第13話 「英雄の理由」
気が狂いそうだった。否。既に狂っていた。とうの昔に精神は荒ぶる暴虐に蹂躙され、新城蓮はひたすらに悲鳴を上げることしかできなかった。いったい何が起きたのか分からない。理解できない。したいとすら思わない。
『白い空間』から、宙空に突如として投げ出された新城は、なす術なく地面に開いた大穴を落下し続けた。
果てしなく続くかと思った大穴の底に溜まっている湖のような場所に、砲弾のような勢いで着水。
激痛で脳が弾け飛ぶかと思った。全身の骨が圧し折れ、耐え切れない負荷に筋肉が軋み、肌を切り裂いて大量の血が噴き出した。
間違いなく死んだ。これだけ長い滞空時間があったのだ。いくら地面でなかったとはいえ、人体の限界はとうに越していたのだ。
そう思っていた。
だが。
「――」
激痛が脳を苛み、明滅する意識の中で新城は違和感を捉えていた。てっきり湖に落ちたと考えていたのだが――これは、水ではない。もっと異質な、重たい感触の液体だ。それが新城の体を包み込み、夥しい量の血を流す傷口から入り込んでいく。無理やりに肉体を侵食されている感覚があった。激痛に激痛が重なり、いったい何を考えているのかすら定かではなくなった。
だからこのとき、新城の中にあったのは細かい理屈などではない。ただ、純粋なまでの願い。
理不尽に対する復讐心だった。
どうして、こんな目に合わなくてはいけない。
決して裕福な暮らしだったわけではない。
安月給の仕事は割に合わないほど忙しく、それを慰めてくれる恋人もいなかった。幸せだったと断言できるわけでもない。
だが、新城なりに築き上げてきたものが確かに元の世界には存在した。腐れ縁のような友人。悪態をつくだけの家族。生意気な後輩。普段なら苛立ちを感じるような連中が――それでも、失いたくはない存在だったのだと、今更のように気づいた。
「なに、が……女神の使徒だ……ッ!!」
吼える。湖だと思っていた場所の中で、なぜ呼吸ができているのか気づきもせずに。
この世の理不尽に、ただひたすらに慟哭し、天使長と名乗った男を憎悪し、人を道具のように利用する女神という存在に殺意を抱いた。
――殺して、やる。
「『女神』が、憎いか?」
『魔神』の呼び声が新城の耳を叩いたのは、丁度そのときだった。
♢
百年も前の話。
だが、草薙にとっては数ヶ月も離れていない、そんな過去の記憶。
魔王軍との戦いは熾烈を極め、理不尽な災厄である龍魔王ウォルフを封印した草薙は、初代の勇者と連携して不死魔王を追い詰めていた。
「……私は、どうしても、何があろうと、ゲルマ様を再臨させなければならない……!!」
そんな雄叫びを放った不死魔王の眼光を、草薙は昨日のことのように思い出せる。
初代勇者の異様なまでの才能に満ち溢れた力に叩き潰され、傷だらけの肉体を引きずりながら、
「何のための、『不死』だと思っている! 私という存在が、ゲルマ様の『鍵』そのものだからだ!」
不死魔王は吼えた。魔神への妄執を。
己以外の悪魔は全滅し、もはや抵抗の意味などない状況で、なお。リーファは、それこそが己の信念であり生きる理由であると証明するように。
「……そうか」
落ち着いた声音で、初代勇者はその言葉に返答していた。龍魔王を封印した草薙は、霊魔王を討った初代勇者と並び立つ英傑と称され、実際に戦場で協力を試みていたが、その力の差は歴然だった。
才能の決定的な違い。
初代勇者の暴力的なまでの才覚は、不要なまでの努力によって磨かれ、この世の誰にも太刀打ちできないものとなっていた。そんな、きっと誰もが憧れる英雄は、光り輝く『聖剣』を構え、告げる。
「だが、それでも、俺は貴方を討つ。殺せないのなら封印しよう。この世界で、貴方の行いに苦しめられている者がいると知っているから」
「戯れ言を……!! そんな綺麗なだけの理屈を振るう者に、この私がやられると思うな……!!」
その不死魔王の悪態に、初代勇者は微かに眉根を寄せて「そう……だな」と、頷いた。
「ならば個人的な理由を話そう。元の世界に、帰りを待たせている者がいる。俺は彼女らのために、この世界から魔王軍の脅威を消し去り、笑顔で『ただいま』と言わなければならない。これは、そのための戦いだ。だから――お前を討つ」
「……っ!!」
「さよならだ。不死魔王」
初代勇者は圧倒的な力で不死魔王をねじ伏せた。それでも固有スキル『不死』の壁を突破することができず、結局は封印するしかなかった。
「ゲルマ、様……!!」
最後まで魔神への異様なまでの執着を見せ、不死魔王は魔道具に封印された。その純粋な叫びは、不思議と草薙の耳にいつまでも残っていた。
――そして。
百年の時を越えた草薙は、不死魔王が封印から解き放たれたと聞き、初代勇者の想いを継いだ。再び異界に封じるために、戦いを挑んだのだ。
「『英雄』。世界を救いたいのなら……私についてくることだ」
――そんな、予想外の言葉をかけられるまでは。
♢
「……元々、この世界は大した場所ではなかった。人の数は少なく、文明と呼べるものは何一つなく、ただ自然だけが支配しているような場所だった」
新城蓮は話を続ける。まるで、自分がそれを見てきたかのような調子で。
「……そのすべてを神族に転生した女神――ミラが塗り替えた。自らの思い描いた世界へと。文明を作り、魔法を生み出し、ステータスを可視化し、そして魔物を生み出した。まるでゲームのような場所を女神が創り上げた」
「それが、どうした」
草薙は尋ねることしかできない。話の規模が大きすぎて現実感が湧かない。
「……女神がそれらの『システム』を創り上げることができたのは、すべて、『奈落』の奥――『世界の中心』に湧く魔力の大海をエネルギー源としていたからだ。いくら異常なまでの魔力が湧いているとはいえ、いつかは必ず尽きる時が来る。女神の行いは、その海を湯水のように削るものだった」
この世界は、魔力が構成している。
新城は先ほどそう言った。ならば『世界の中心』に湧く魔力の大海とは、いわばこの世界の生命線のようなものではないのか。
それが干上がれば、世界が崩壊するような――。
草薙の想像を肯定するように、新城が頷いた。
「……そうだ。女神はこの世界の崩壊を速めている。自らの身勝手によって。特に、オレたちをこの世界に呼び出したことは、その浪費の最たるものだ」
「そうは言っても、まだテメェが無限と呼ぶだけの魔力は残されてたんだろ? だったら、そんなもんはかなり先の話じゃ……」
「……世界のシステムを変更するってのが、どれだけ途方もない魔力を使うのか分かるか?」
新城は空を見上げた。隙だらけの体だが、召喚されたゲンブが目を光らせている。何より、こんな状況で仕掛ける気はすでになかった。
「……たった、一年。それが、この世界の魔力が底を尽き、世界が滅びるまでのタイムリミットだ」
♢
草薙が何の身寄りもない異世界に放り出され、不安だらけの日々を送る中、苦しい生活の手助けをしてくれた優しい人々がいた。
彼らと出逢えたことだけは、この理不尽な異世界転移の中で唯一の幸運だった。
だから、魔王軍との戦争が起きたとき、草薙は彼らを護るために剣を握った。血の滲むような鍛錬の末に、草薙はようやく一端の剣士と呼べるだけの力量を手にした。
そして当然。
そんな力では、何一つとして及ばなかった。
草薙の第二の故郷と呼べるその場所には龍魔王の災厄がふりかかり、多くの死者が出た。草薙は親しい人々だけを逃すことで精一杯だった。
――護りたい。どうにかしてやりたい。身寄りもなく、ただ途方に暮れていた自分を救ってくれた人々に、恩を返したい。こんなにも優しい彼らが、理不尽に襲われ、ただ嘆くことなど認められない。
頭の悪い草薙には、これまで以上に剣を振るうことしかできなかった。魔法の才能はないと理解していたけれど、その上でなお、強靭な意志のもとに努力をし続けた。
強くなって、強くなって、強くなって。
いつか、自分の大切な人たちが、笑顔で暮らせるような世界になるように――。
♢
「魔王軍を倒せば、世界は平和になる、と――お前は、本当にそう思っていたのか?」
――百年越しの不死魔王の言葉である。
♢
戦いが終わった後、初代勇者は元の世界に帰還した。当然だ。『三大魔王』のすべてを無力化し、魔王軍を壊滅させたのだから。
圧倒的な力を持つ個である彼が、この世界で果たすべきことはもう何もない。
それどころか脅威と見なされかねない。
だから女神の手によって送還された。
世界を救う為に奔走した彼はきっと、その残酷な事実を理解していたのだろう。
そして魔王軍という脅威がなくなっても、人々の争いがなくなるわけではなかった。
それどころか嬉々として内紛を再開するような地域もあった。
『紛争地帯』がその最たるものである。
だが、この頃には草薙も理解していた。
綺麗事だけでは世界は成り立たないのだと。
戦争が終われば兵士は職にあぶれ、野盗になることだってある。平和な世界で、英雄が果たすべき役目はない。それが現実だ。
理想は理想だから理想なのである。
けして現実のものには、ならない。
草薙が戦うと誓ったきっかけ。
あのとき救いたいと焦がれた、第二の故郷の人々は、草薙のことを英雄と呼んだ。
龍魔王に蹂躙された彼らの地域では復興が遅れていて、そのせいで反乱が勃発していたのだが、そんな状況でなお彼らは草薙に感謝していた。
龍魔王に蹂躙されただけのあの状況よりも、遥かに苦しい環境に追い込まれているというのに。
これが戦後の世界か。
あれほど待ち望んでいた、魔王軍のいない世界なのか。だとすれば、自分はいったい、何のために戦っていたのだ――。
草薙は泣いた。
こんなつもりではなかった、と。
「だい、じょうぶ…………?」
「おお、クサ、ナギじゃ、ないか……」
乾いた雨が叩きつける、故郷の残骸の中で。
慟哭する剣士に声をかけたのは、かつて草薙に剣の振り方を教えてくれた、病を患う死に体の男と、彼を常識離れした力で抱える小さな少女だった。
「どうして、泣いているの?」
♢
お前がいなかったら、どうしようもなかった。
お前のおかげで、俺たちは助かった。
ありがとう。これでまた、俺たちは頑張ってやっていけるだろう。
――たとえ、どんなに険しい道だろうと。
お前が、俺たちのためにやってくれたことは、けして無駄なんかじゃない。
確かに、誰の顔にも笑顔が咲き誇るような理想の未来は待っていなかった。
それでもお前が一つの大きな戦いを終わらせることで、多くの人々を救ったのは紛れもない事実だ。
だから俺たちはお前のことを『英雄』と呼ぼう。
これから先も、ずっと。
お前がどれだけ他人に誇れることをやってのけたのか、お前自身に理解させるために。
なあ、英雄クサナギ。
♢
「一年、だと……!?」
草薙は目を見開いて吼えた。新城蓮の言葉には何一つとして根拠はない。だが、こんな状況で突拍子もない嘘をつく理由があるのか。もし本当なのだとしたら、どうにかしなくてはならない。
――草薙の『第二の故郷』は、百年の時を越えて復興していた。かつて親しかった人々はもう生きてはいなかったけれど、彼らが残した軌跡は確かにそこにあった。
もう二度と、あの場所を失わせはしない。
「証拠はないのか!?」
「……信じるか、信じないかはお前次第だ。俺から提示できるものは何一つねえ」
「……ッ!」
草薙は舌打ちする。
苛立ち紛れに尋ねた。
「なら、そのタイムリミットをどうにかする方法は?」
「……信じることにしたのか?」
「違うな。そうしねえと話が進まねえんだよ」
「……わざわざ語るほどのことでもねえな。言っちまえば簡単なことだ」
新城は真摯な瞳を草薙に向けたまま、
「……女神を殺せばいい。これで、ようやく本題だ。オレに力を貸せ。お前の力が欲しい。オレは、オレを『奈落』に突き落とした女神に対して復讐する。お前は世界の寿命を引き伸ばせる。……どうだ?」
「……」
「――選べ。俺と共に来るか。それとも今ここで死ぬか」




