第22話 「神秘、科学者と共に」
『白い空間』。松山でさえ何一つ理解不能な、その領域。
そこにわけも分からず飛ばされたとき、まず松山には歓喜が湧いた。まだ自分が知らないことが、理解できないことが、こんなにもあったのか、と。とても嬉しかった。
そうしてイリアスの説明を受けて異世界に下り、わけのわからないものにたくさん遭遇した。未知が次々と降りかかる道中に、興奮が抑えられなかった。それを少しずつ理解していくにつれ、また新たな現象に興味が湧いた。生きていて良かったと、そう思った。
けれど――同時に、松山はほんの僅かな後悔が残っていた。
なぜなら、あの瞬間。
松山たち転移者が『白い空間』へと召喚された、あの瞬間。
「忍術、だと……?」
世界の法則を知り尽くしたと思っていた松山は――地球、それも、日本に残されていた最後の神秘に、ようやくたどり着いていたからだ。
◇
「ぐ……ああ…………っ!」
松山鬼一は片膝をつき、苦悶の声を上げていた。
士道に斬られた背中から、継続的に痛みの波が押し寄せてくる。
――不覚だった。起き上がれるはずがないという、思考の停止が招いた惨状だった。動揺しすぎていたのだ。科学者が予想外の事態に「ありえない」と思う――それこそが傲慢の証だった。いつからこんな風になってしまったのだろうかと、松山は思う。
敵は仮にも奇術師の天職。松山を騙しにくる戦術など、最初に想定してしかるべきだというのに。これは、ただの慢心だ。自分の計算を信じすぎていたのだ。
「だが……負けたのは結局、アナタ、なのデス」
一刻も早くこの場から離れるべく、松山は足を引きずって歩き続ける。まずは自分の命が大切だった。これがなければ何も研究することはできない。それによる喜びを感じることもできない。
だから倒れ伏して、今度こそ死んだであろう士道のことはどうでもよかった。
瓦礫をよじ登り、荒い息を吐きながら、アルスフォードの外縁に向けて歩き続ける。その近くには、簡易的な松山の研究所があった。ほとんどが地下研究所に設備を移され、その場所には何もないに等しいけれど、医療用の道具はまだ残されていたはずだ。
だから、そこにさえ辿り着けば、背中の応急処置を済ませることができる。負傷具合は把握している。士道は失敗した。松山はまだ、死ぬことはない。そう思っていた。
瓦礫の下を潜り抜け、崩落した範囲を越すと、まったく人気のない裏通りに入っていく。
この都市を抜け出したら、また一からやり直しだと――そう思っていた。
だから。
チキ、と、背後で剣を掴み直すことが聞こえたとき、松山は絶望を覚えた。
――だが、神谷士道だというのは今度こそありえないはずだ。
彼は完全に気絶していたし、あの傷なら数分と経たずに死ぬだろう。
これは流石に慢心ではないと言い切れる。だから、別人のはずだ。けれど、この状況で松山に敵意を持って現れる者なんて、いるはずが――そして、直後に理解が及んでしまった。
「ねえ……『異界同盟』の首魁って、きみで合ってるよね?」
爆発的な殺気。それはどす黒い闇にも似ていた。憎悪から生み出された何かに導かれるように、松山は緩慢とした動作で振り向く。
すると、そこには白の魔導服に銀の聖剣を手にした、光の勇者が佇んでいた。
白崎大和。ミラ王国の勇者。
だが、その女神の如き美貌から放たれる眼光は、とてもこの世のものとは思えなかった。
深い絶望。圧倒的な黒。それが松山に向けられている理由は分かっていた。
分かっている、つもりだった。
アイリス・ミラーリン。ミラ王国第三王女。
大和と共に日々を過ごしていたその少女を、松山たちは殺した。ただ、その固有スキル『未来視』が、世界延命の研究のために必要だという理由だけで。だから、恨まれることは計算に入れていたつもりだった。その考えが甘かったと、大和の眼光を見て、認識せざるを得なかった。黙っている松山を見て、大和は酷薄に笑う。その笑みに感情は見えなかった。どこまでも透徹な瞳だった。彼は言う。ひどく不気味に感じるほど滑らかな声で。
「聖剣よ、光を宿せ」
――これのどこが光だと、松山は思った。大和の固有スキル『聖剣』が起動し、裁きの光が宿っていく。初代勇者の聖剣は、人々の希望を背負う光を宿していたと聞く。だが、対して、この男はどうだ。その光には絶望しか見えない。ただ憎悪と哀しみの奔流がそこにあるだけだ。松山は彼を恐れた。畏怖にも似た感情を覚えた。
一歩、足を退きつつ、何とか口を開く。
「答えなければ、斬るよ」
「ワタシは――」
松山は答えようとしつつ、即座に右手を上げて『衝撃』を放った。否。正確には、大和の腹部に向けて、放とうとしていた。
その瞬間には、すでに右腕が斬り落とされていた。
「……な」
あまりにも滑らかに右腕が落ちていく。痛みすら遅れてやってきた。
異常なまでの反射速度。決して、動きそのものが速いわけではない。動き出すまでの判断が速すぎるのだ。人間の限界を越えているほどに。
「斬ると言ったよね」
淡々と。
あくまで淡々と、白崎大和は問い続ける。
「……確かに、『異界同盟』の首魁は、ワタシ、デス」
松山が冷や汗混じりに答えると、大和はふっ、と、力を抜いたような笑みを浮かべた。
「良かった」
本心からの笑み。やがて聖剣を振りかぶりつつ、光の勇者はこう言った。
「これできみを、生かすことができる」
理解ができずに、松山が眉をひそめる。直後の出来事だった。大和が光を放ち、それがダラダラと血を流す松山の右腕、その傷口を焼き尽くした。声にならない絶叫が炸裂する。松山といえど、暴れまわる激痛に対して、冷静ではいられなかった。気づいたら、左腕も地面に落ちていた。どころか、いつの間にか仰向けに倒れていた。足がない。その感覚がない。あるのはただ猛獣の如く暴れ続ける激痛のみ。松山はもはや死を覚悟していた。けれど、先ほど大和は「生かす」と言っていた。その言葉に、一縷の望みを託す。
しゃがれた声音で、嘆願した。生かすべき理由を、言葉に乗せて。
「ワタ、シを生か、してお、かな……ければ、この世界は、滅びる……」
――それでもいいのか? と、言外に問いかける。
眼前の大和とて日本人だ。松山の功績は知っているだろう。その松山が言っていることなら、正しいのかもしれない――と、そう思ってくれるかもしれない。
通じなかった。
「あ、お、ぐおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?」
四肢を削がれ、傷口を光で焼き尽くし、強引に塞がれ、さらに痛覚を刺激してくる。悪魔だと思った。人の憎悪というものは、ここまで恐ろしいものだったのか、と、今更のように松山は思う。幼い頃に絶望してから、人間と、その心理の研究はしていなかった。それが仇になったのだろうか、と痛覚が麻痺してきた思考の中でぼんやりと考える。
それでいて大和はどこまでも透徹とした瞳のままだった。復讐の最中だというのに、何の感情も窺えない。ただ、彼は松山に告げる。
「ぼくは、この世界を救う」
軽く、風にでも流されそうな言葉だった。
だが、その声音からは、嘘とも本当とも取れない。
ただ淡々とした色合いだけがあった。
――けれど、その先に続く言葉は、予想がついていた。
「だから、君はもうこの世界にはいらないんだ」
――殺してはくれなかった。
「存分に、夢の世界で楽しんでいてほしい」
松山は大和が予め用意していた薬のような何かを服用させられ。
地獄のような激痛だけが繰り返される、精神の世界へと落ちていった。




