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第59話 あたらしい街

 半年後。終端は、与え合う世界に生まれ変わっていた。灯は、奪わない星読みを続ける。榊は償いに生きる。そして星は、ただの女の子として暮らしていた。

 それから半年が、過ぎた。


 終端は、ゆっくりと、けれど、確かに生まれ変わっていた。


 崩れた東区は、人々の手で、少しずつ。再建されていた。だが変わったのは、街並みだけじゃ、なかった。人々の、心が、変わっていた。


 もう誰も、星読みに、死者の記憶を奪わせなかった。天網は、鎮まり、原初の終縞を求めない。だから星読みが、無理に、星屑を読む必要も、なくなった。


 代わりに、人々は日々。天網へ、想いを送っていた。遺したい、想いを誰かへの、愛を感謝を祈りを街の、あちこちに、想いを寄せる場所が、つくられた。人々はそこで、手を合わせ。天網へ、そのぬくもりを届けた。


 奪う世界は終わった。与え合う世界が、始まっていた。姉さんが、宵さんが、夢見た。その景色が、今。この街に、あった。


 朝になると、市場には、活気が戻っていた。かつては、飢えと恐怖に、うつむいていた人々が、今は、互いに、声をかけ合い、笑い合っている。誰かが、余った食べ物を隣に分ける。子どもたちが、瓦礫の隙間を駆け回って遊ぶ。あの老人が、その様子を目を細めて、見守っていた。


「……なあ、灯さん」と、老人は通りかかった俺に、笑いかけた。歯の抜けた口で、「あたしはね。もう、思い残すことは、ないよ。奪われるばかりだった、この街の底で。……こんな、あたたかい朝を、見られたんだ。……ふっ。やっぱり、長生きは、してみるもんさ」


 その、口癖を聞いて、俺も笑った。あの、戒厳令の夜、初めて俺たちを匿ってくれたときも、この爺さんは、同じことを言っていた。長生きは、してみるもんさ、と、……そのたった一言に、この街の底で生き抜いてきた人の、すべてが、詰まっている気がした。


 ささやかだが、確かな、幸せが、この街には、根づきはじめていた。奪い合うことでしか、生きられなかった街が、分け合うことで、生きていける街に、変わったのだ。



◇



 俺は星読みを続けていた。


 だがもう。死者の記憶を奪うためじゃ、ない。夜空を見上げて、星屑の、光を人々に、伝えるためだ。あの星はあなたの、亡くなった、お母さんの、光ですよ。あの星はあなたを待っている、誰かの、光ですよ。と。


 読んで、奪うんじゃ、ない。見上げて、語りかける。それが、新しい、星読みの、仕事だった。姉さんが、たどり着こうとした。本当の、星読みの、姿。俺はそれを継いでいた。


 人々は俺のことを星の街を救った、星読みと、呼んだ。だが俺には、その、実感が、なかった。世界を救った、記憶は、ある。だがいちばん、大切な、何かを失ったという。空洞だけが、ずっと胸に、残っていた。


 人々は俺に、感謝した。会うたびに、頭を下げ、礼を言った。あなたのおかげで、この街は、救われたのだ、と、だが、その言葉を聞くたびに、俺の胸の、空洞は、かえって、疼いた。世界を救った。だがそのために、俺は何を失ったのか。それを思い出せないことが、何より、つらかった。忘れてしまった、その相手を俺は確かに心の底から、愛していたはずなのに。



◇



 榊も、変わった。


 あの男は宵さんの、墓の、そばに、小さな。慰霊の、場所をつくった。灼き落としで、天網の暴走で、命を落とした、すべての人の、慰霊の、場所をそこで、毎日。手を合わせていた。妻と、娘の、想いを天網へ、届けながら。


「灯さん」と、あるとき。榊が、言った。「私は。生涯。あの老婆を、殺めた罪を。忘れません。……でも。生きて。償います。この、与え合う世界を。守ることで。……それが。あの人への。せめてもの。手向けです」


 俺はうなずいた。かつての、敵が、今は、この世界を守る、一人に、なっていた。奪う世界の、亡霊は、もう。どこにも、いなかった。榊が、慰霊の場所で、手を合わせる、その背中を見るたびに、俺は思った。人は、変われるのだと、どれだけ、深い絶望の底に、落ちても、前を向く、きっかけさえ、あれば。……久遠も、もし、あのとき、生きていたら。きっとこんなふうに、この街を支える一人に、なっていただろう。そう思うと、少しだけ、胸が、痛んだ。



◇



 そして星は


 あの子は、街の、ある家で、暮らしていた。子どものいない、老夫婦が、名前も、記憶もない、あの子を引き取って、娘のように、大切に、育てていた。


 星はすっかり、ただの、女の子に、なっていた。もう。体から。光は、こぼれない。もう。世界を終わらせる、化けものでも、ない。ただの、どこにでも、いる。心優しい、少女だった。


 俺はときどき。あの子に、会いに行った。


 なぜ、会いに行くのか。自分でも、わからなかった。ただあの子を見ていると、胸の、空洞が、少しだけ。埋まる、気がした。あの子も、俺が、来ると、花がほどけるように、うれしそうに、笑った。


「灯さん」と、星は俺をそう、呼んだ。「なんだか。灯さんと、いると。……あんしんする。むかし。どこかで。あったこと、あるみたいで」


「そうだな」と、俺は笑った。「俺も。そんな、気がする」


 二人とも、覚えていない。過ごした、日々をだが、会うたびに、何か。あたたかいものが、二人のあいだに、積もっていく。まるで、もう一度。最初から。関係を築き直すように。


 それは、切なくて、けれど、あたたかい時間だった。俺たちは、たがいの、名前しか、知らない。過去も、思い出も、何もない。だがだからこそ。まっさらな気持ちで、相手を知っていける。この子はどんなものが好きで、どんなことで笑うのか。ひとつひとつを確かめるように、俺はこの子と、過ごした。まるで、失った日々をもう一度、なぞるように、……もっとも、俺はその失った日々を覚えていないのだけれど。



◇



 俺はあの子に、白湯を淹れてやったことが、ある。


 なぜ、白湯なのか。わからなかった。ただあの子に、白湯を飲ませたく、なった。星はそれを両手で、受け取って、ふうふうと、冷まして、一口、すすった。


 そしてふいに涙をこぼした。


「……あれ」と、星は自分の、涙に、驚いて、「なんで。なみだが。……しろゆ。あったかい。……すごく。なつかしい。むかし。だれかが。おなじことを。してくれた、きがする」


 俺の胸も、熱くなった。


 覚えていない。だが体が、心が、覚えている。この、白湯の、あたたかさをこの、光景を、……きっと俺たちは、昔も、こうして、白湯を分け合ったんだ。忘れてしまった。あの、日々に。


「……泣くなよ」と、俺は優しく、言った。「なんでか、わからないけど。……お前が、泣くと。俺も。悲しくなる」


「ごめんなさい」と、星は涙をぬぐって、笑った。「でも。かなしい、なみだじゃ、ないの。……なんだか。あったかくて。……うれしい、なみだ」


 俺はその笑顔を見て、胸が、締めつけられた。この笑顔を俺は知っている気がした。ずっと昔から。何度も、見てきた気がした。だがいつ、どこでなのかは、思い出せない。ただこの子の笑顔を見ていると、胸の空洞が、やわらかなもので、満たされていく。それだけは、確かだった。



◇



 その夜。俺は一人で、夜空を見上げた。


 あの、儀式の日から。夜空の、星屑は、もう。減らなくなっていた。天網が、鎮まり、もう。星を奪わないからだ。夜空には、無数の、あたたかい光が、またたいていた。人々の、遺した、想いが、そして、俺と、星の捧げた、愛が。


 どこかに、あるはずだった。俺と、星の想いで、編まれた。新しい根っこが、この、夜空の、いちばん深いところに。


 思い出せないその想いは、今もあの空のどこかで、名前も知らない誰かの愛や祈りと寄り添いながら、この傷ついた街を静かに支え続けている——そう思うと、失ったはずの記憶の痛みさえ、不思議と、やわらいでいくのだった。


「……姉さん」と、俺はつぶやいた。「あんたの夢。叶ったよ。……奪う世界は。終わった。与え合う世界が。始まった。……そして。俺は。あの子と。もう一度。出会い直してる」


 風が、頬を撫でた。まるで、姉さんが、どこかで、ほほえんだ、ように、やわらかく。


 俺は胸の、空洞に、手を当てた。まだ。そこには、名前のない、悲しみが、あった。失った、記憶の、痛みが、だが、その痛みは、もう。以前ほど。冷たくは、なかった。どこか、あたたかさすら、帯びていた。


 なぜなら。俺はもう一度。あの子と、出会えたのだから、忘れても、また。惹かれ合えたのだから、……記憶は、取り戻せない。それは、切ないことだ。だが俺たちは、また。ここから。始められる。


 ――もう一度。恋をしよう。あの子と。


 俺は夜空の、星屑に、そう、誓った。この、名前のない光をもう一度。この手に、手繰り寄せるために。


 記憶を失っても、俺たちが、愛し合ったという事実は、この夜空の、いちばん深いところに、新しい根っことなって、永遠に、刻まれている。それは、誰にも、奪えない。消せない。……ならば、俺はもう失うことを恐れない。この街の人々が、そうしているように、俺もあの子に、日々、想いを与えていこう。名前を呼び。白湯を淹れ、となりで、笑って、……そうやって、またひとつずつ。二人の物語を紡ぎ直していけばいい。


 夜空の星屑が、俺の誓いに、応えるように、ひときわ明るく。またたいた。

 灯は、星に白湯を淹れる。星は理由もわからず涙をこぼす――なつかしい、と。記憶は戻らない。だが二人は、もう一度、惹かれ合っていた。灯は誓う。もう一度、恋をしよう、と。

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