早く救護室にいきたいの」
「そ、それなら僕が光魔法をかけて差し上げますよ? リリアンの足元には及びませんが楽になりますよ?」
リュシアンがニタァと笑い、緑の瞳を怪しく光らせた。瞳には明らかに嫉妬の炎が宿っていた。嫌な視線にぞわぞわする。いくら儚げな美形でも無理だ。
「結構です。リュシアン様にそこまでしていただく必要はありませんわ」
ごきげんよう、と残して今度こそ脚に力を入れてなりふり構わずダッシュした。幸いにもリュシアンは追ってこなかったけれど、あのベタベタとした視線が残っているような気がして気持ちが悪かった。
「う~とんだ目に遭ったわ。リュシアンってあんな気持ち悪い性格していたかしら? 確かに、ゲームでもヤンデレ気味だったけれど、行き過ぎだわ。あれじゃあストーカーよ」
うすうす思っていたけれど、この世界はゲームとまるきり同じではないらしい。クールキャラだったゲノス先生は間が抜けているし、正統派騎士キャラだったディーゴは脳まで筋肉でできているし、儚げ美少年リュシアンはストーカーで、キラキラ完璧王太子は全てを嘲笑う邪神だ。
「この世界はゲームじゃなくて現実ってことかしら。それはそうよね。元いた地球のある宇宙とは別の宇宙らしいし。それなら、偶然ゲームと似た世界なのかしら?」
乙女ゲームとそっくりな世界なんてあり得るのだろうか? 剣があって、魔法があって、貴族の子弟が通う王立魔法学校がある上に、ゲームと似た人物が集まるなんて天文学的な確率ではないだろうか?
偶然にしては、できすぎている。
「誰かの作為があると考えた方が自然よね」
そして、そんな無駄に手の込んだことを好んでやる人物は、1柱しか思いつかない。
「全く、人の人生をなんだと思っているのかしら!」
私は怒りながら救護室の扉を開けた。すると、そこには先客がいた。包帯を腕に巻いたディーゴだ。
「クティアーナ嬢、すまなかった!」
ディーゴは私の顔を見るなり土下座した。




