第8話 燃える夜の記憶
星は、自分が何者かを知らない。
だが、その体は覚えてる。世界が焼けた、あの夜のことを。
久遠が来てから、星の様子が少しおかしくなった。
時々、ぼんやりと、宙を見つめて、動かなくなる。呼びかけても、返事がない。まるで遠いどこかへ、心が行っちまったみたいに。目は開いているのに、そこに、星はいない。そんな時間が、日に日に、長くなっていった。
そしてそういうとき、星はうわ言のように知らない言葉をつぶやくんだ。
「……天網、接続、開始」
「……全領域、焼却、確認」
その声は、いつもの星の声じゃなかった。抑揚のない、機械みたいな声だった。感情の、かけらもない。それが、俺には、たまらなく、不気味だった。星の口から、星でないものが、しゃべっている。そんな感じがした。
「星。おい、星」
肩を揺すると星ははっと、我に返る。そしてきょとんとした顔で、俺を見る。何事もなかったみたいに。
「灯……? わたし、いま、なにか、いってた……?」
「……いや。何も」
俺は嘘をついた。本当のことを言えば、この子をもっと、怯えさせるだけだ。せっかく、少し元気になってきたのに。
だがこんなことが、続くはずがなかった。じわじわと、何かが、この子のなかで、目を覚まそうとしていた。
◇
その夜、俺は真夜中に、目を覚ました。何かの気配で、目が覚めた。
部屋のなかが、青白く、光っていた。月明かりじゃない。もっと、冷たい光だ。
起き上がると、寝台の上で、星が目を開けたまま座っていた。その体全体が、淡く、発光している。まるで星屑そのものみたいに。輪郭から、光の粒が、絶え間なくこぼれ落ちている。
「星……?」
俺が呼びかけても、星は動かなかった。その目は、開いているのに、俺を見ていない。もっと、遠くを見ている。ずっと遠くを。
俺はそっとその顔をのぞきこんだ。
星の頬を光の粒が、涙みたいに流れていた。
泣いている。眠ったまま泣いている。声もなく、ただ涙だけを流して。
「……あつい」と星はつぶやいた。「……みんな、もえてる。たすけて。だれか……たすけて」
その声を聞いて、俺は凍りついた。今度は、あの機械の声じゃなかった。心の底から、絞り出すような、悲痛な声だった。
これは、記憶だ。
この子の記憶が、あふれ出している。
「みんな……きえていく。ひとつ、ずつ。ひかりに、なって、そらへ……のぼって、いく。……とめられない。わたしには、とめられない」
星の声は、震えていた。
「わたしは……みてた。ぜんぶ、みてた。せかいが、もえるのを。ひとが、しんでいくのを。……そらの、いちばん、たかいところから」
俺の背筋を冷たいものが、這い上がった。
空の、いちばん高いところから、世界が焼けるのを見ていた。何万もの命が、光になって昇るのをただ見ていた。
それは、つまり――。
「わたしは……そこに、いた。ずっとまえから。せかいが、はじまったときから」
星はうわ言のように続けた。
「わたしは、さいごの、ひとつ。ぜんぶが、きえても、わたしだけは、のこる。……だれかが、わたしを、よむまで」
俺は思わず後ずさった。足が、震えた。
最後の、ひとつ。全部が消えても、残る星。誰かに、読まれるまで。
――原初の終縞。
久遠が言っていた、この空で、最も古く、最も大きな一行。世界の、根っこにつながっている、星。あれを読めば、世界がやり直せる、と。
それが、この子なのか。俺が名前をつけて、飯を食わせて、守ると誓った、この子が。
◇
「星っ!」
俺は思わずその肩をつかんだ。とっさにこの記憶を止めたかった。
触れた瞬間、俺の頭のなかに、光景が、流れ込んできた。星読みが、星を読むときと、同じだ。だがこれは、比べ物にならないほど、巨大だった。頭が、割れそうだった。
――燃える街。空へ昇っていく、無数の光。
――悲鳴。祈り。最期の言葉。何万、何十万という、人の死。
――それを空の高みから、ただ見つめている、誰か。何も、できずに。手を伸ばすことも、声をかけることも、できずに。
――そしてその誰かは、泣いていた。世界が、焼け落ちるのを見ながらずっと泣いていた。何百年も、何千年も、たった一人で。
「うあ……っ」
俺は耐えきれずに、手を離した。息が、上がっていた。心臓が、破裂しそうだった。全身から、汗が噴き出していた。
あまりにも、大きい。あまりにも、深い。一人の人間の死じゃない。世界そのものの、死だ。それをこの子はたった一人で、見つめ続けてきた。誰にも、その悲しみを分けることもできずに。
俺は床に、手をついた。まだ頭のなかに、あの光景が、こびりついている。燃える街。昇っていく光。そのすべてをこの子は覚えている。忘れることも、目をそらすことも、許されずに。
星読みが、たった一つの星を読むだけで、俺はこんなに消耗する。他人の死、ただ一つで。なのにこの子は、何万、何十万という死を、生まれたときからずっと、抱え続けてきたんだ。俺がさんざん悲しい仕事だと嘆いてきたものなど、この子の背負うものに比べれば、あまりに軽い。……あの無邪気な笑顔の裏に、こんな地獄が、隠れていたなんて。俺は、二の句が継げなかった。
星がゆっくりとまばたきをした。
そして意識が、戻った。体の光が、すうっと、引いていく。
「灯……?」と星はかすれた声で言った。「わたし……また、なにか……」
星は自分の頬に触れた。光の涙が指先を濡らしていた。
「……ないてる。わたし、どうして、ないてるの」
俺はその顔を見ていられなかった。
この子は覚えていない。自分が何を見てきたのか。何を背負っているのか。ただ体だけが、覚えている。あの、燃える夜のことを。心は忘れても、体は、忘れられずにいる。
俺は震える星を抱きしめてやりたかった。だができない。触れれば、またあの記憶が、流れ込んでくる。俺は耐えられそうに、なかった。あの悲しみをもう一度受け止める勇気が、なかった。
だから俺はただ言った。
「大丈夫だ。悪い夢を見ただけだ。……もう、大丈夫だから」
嘘だった。
大丈夫なんかじゃ、ない。
この子は原初の終縞だ。世界の、始まりの一行。読まれれば、世界が、やり直される。あるいは、終わる。
久遠はそれを狙っている。回収屋も、狙っている。この子はこの世界で、いちばん、危険で、いちばん、価値のある、星屑だ。街じゅうの人間が、喉から手が出るほど、欲しがる存在だ。
そして俺はそんな子を守ると、誓っちまった。たった一人で。
◇
星がまた眠りについたあと。今度は、穏やかな寝息を立てていた。
俺は一人、窓の外の、夜空を見上げた。板の隙間から、あの穴が、見えた。
星が墜ちてきた、あの穴。今なら、わかる。あれは、原初の終縞が、抜け落ちた跡だ。この子が人の形をとって、地上に、墜ちてきた。だからあの穴だけは、いつまでも埋まらない。
なぜ、今なのか。なぜ、俺のところに、墜ちてきたのか。それは、わからない。「さがして、いた」とこの子は言った。誰を探していたのか。それも、わからない。
だが一つ、思うことがあった。世界のすべての死を見てきたこの子はたった一人で、あまりにも長く、孤独だった。誰にも触れられず、誰にも理解されず、ただ空の高みで、泣いていた。そんな子が、人の形をとって、地上に墜ちてきた。誰かに、そばにいてほしくて。誰かに、名前を呼んでほしくて。
俺はその「誰か」に、なれるだろうか。世界じゅうの悲しみを背負った、この子の孤独を少しでも埋めてやれるだろうか。俺一人の力で。姉さん一人、救えなかった、この手で。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この子を読ませては、いけない。誰にも。……少なくとも、今は、そう思う。目の前で、無邪気に眠る、この子を。誰かの手に、渡したくない。読ませて、消したくない。それだけは、確かだった。
だが、その決意が、どこまで、本物なのか。俺自身、まだ、試されていなかった。もし、この子を読むことに、俺の欲しくてたまらないものが、懸かっていたとしたら。……そのときも、俺は、同じことを、言えるだろうか。まだ、わからなかった。
俺は拳に力がこもった。
空の穴が、俺をじっと見下ろしていた。まるでこれから起きることを全部、知っているみたいに。何も言わず、ただ暗く、そこにあった。
俺は寝台で眠る星をもう一度見た。あの穴から墜ちてきた、世界でいちばん古い星。そして俺が名前をつけた、たった一人の家族みたいな存在。その二つが、同じ子のなかに、あった。信じたくなかった。だが目をそらしても、事実は変わらない。この子はいつか、世界と俺との、あいだで、引き裂かれる。そのときが、来る。近づいている。俺はそれを感じていた。だが来るなら来い。何があっても、俺はこの子の側に立つ。世界のすべてを敵に回しても。そう静かに心を決めた。
窓の外の穴が、俺の覚悟を試すみたいに、暗く沈んで見えた。
星の正体が、ほぼ見えてきた。こいつは「原初の終縞」――世界の始まりの一行だ。読まれれば、世界がやり直される。
星は、世界が焼けるのを、空の高みから、ただ見てるしかなかった。その悲しみを、体だけが覚えてる。
次で、物語が大きく動く。記憶を失ったはずの鴉羽が、また――。




