第25話 「憧れた理想」
――『完璧』な人間に、憧れていた。理由は分からない。ただ、幼い頃からそれを目指していた。そういう存在であろうと思っていた。当然、完璧な人間なんていない。そもそも完璧が何を指しているのかということさえ、個々の想像に左右されるだろう。だから自分の中にある『理想』を指して、完璧だと考えることにしていた。そこに至るまでの道は長い。到達点は絶望的なまでに遠く、おそらく辿り着くことは永遠にない。だが、歩み続けることに、努力し続けることにこそ価値があると思っていた。完璧な人間とは努力を止めない人間を指していると、思う。だからどんな状況であっても、遠き理想に向かって手を伸ばし続ける。そういう風に日々を過ごしてきた。何か一つ、選択を迫られる度に「俺が理想としている完璧な人間であるなら、ここでどういう行動をするか」と思考した。その積み重ね。ひたすらに、繰り返しの日々だった。見知らぬ誰かを助け、迷子の子供を見つけては声をかけ、重い荷物を持っている老婆がいれば代わりに持ち、電車で辛そうな妊婦や老人がいたら席を譲る。そういったことを当たり前にやり続けてきた。ただ、そういう人間で在りたかった。それだけの理由だった。人当たりも良く、常に明るく、話しかけやすさを意識した笑顔を浮かべ、周囲の状況に気を配り、各々の性格に合わせた接し方を心がけ、理不尽がないように人間関係を作ってきた。もちろん、いまだ完璧ではない。だから失敗をすることだって多かった。至らぬ点だって多数ある。その度に反省をした。けれど、皆はその努力を認めてくれた。「頑張ってる」と褒めてくれた。「私は貴方のおかげで助かった」と笑顔を見せてくれた。嬉しかった。ありがたかった。涙が流れた。そこには、その笑顔には、確かにたゆまぬ努力の価値があった。あると思わせてくれた。
その人望は、最初に完璧を目指したときには分からなかったものだった。目指した完璧が、理想が、恋焦がれたその到達点が、間違いではないのだと証明してくれた。
――だから、柊悠斗は、諦めずにここまで来ることができた。
異世界に召喚され、帝国の勇者という立場になり、多くの人々の未来を背負ったとしても、ただ理想だけを、完璧だけを追い求めて、自身の行動を選択し続けた。
草薙という見知らぬ男に協力し、共に黒ずくめの怪物――彼が言うには初代勇者の退治に当たっているのもひとえにそれが理由だった。悠斗の理想とする人間なら、この場面では街を護るために戦うだろうと思ったのだ。そうして、すぐに打倒し、救済し、人々が無事に避難できるよう外の魔王軍も追い払う。それが理想。だが現実はそう甘くない。だから必死に戦いを続ける。理想に少しでも近づくために、集中力を研ぎ澄まし、限界を越えた力を発揮し、どうにか草薙の援護を続けていく。――しかし。
「ホッホ。素晴らしい集中力ですのぅ」
そこで。
後方から絶望を告げる悪魔の声が聞こえてきた。
◇
草薙が声を上げる暇もなかった。否。正確には『もうすべて終わっていた』。背後をグライブに取られた時点で悲劇は約束されている。なぜなら、彼は奇術師。神谷士道と同じように、その天職を武器に変えた老練の絶対強者。持ちうる固有スキルは『心象結界』。柊悠斗は、そして草薙竜吾は――すでに、その結界の内部に囚われ、そのうえで真後ろを取っている。抵抗する隙など、あるはずがなかった。と、いうよりも。
草薙が『心象結界』に騙され、見ている光景を誤認していただけで――
「ま、さか……」
――柊悠斗は、すでにその心臓を貫かれていた。
◇
しかし。
それすらも幻覚だった。
草薙が体内で魔力を循環させ、幻術を跳ね飛ばすと、悠斗の姿がかき消える。
同時にグライブの姿も溶けるように消えていった。幻術の飛ばしあい。異常なまでに高レベルなお互いの騙し合いだった。それも当然。
片や妖術を操る帝国の勇者に、片や奇術を操る老練の上位悪魔。
専門外の者に、その理屈が理解できるはずもない。
草薙はひとまず悠斗が死んでいないことに安堵の息を吐いたが、直後、肌を粟立たせた。そうだ、安心している場合ではない。それどころか命の危機は目前まで迫ってきていた。
なぜなら悠斗がグライブとの戦いに集中せざるを得なくなったということは。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
草薙がたったひとりで、初代勇者を抑えなければならないことを意味していた。
それは草薙の身を支えていた、一縷の望みが失われた瞬間だった。
状況が、一瞬で変わる。
草薙の目ですら追いきれない速度で肉薄。下から救い上げるように剣が振るわれた。その鋭い太刀筋をどうにか剣で防御し、たたらを踏む。と、もう一歩前に踏み込まれた。一瞬でも隙を見せれば、押し負ける要因になる。ドッ!! と、呻く間もなく膂力だけで後方に吹き飛ばされた。いくつもの瓦礫を吹き飛ばし、建物を突き破ってようやく静止する。
喀血した。視界が薄くぼやけていく。駄目だ。勝てるわけがない。何度も、頼りにしてきた相手だ。彼がいるならきっと何とかしてくれる。その信頼があったから、草薙たちは戦争を乗り越えることができた。そのレベルの男だった。存在そのものが皆の力になれる存在だった。勇者。絶対的な、人々の希望。その最高の形。ある意味では柊悠斗が目指していたものの頂点とはいざ知らず、草薙はただ地面に倒れ伏す。絶望だけが、その脳内を埋め尽くしていた。この男が敵に回るのなら、この世界に未来などないと本気で思った。
『クサナギさん……』
――だけど。
足音を鳴らして近づいてくる影を感じ取り、強引に立ち上がって剣を構え直した。
脳裏に過ぎる影があった。薄桃色の髪をした治癒術師の女性。彼女は悪魔だった。魔王軍に所属していた中位悪魔。だが大切な人だった。護ると決めた相手だった。彼女が暮らしているこの世界を救ってみせる。そう決めた相手だった。それすらできずに何が英雄か。格上を乗り越えられずに、誰が英雄を名乗れるというのだ。
『くさ、なぎ……?』
『そう。俺の名前だ、ちゃんと覚えとけ』
『……へんな、名前』
『うるせえよ』
――そして、もう一人。百年の時を越えて、探していた人がいた。戦争が終わる間際、炎で焼かれた村で見つけた少女だった。吸血鬼。不老の種族。家族や友達、そのすべてを失った少女だった。草薙が救うことのできなかった存在。だからせめて、生活の世話をした。保護者の代わりを務めていた。いつの間にか義理の娘ということになっていた。それだけの愛着ができていった。だから女神の術式に巻き込まれ、『白い空間』に現れたときにはすでに百年の時間が過ぎ去っていたとしても、今でも行方不明の彼女を探している。まだ居場所は分からないけれど、きっと大きくなっているのだろう。会いたかった。会って、積もる話をたくさんしたいと思っていた。吸血鬼なのだから死んでいる可能性は低い。年齢は追い越されていて奇妙な感覚だけれど、家族だと思っていることに変わりはないのだから。――ならば。そうだとするのなら、こんなところで敗北している場合ではないだろう。絶望に打ちひしがれている場合ではないだろう。諦めている場合ではないだろう。彼女らを護るために、幸せな未来を紡ぐために、この世界を、救い上げるために。
――眼前の怪物を、斬り捨てなければならない。
「う、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
踏み込む。剣を交え、切り払い、極限まで集中力を研ぎ澄まして対抗していく。
――違う。草薙は歯を食いしばって戦いながら、思う。なぜこの怪物を初代勇者だと思っていたのだと。確かに剣筋は彼のものだ。肉体だって、彼のものだろう。
だがその剣に初代勇者の意志はない。彼の正義は、信念は乗っていない。あの何があっても何とかしてくれるという絶対的な安心感を、この怪物は宿していない。
この黒ずくめの怪物は初代勇者のなれの果て。こんな惨状を引き起こすような存在だというのはありえない。だから彼そのものではない。――絶対に。ならば、斬ることを躊躇う理由はどこにもない。草薙は、彼を踏み越えて先にいく。
――だが、そこで疲労が限界に達したのか、草薙の膝ががくっと落ちる。
それは完全な隙だった。怪物の剣が草薙の体を明確に捉えた。上から下へと、肉を抉るように切り裂かれていく。あまりにも滑らかな斬撃に怖気が走った。
だが、ここにしか勝機はなかった。草薙は怪物の懐に踏み込んでいく。自ら、その傷口を広げていく。流石に黒ずくめの怪物にも動揺が見えた。自ら殺されにいくとは思っていなかったからだろう。引けばまだ助かったかもしれない。だが、これは間違いなく致命傷だ。だが、草薙はそれでも揺るがずに怪物を見据え、その無骨な剣を袈裟斬りに振るう。
鋭い剣閃が迸り、一瞬の静寂が訪れた。二人の体が交差し、着地。
――直後。
二人同時に赤い血を噴出させ、そして草薙だけが地面へと倒れこんだ。
「ちく……しょう」
命懸けの一閃。
それでも草薙は怪物に届かなかった。それは、血の海を作り上げている傷の深さが証明していた。このままでは確実に死ぬ。とはいえ、草薙とて、死ぬつもりで戦いを挑んだわけではなかった。だが、それはこの攻撃で怪物を打倒することが前提の作戦。今となっては、逆効果だった。草薙は薄れ行く意識の中で焦燥感を覚える。
――予想の、通りに。
「クサナギさん!!」
隠れていたララ・フェルシアが、草薙を治癒するために飛び込んできた。
その目に涙を浮かべて。これまでずっと我慢して、足手まといにならないように隠れていたけれど、草薙を失うことだけは許容できないと、そんな表情で。
「く、るな……!」
彼女では黒ずくめの怪物に敵わない。絶対に。だから、無謀だった。彼女の行動を計算に入れた賭けであったのなら、負けたときのことも考えるべきだった。それしか勝機がなかったとはいえ。だが後悔している暇もない。草薙の意識が落ちていく。駆け寄ってきたララはすぐに草薙の治療を始めた。だが、今すぐ逃げろ、ともはや声に出すこともできなかった。彼女の涙が、ポタリと滴り、頬を滑り落ちていく。
そして草薙の意識は、闇に閉ざされた。




