第6話 あの夜のこと
事件のあと、二人はしばらく口をつぐんでた。
灯が、二年間閉じこめてきた、あの夜のことを話す回だ。
鴉羽の一件から、数日は、静かに過ぎた。
星はあれからずっと元気がなかった。あんなに何でも知りたがっていたのに、窓の外を見ようともしない。自分の手をこわごわと見つめては、そっと隠す。その繰り返しだった。飯も、あまり食べなくなった。俺が話しかけても、返事は短い。
俺はどう声をかけていいか、わからなかった。
なぐさめの言葉なら、いくらでも思いつく。だがそれが薄っぺらいことを俺は知っている。二年前、姉さんを亡くしたとき、俺も同じ言葉を山ほどかけられた。仕方なかった。お前のせいじゃない。前を向け。時間が解決する。どれも、少しも、俺を救わなかった。むしろ言われるたびに、心が遠くなった。
だから俺はただそばにいた。飯を作り、白湯を淹れ、同じ部屋で、同じ夜を過ごした。それしか、できることがなかった。言葉より、そのほうがましだと思った。
その夜、俺が繕い物をしていると、星がぽつりと口を開いた。針の運びを見つめながら。
「灯は……こわくないの」
「何が」
「わたしが。……ひとの、あたまを、けせる。また、やるかも、しれない。灯のことも……けして、しまうかも」
その声は、震えていた。ずっとそれを恐れていたんだろう。俺のことを消しちまうかもしれない。だから近づけなかったんだ。
俺は針を持つ手を止めた。少し考えて、正直に答えることにした。この子には、嘘は通じない。
「正直に言うと、少しは怖いよ」
星の肩が、びくりと跳ねた。俺はあわてて続けた。
「でも、それは、お前が怖いんじゃない。お前が、いつか自分を責めすぎて、壊れちまうんじゃないかって、それが怖いんだ」
星は顔を上げた。俺の言葉の意味を探るみたいに。
「あの力はな、確かに危ない。でも、包丁だって、火だって、使い方を間違えれば人を傷つける。それでも、飯を作るには要るだろ。力そのものが、悪いわけじゃない。……お前が、悪いわけじゃない」
言いながら俺は自分にも言い聞かせていた。
力そのものは、悪くない。星読みの力だって、そうだ。使い方次第で、人を救いもするし、殺しもする。俺だって、毎日、星を殺している。それでも街の命をつないでいる。善も悪も、力のなかにはない。使う者のなかにあるだけだ。
俺の言葉を星はじっと聞いていた。一言一言を心のなかで、確かめるみたいに。それからそっと自分の手のひらを開いて、見つめた。さっきまで、隠していた手を。
「灯の、しごとも……かなしいけど、わるく、ないんだね」
「……ああ。たぶんな」
星は少しだけ、ほっとした顔をした。俺の言葉を自分のこととして、受け取ったんだ。俺が毎日、星を殺しながら生きているのと、この子が力に怯えながら生きているのと。どこか似ている。同じ痛みを抱えている。だからこの子の言葉は、俺の胸にも、まっすぐ届くのかもしれない。
◇
しばらく沈黙が続いた。針が布を通る音だけが、部屋に響いた。
やがて星が小さな声で聞いた。
「灯は……おねえさんを、たすけられなかったこと、じぶんのせいだって、おもってる?」
その問いに、俺は息を呑んだ。
この子は時々、こうして、俺の胸のいちばん深いところをまっすぐに突いてくる。悪気なんてない。ただ素直なだけだ。だからこそ、逃げられない。取りつくろう隙を与えてくれない。
俺は繕い物を膝に置いた。窓の外の、夜空を見た。姉さんの星があるはずの空を。板の隙間から、細く見える夜を。
そして二年間、誰にも話さなかったことを話しはじめた。
「あの夜、俺もあの場所にいたんだ」
星がじっと俺を見た。
「灼き落としの夜。天網が暴走して、街が焼けはじめた。俺と姉さんは、逃げてた。手をつないで、必死に走ってた。……でも、途中で、姉さんが立ち止まったんだ」
思い出すと、今でも喉の奥が締めつけられる。あの熱。あの煙。あの、姉さんの手のぬくもり。
「燃えてる建物のなかから、子どもの泣き声がした。姉さんは、それを聞いて……俺の手を離した。『先に行ってて』って。そう言って、笑って、火のなかに、飛び込んでいった」
俺はこぶしを握った。爪が、手のひらに食い込む。
「俺は、追いかけなかった。怖かったんだ。火が。死ぬのが。だから、俺は、逃げた。姉さんを、置いて。一人で、逃げた」
声が、震えていた。二年、押しこめてきたものが、堰を切ったみたいにあふれてくる。
「その子どもは……助かった。姉さんが、助け出したんだ。でも、姉さんは、戻ってこなかった。俺が、追いかけていれば。俺が、一緒に飛び込んでいれば。二人でなら、姉さんも助けられたかもしれない。……なのに、俺は、逃げた」
言い終えると、部屋は、しんと静まりかえっていた。針を持つ手も、止まったままだった。
これが、俺の罪だ。二年間、誰にも言えなかった、俺の一番、汚い部分。
あの夜から、俺はまともに眠れなくなった。目を閉じると、火のなかへ消えていく、姉さんの背中が見える。俺の手を離した、あの指の感触が、よみがえる。逃げるとき、姉さんは俺を責めなかった。ただ笑っていた。それが、いちばん、つらい。責めてくれたなら、まだ楽だった。恨んでくれたなら、憎み返すこともできた。だが姉さんは最後まで、俺に笑いかけていた。
姉さんは命がけで、知らない子どもを助けた。俺はたった一人の家族すら、見捨てて逃げた。姉さんは英雄で、俺は臆病者だ。その差が、二年経っても、埋まらない。埋まるどころか、日ごとに、深くなっていく気がした。
「だから俺は、姉さんの星を探してる」と俺はしぼり出すように言った。「読めば、姉さんの最期がわかる。……あの人が、俺を、恨んでたかどうか。逃げた俺を、許してくれてたかどうか。それを、知りたいんだ」
自分で言って、俺は自分に、へどが出そうになった。
結局、俺は自分が許されたいだけなんだ。姉さんの死を自分の免罪符にしたいだけ。あの人の最期を自分の慰めに使おうとしている。なんて、身勝手なんだろう。
◇
しばらく星は何も言わなかった。
俺はうつむいていた。軽蔑されても、仕方ないと思った。こんな臆病者、幻滅されても、当然だ。この子まで、俺から離れていくかもしれない。そう思うと、怖かった。
だが次の瞬間だった。
俺の頬にそっとあたたかいものが触れた。
顔を上げると、星が俺のすぐそばに、いた。手袋を外した、むき出しの手を俺の頬にそっと当てていた。
その指先から、光がこぼれる。俺の頬に触れた場所が、じんわりと、熱を持った。だが俺は消えなかった。星の力は、暴走しなかった。記憶も、そのままだった。
「星、危ない、手袋を――」
「だいじょうぶ」と星は静かに言った。「いま、わたし、こわくない。だから、けさない。……灯には、ふれられる。ふしぎ」
星の目は、澄んでいた。もう怯えていなかった。あの、震えていた手が、今は、まっすぐ俺に触れている。
「灯は、にげたんじゃ、ないよ」
星はそう言った。ゆっくりと言葉を選びながら。
「灯は、いきのびた。おねえさんが、いきのびて、って、ねがったから。手をはなしたのは、おねえさん。灯を、いかすため」
その言葉が、俺の二年間、凍りついていた何かを溶かしていくのがわかった。胸の奥の、固くこわばった塊がゆっくりとほどけていく。
「おねえさんの星、いっしょに、さがそう。でも、うらまれてるか、たしかめるためじゃ、ない。おねえさんが、どんなに、灯を、あいしてたか。それを、しるために」
俺はこらえきれなかった。
二年間、一度も泣かなかった俺の目から、涙がぼろぼろとこぼれた。星の手の、光と混じって、頬を流れていく。あたたかいものと、あたたかいものが、混じり合う。
俺は声を殺して、泣いた。子どもみたいに。肩を震わせて、みっともなく。
星は何も言わずに、ただ俺の頬に、手を当てていてくれた。あたたかい光が、俺の顔を照らしていた。ずっとそうしていてくれた。
どれくらい、そうしていただろう。俺が泣きやむまで、星は一度も、手を離さなかった。何も言わず、ただそばにいてくれた。言葉より、そのほうがずっと俺を救った。二年前、みんなが俺にかけてくれた、あの慰めの言葉より、この子の黙ったぬくもりのほうが、ずっと。
その夜、俺は初めて、少しだけ、あの夜のことを許せた気がした。姉さんのことも、自分のことも。逃げた自分を初めて、責めずにいられた。
人の記憶を消す力を持つ、この子が。世界でいちばん危ういと恐れられる、この子が。俺の二年間の凍りついた心をそっと溶かしてくれた。
あの夜のぬくもりを、俺はきっと一生、忘れない。
――俺がこの子に救われた、最初の夜だった。
だが、そのぬくもりに、浸っていられたのは、そこまでだった。
翌朝。仕事場の扉を、叩く者が、いた。こんな街のはずれに、客なんて、来るはずがない。いやな予感がした。星読みの勘は、いつも、悪いほうばかり当たる。扉の隙間から、のぞいた先に。灰色の外套が、立っていた。……久遠さん。二年前まで、俺に星読みを教えた、あの人が。なぜ、今ごろ。背中を、冷たいものが、伝った。この人は、いつだって、いちばん面倒なものを、連れてくる。
灯が、ずっと抱えてた罪を、初めて口にした。そして、星に救われた。
人の記憶を消す力を持つ子が、灯の凍った心を溶かす。皮肉な話だが、これが二人の絆のはじまりだ。
次から、物語は動く。灯の元師匠が、姿を現す。




