第60話 もういちど、名前を
よく晴れた朝、丘の上で。星は、小さな部屋とランプと白湯の夢を見る、と話す。忘れたはずの日々の、かけら。灯は、すべてを打ち明ける。二人がかつて愛し合い、記憶を捧げたことを。
その日は、よく晴れた、朝だった。
人工の空が、天網が鎮まって以来。少しずつ。明るさを取り戻していた。かつて、人工の夜に、覆われていた終端に、今は、うっすらと、朝の色が、差しこむように、なっていた。
俺は星を外縁の、あの丘へ、連れて行った。宵さんの、墓が、ある丘だ。姉さんの、終縞が、還っていった、空が、いちばん近く、見える場所。
星は丘の上から。街を見下ろして、目を輝かせた。
「わあ……」と、星は声をあげた。「きれい。……街ぜんぶが。あさひで。きらきら、してる」
「ああ」と、俺はうなずいた。「……昔は。こんな景色。なかったんだ。ずっと。夜だった。……でも。変わったんだ。みんなの、想いで」
◇
星はしばらく。その景色を見ていた。それからふいにこう、言った。
「灯さん」と、星は「わたしね。……このごろ。ときどき。ゆめを、みるの」
「夢?」
「うん」と、星はうなずいた。「しらない、けしきの、ゆめ。……ちいさな、へや。ふるい、ランプ。……そして。だれかが。わたしに。あったかい、しろゆを。いれてくれる。……その、ひとの、かおは。みえないんだけど。……すごく。やさしくて。あったかいの」
俺の、胸が、跳ねた。
小さな、部屋。古い、ランプ。やわらかい、白湯。……それは、俺が、星と、初めて、過ごした、夜の、光景じゃ、ないのか。忘れたはずの、あの、日々の、かけらが、この子の、夢に、よみがえっている。
◇
「その、夢のなかで」と、星は続けた。「わたしは。なんだか。すごく。しあわせなの。……だから。めが、さめると。いつも。ないてる。……その、しあわせが。ゆめだったんだって。わかって」
星の、夜色の目に、涙が、うっすらと、にじんだ。
「ねえ。灯さん」と、星は俺を見た。まっすぐな、瞳で、「わたし。……わすれてるだけで。ほんとうは。だれかを。すごく。すきだったのかな。……そして。その、だれかも。わたしのことを。すきだったのかな」
俺は息をのんだ。
この子は気づきかけている。忘れた、はずの、愛に、魂の、いちばん深いところで、まだ繋がっている、その、想いに。
俺は星の、目を見た。そして決めた。もう。隠さない。この子に、伝えよう。俺たちが、かつて、愛し合っていたことを忘れても、この気持ちは、本物だと。
だが、口を開きかけて。俺は、ためらった。
いいのか。ほんとうに。……あの儀式の夜、俺たちは、二人で、決めたんだ。この記憶を、手放すと。忘れることを、選んだんだ。世界のために。おたがいを、生かすために。なのに、今、俺が、勝手に語り直せば。それは、あの夜の、二人の選択を、裏切ることに、ならないか。忘れたまま、何も知らずに、あたらしく生きるほうが。この子には、幸せなんじゃないか。
俺の口から告げられた過去は、もう、この子が自分で選んで手放したものじゃない。俺という他人から、あとづけで、渡される物語だ。それを、背負わせていいのか。……迷いが、喉もとで、渦を巻いた。
だが、と、俺は思い直した。この子は、もう、気づきかけている。夢という形で、失った日々が、蘇りかけている。何も知らないふりをして、この子が一人で夢に泣くのを、見過ごすほうが。よほど、残酷だ。
隠さない。俺が背負う。語り直す罪ごと。……そう、腹を決めた。俺たちが、確かに愛し合っていたこと。それが、どんなに切ない真実でも。この子には、知る権利が、ある。自分が、かつて、どれほど深く、誰かに想われていたのかを。
◇
「星」と、俺は言った。「……聞いてくれ。信じられない、話かも、しれないけど」
俺はすべてを話した。といっても、俺自身、その大半を覚えちゃいない。この半年、街の人たちが切れ切れに聞かせてくれたこと。宵さんが遺したノートに、書き残されていたこと。それを俺なりに繋ぎ合わせた、俺たちの物語だ。この子が、かつて、原初の終縞だったこと。俺とこの子が、世界を救うために、おたがいを想う気持ちを記憶ごと天網に捧げたこと。そして、二人でおたがいを忘れたこと。……語るというより、他人から聞いた話の答え合わせに、近かった。
星は目を大きく見開いて、身じろぎもせず、聞いていた。
「じゃあ……」と、星は震える声で、言った。「わたしの、ゆめに、でてくる、ひと。……あったかい、しろゆを、くれた、ひとって。……もしかして」
「ああ」と、俺は言った。「……その白湯を淹れたのは。たぶん、俺だ。覚えちゃ、いないけど。……この半年。お前を見てると。俺は自然と、星、って呼んでた。理由も、わからないまま。……きっと、あの夜も。俺が、お前に。その名を、あげたんだと思う」
星の、涙が、あふれた。ぽろぽろと、とめどなく。
◇
「思い出せなくて。いいんだ」と、俺は言った。優しく。「無理に。思い出さなくて、いい。……記憶は。もう。戻らない。それは。俺たちが。世界のために。差し出したものだから」
俺は星の、手を握った。やわらかい。あの頃と、同じ、ぬくもりが、そこに、あった。
「でも」と、俺は続けた。「これだけは。言わせてくれ。……俺は。もう一度。お前を。好きになった。記憶がなくても。名前しか、知らなくても。……この半年。お前と、過ごすうちに。また。どうしようもなく。お前が。好きになった。……たぶん。何度、忘れても。俺は。お前を。好きになる。そういうふうに。できてるんだ。俺は」
俺は星の、夜色の瞳を見つめた。腹の底から。声を絞り出した。
「もう一度。名前を、あげさせてくれ。……いや。もう一度。あの日の、続きを。始めさせてくれ。……星。俺と。生きてくれ。今度こそ。忘れない。この、二度目の日々は。……絶対に。忘れないから」
◇
星は涙を流しながら。何度も、何度も、うなずいた。
「うん……うん……!」と、星は言った。「わたしも。灯さんが。すき。……ゆめのなかの、ひとより。いまの、灯さんが。すき。……もういちど。であえて。よかった。……こんどこそ。ずっと。いっしょに、いたい」
俺はその体を抱きしめた。強く。二度と、離さないように。
と、腕のなかで、星が、小さく。息をのんだ。そしてぽつりと、こう、つぶやいた。
「……わけあおう、ね」
俺の、体が、固まった。
わけあおう。……その言葉を俺は知っている気がした。いや、知っている。どこで、だったかは、思い出せない。だがこの子と、俺のあいだで、何度も、交わした言葉。減ったら、足す。分け合って、生きる。……それが、俺たちの、生き方だった、はずだ。
「星。……今、なんて」
「……わかんない」と、星は自分でも、驚いたように、目を丸くした。「……くちが、かってに。……でも。すごく。だいじな、ことば、なきがして」
俺の、目から。涙が、こぼれた。
届いていた。忘れたはずの日々が、この子のいちばん深いところに、ちゃんと残っていた。俺は言葉が出てこなかった。ただ、その手を握った。星も、握り返してきた。それで、十分だった。
俺はもう一度。強く。星を抱きしめた。
「ああ」と、俺は震える声で、言った。「わけあおう。……これからは。ずっと。二人で。何もかも」
丘を、風が吹き抜けた。星の髪が、朝日に透けて揺れた。かつて、この子の体からこぼれていた光は、もう、ない。星屑じゃない。血の通った、ただのひとりの人間だ。俺と同じ、この街に生きる、ひとり。俺は握った手に、少しだけ力をこめた。星が、握り返してくる。乾いた土のにおいと、遠くの、街のざわめき。それだけの、朝だった。だがもう、何も、いらなかった。
俺たちは、すべてを忘れた。愛し合った、日々を交わした、約束を分け合った、ぬくもりをすべて、世界のために、差し出した。
だが俺たちは、もう一度。出会った。そしてもう一度。恋をした。
……それは、取り戻せなかった記憶の切なさと、もう一度選び合えた喜びが、まざりあっていた。ほろ苦い。けれど、まぎれもない。奇跡だった。
思えば、俺と、この子の物語は、いつも失うことと、隣り合わせだった。俺は姉を失った。この子は記憶を失った。宵さんも、久遠も、逝った。……たくさんのものを喪いながら、俺たちは、ここまで、来た。だが失うたびに、俺たちは、学んだのだ。奪うのではなく、与えること、握りしめるのではなく、分かち合うこと、……そして、今。俺たちは、いちばん大切な記憶さえ、手放して、それでも、もう一度、愛を掴んだ。失うことでしか、たどり着けない場所が、あるのだと、この子の、涙に濡れた笑顔が、教えてくれていた。
◇
その夜。俺は星と、並んで、夜空を見上げた。
無数の、星屑が、またたいていた。人々の、遺した、想いが、そして、俺と、星の、捧げた、愛が、夜空の、いちばん深いところで、新しい根っことなって、この世界を永遠に、支えていた。
「灯さん」と、星が、言った。夜空を見上げたまま。「あのなかに。……わたしたちの、おもいでも。あるのかな」
「ああ」と、俺はうなずいた。「あるさ。……忘れちまった、俺たちの、代わりに。あの星たちが。ずっと。覚えててくれる。……俺たちが。愛し合ったってことを」
星は俺の、肩に、頭をあずけた。
俺は肩に伝わる、その重みを感じながら。思った。記憶は、消えた。だが想いは、消えなかった。姉さんが、宵さんが、命を賭けて守ろうとした、この与え合う世界で。俺たちは、もう一度、愛を見つけた。
――もう。読まない。
俺は夜空の、星屑を見上げて、心のなかで、つぶやいた。奪わない。ただ見上げて、語りかける。そしてとなりにいる、この子と、日々。想いを与え合って、生きていく。
それが、星読み。冬瀬灯の、たどり着いた。答えだった。
姉さんが、夢見た、その先を俺はたしかに、生きている。奪う世界を与え合う世界へ、変えて、愛する人を生かして、そして、その人と、もう一度、出会い直して、……二年前、姉を失ったとき。俺は世界のすべてを憎みかけた。あの夜、燃える街で、たった一人、手を伸ばした、姉のことをばかだと、思った。だが今なら、わかる。姉は、正しかった。誰かのために、手を伸ばすこと、それこそが、この、冷たい世界をあたためる、唯一の火だったのだ。
名前のない光が、夜空に、またたく。その下で、俺と、星はもう一度。始まった、二人の物語を静かにけれど、確かな足取りで、歩みはじめた。忘れた日々の、続きを今度こそ、忘れない日々として。
――星屑の、ラスト・コードは、誰にも、読まれることなく。ただあたたかく。世界を照らし続けている。
その物語に、もう終わりの一行は、ない。読まれて閉じる物語ではなく、日々書き足されていく、始まりだけの物語として——その光は、俺たちの上に、いつまでも、続いていく。
(了)
思い出せなくていい。灯は、もう一度、名前をあげ、もう一度、好きになったと告げる。星も応える。記憶は消えても、想いは消えなかった。星屑のラスト・コードは、誰にも読まれず、ただあたたかく世界を照らし続ける。――完結です。長いあいだ、お付き合いいただき、ありがとうございました。




