第7話 師の来訪
灯には、かつて師匠がいた。星読みの技を、全部教えてくれた人だ。
その人が、二年ぶりに訪ねてくる。
その男は、雨の日に、やってきた。
雲の上の街でも雨は降る。灰色の雨だ。人工の空から、細かな水が、しとしとと落ちてくる。地上の雨とは違う、と年寄りは言う。本物の雨には、匂いがあったと。俺は本物の雨を知らない。そんな午後だった。
仕事場の扉が、静かに叩かれた。三回。ゆっくりと。俺はその叩き方に、覚えがあった。体が、勝手にこわばった。指の先まで、冷たくなる。
扉を開ける前から、誰だか、わかっていた。この叩き方をする人間を俺は一人しか知らない。
扉の向こうに立っていたのは、痩せた、背の高い男だった。白髪まじりの髪をきちんと後ろになでつけている。灰色の外套。手には、黒い傘。その目は、静かで、深くて、底が見えない。二年前と、少しも変わっていなかった。
「久しぶりだね、灯」
男は、穏やかに、そう言った。声も、昔のままだった。
「……久遠、さん」
俺の元師匠だった。
久遠。終端評議会の実務を仕切る男。星読みの頂点に立つ人物。そして二年前、俺に星読みのすべてを教えてくれた、恩人だ。星の読み方も、この街の仕組みも、全部、この人から教わった。
俺がこの人と縁を切ったのは、姉さんが死んだあとだった。理由は、いろいろある。今は、話したくない。ただこの人の顔を見ると、あの夜のことを思い出しちまう。それだけだ。
「入っても、いいかな」
久遠は傘をたたみながらそう聞いた。断れる空気じゃなかった。俺は体をずらして、道を空けた。
背後で、星が寝台の陰に隠れるのが、気配でわかった。息を殺して、身を縮めている。俺はとっさにあの子を隠すように部屋の真ん中に立った。
◇
久遠は部屋をゆっくりと見回した。荒らされた跡は、もう片付けてある。倒れた棚も、直した。だがこの人の目は、ごまかせない。何もかも、見抜いているような目だ。壊れた蝶番の、直した跡さえ、見ているようだった。
「元気そうで、何よりだ」と久遠は言った。「一人で、よくやっている。星読みとしての腕も、あがったと聞くよ」
「用件は」
俺は遮った。この人の、こういう遠回しな話し方が、昔から苦手だった。世間話から始めて、じわじわと本題に近づく。それが、久遠のやり方だ。
久遠は少し微笑んだ。
「せっかちなのは、変わらないね。……いいだろう。用件を話そう」
久遠は椅子に腰を下ろした。そして静かに切り出した。膝の上で、両手を組んで。
「先日、この街のはずれに、大きな星が墜ちた。空に、穴があいたまま、塞がらない。……その話は、知っているね」
心臓が、跳ねた。表に出すな。だがこの人相手に、それが通じるはずもなかった。
「評議会は、その星を、探している。かつてない規模の終縞だ。読めば、失われた技術が、いくつも手に入るかもしれない。街の未来が、かかっている」
久遠の目が、俺をまっすぐ見た。底の見えない、深い目だ。
「灯。君は、何か、知らないかい」
俺は平静を装った。声が、震えないように。
「……知らない。ただの、流れ星だろ」
「そうか」
久遠はそれ以上、追及しなかった。だがこの人が信じていないことは、明らかだった。ただ追い詰めないだけだ。まだそのときじゃない、というふうに。
そのときだった。
寝台の陰から、ことと、小さな物音がした。星が身じろぎしたんだろう。
久遠の視線が、すっと、そちらに向いた。
まずい。
「……そこに、誰かいるのかな」
「いや、猫だ。野良の」
「そうか。……ずいぶん、光る猫だね」
久遠は寝台の陰から、わずかにこぼれる光を見ていた。星の指先の、あの光を。隠しきれなかった、あの光を。
俺は言葉に詰まった。何も、言い返せなかった。
久遠はゆっくりと立ち上がった。そして寝台のほうへ、一歩、近づいた。
「よしなよ」
俺はその前に立ちふさがった。両手を広げて。
久遠は足を止めた。俺を見下ろす。その目には、怒りも、敵意もなかった。ただ静かな、悲しみのようなものが、浮かんでいた。教え子が、道を誤るのを見るような、そんな目だった。
「……灯。君は、あれが何なのか、わかっているのかい」
久遠の声は、低かった。
「あれは、ただの星屑じゃない。人の形をとった終縞――それも、この空で、最も古く、最も大きな一行だ。私は、長年、星を読んできた。だから、わかる。あれは……この世界の、根っこにつながっている」
俺の背筋を冷たいものが、走った。
「あれを読めば、失われた技術どころじゃない。この世界そのものの、始まりが、わかるかもしれない。……あるいは、やり直せるかもしれない」
「やり直す……?」
「そうだ」と久遠は静かに言った。その目が、初めて、熱を帯びた。深い目の底に、火がともったみたいだった。「焼ける前の世界に。灼き落としの、なかった世界に。……失った人が、まだ生きている世界に」
俺は息が止まった。
失った人が、まだ生きている世界。
その言葉が、俺の胸に、鋭く刺さった。姉さんがまだ生きている世界。あの夜が、なかった世界。俺が手を離さずにすんだ世界。その響きに、俺の心が、ぐらりと揺れた。
久遠はそれを見逃さなかった。長年、俺を教えてきた人だ。俺の心の動きなど、手にとるようにわかるんだろう。
「灯。君も、失っただろう。詩織を」
姉さんの名を出されて、俺は顔を上げた。
「あの子を読めば、あるいは、詩織を取り戻せるかもしれない。焼ける前の世界をもう一度始められるかもしれない。……考えてみてくれないか」
俺は拳に力が入った。爪が、手のひらに、食い込む。
久遠は俺の弱いところを知り尽くしている。二年間、俺が何を求めて生きてきたのか、この人には、わかっている。だから姉さんの名を出した。それが、いちばん効くと知って。ずるい人だ。優しさと、残酷さが、同じ顔をしている。
揺れている。自分が、揺れているのが、わかった。姉さんが生きている世界。それは、俺が二年間、夢に見つづけた世界だ。毎晩、夢に見て、目が覚めるたびに、絶望した、あの世界だ。手を伸ばせば、それが、現実になるかもしれない。この子を読みさえすれば。
だが――。
寝台の陰で、星が震えているのが、わかった。俺の背中越しに、その震えが、伝わってくる。
あの子を読めば。それは、あの子が、消えるということだ。星がこの世から、いなくなるということだ。
◇
「……帰ってくれ」
俺はしぼり出すように言った。
「久遠さん。あんたの言うことは、わかる。姉さんが生きてる世界。俺だって、欲しいよ。喉から手が出るほど。……でも、そのために、この子を殺すのは、違う」
「殺す、とは、人聞きが悪い」
「同じことだ」と俺は言った。「読めば、消える。あんたが、いちばん、わかってるはずだ」
久遠はしばらく俺を見ていた。それから、小さく、ため息をついた。落胆とも、あきらめともつかない、ため息だった。
「……変わったね、灯。昔の君なら、迷わず、星を読んでいた」
「変わったよ」と俺は言った。「あんたに、教わった頃とは、違う」
久遠は傘を手に取った。そして扉のほうへ、歩いていく。ゆっくりと背を向けて。
去り際に、久遠は振り返らずに、言った。
「灯。よく、考えるんだ。あの子は、いつか、必ず、誰かに読まれる。回収屋か、評議会か。……それが、私であってはいけないと、君は、本気で思うのかい」
その言葉を残して、久遠は灰色の雨のなかへ、消えていった。傘をさして、雨のなかを静かに。
俺はしばらく動けなかった。扉が開いたまま雨の音だけが、部屋に入ってくる。
久遠の言葉が、正しいことを俺は知っていた。星はいつか、誰かに読まれる。俺が守りきれる保証なんて、どこにもない。回収屋も、評議会もみんな、この子を狙っている。
だったら、いっそ、姉さんのために――。
そこまで考えて、俺は頭を激しく振った。今、何を考えた。
違う。そんなことは、絶対に、しない。
寝台の陰から、星がそっと顔を出した。その目は、不安に、揺れていた。俺が何を考えていたのか、見透かしたみたいに。
「灯……わたし、よまれるの?」
俺はその目を見て、はっきりと、言った。迷いを断ち切るように。
「読ませない。誰にも。……姉さんにも、代えられない。お前は、お前だ」
言いながら俺は自分の心の揺れを必死に押さえつけていた。押さえつけなければ、流されちまいそうだった。久遠の言葉は、まだ耳の奥で、響いている。それが、私であってはいけないと、本気で思うのか、と。
俺は星をそっと抱き寄せた。この子の体は、あたたかかった。生きている。ちゃんと、ここに、生きている。姉さんの夢の世界と、目の前の、このぬくもりと。俺は後者を選んだ。今は、まだその選択に、迷いはなかった。ないと、思いたかった。
久遠が出てきた。こいつは悪人じゃない。本気で、失った人を取り戻せる世界を信じてる。だから、厄介だ。
灯の心が、初めて大きく揺れた。姉が生きてる世界と、星を守ること。この二つは、両立しない。
次で、星の記憶の断片が戻りはじめる。こいつが何者なのか、核心に近づく。




