第58話 名前のない光
目を覚ますと、灯は泣いていた。理由もわからず。世界は救われたが、いちばん大切な何かを失った空洞だけが、胸に残っていた。
目を覚ますと、俺は泣いていた。
なぜ、泣いているのか。わからなかった。ただ頬を涙がとめどなく伝っていた。胸の奥がぽっかりと空いていた。何かとても大切なものを失った気がした。だがそれが、何なのか。どうしても、思い出せなかった。
夢を見ていた気がする。やわらかな夢を。誰かと笑い合う夢。誰かと、手を繋ぐ夢。だが目を覚ますと、その誰かの顔は、もうどこにもなかった。指のあいだから、こぼれた砂のように、つかもうとすればするほど遠ざかっていく。俺は必死に手を伸ばした。だがそこには、何も、なかった。ただ涙だけが、頬を流れ続けていた。
俺は廃墟の、観測所に、倒れていた。まわりには大勢の人々がいた。みんな、放心したように。だがその顔には深い安堵の色があった。
「灯さん! 気がついたか!」
あの、老人が、駆け寄ってきた。俺を助け起こしながら涙を流して。
「やったんだ、灯さん! 世界は、救われた! 天網は、鎮まった! もう、二度と、飢えない! ……あんたが。あんたたちが。成し遂げたんだ!」
◇
「……あんた、たち?」と、俺は聞き返した。
俺は確かに何かを成し遂げた、気がする。世界を救った。天網を鎮めた。その、記憶は、ある。街じゅうの想いを集めて、天網の、新しい根っこをつくった。……だが。
「あんたたち、って。……誰と、俺は」
老人の、顔が、曇った。
「……覚えて、ないのか」と、老人は言った。「あの、女の子だよ。星屑の、少女。あんたが、ずっと、守ってた。原初の終縞……いや。今は、ただの、女の子に、なった、あの子だ」
女の子。星屑の、少女。……その言葉に、俺の胸が、ざわついた。何か。何か、とても、大切な。だが顔も、名前も、何も、浮かんでこない。
「……悪い」と、俺は言った。「俺は。その子のことを。何も。覚えてないんだ」
老人は悲しげに、うなずいた。
◇
「そう、か」と、老人は言った。「……そういう、儀式、だったんだな。おたがいを、忘れる。……その代わりに。世界を、救う。あんたたち、二人の。いちばん、大切な想いを。差し出して」
俺はうつむいた。
覚えていない。だがこの、胸の、空洞が、この名前のない悲しみが、……それが、答えだった。俺は誰かを愛していた。とても大切な誰かを。そしてその記憶を世界のために、差し出したのだ。
俺は震える手で、自分の胸を押さえた。
――思い出せない。
どんなに、もがいても、その子の顔が、名前が、声が浮かんでこない。まるで最初からいなかったみたいに。だがこの胸の痛みだけが、その子がいたことを教えていた。
おかしな話だった。顔も名前も思い出せないのに、この子を失った悲しみだけが、こんなにも鮮やかに胸を灼く。……いや、それは記憶じゃ、ないのかもしれない。もっと深いところに刻まれた、魂の傷のようなもの。頭は忘れても、心が覚えている。おまえは、確かに誰かを愛したのだ、と、そう、教えてくれているようだった。
◇
俺は立ち上がった。ふらつきながら。人々のあいだを歩いた。
その子を探して。覚えていないのに、この胸の痛みが俺を突き動かした。会いたい。誰だか、わからない。でも会いたい。その名前のない衝動に突き動かされて、俺は歩いた。
人々のいちばん端に、一人の少女が座っていた。
夜色の瞳の少女だった。ぼんやりと、空を見上げている。その体からは、もう光の粒はこぼれていなかった。ただの人間の女の子だった。どこにでも、いそうな。
俺の足が、止まった。
その子を見た瞬間。胸の痛みが、ひときわ強く疼いた。
名前も、顔も、声も、何ひとつ思い出せないのに、その子がそこに座っているのを見ただけで、俺の体の奥のいちばん深いところが、まるでずっと探していたものをようやく見つけたみたいに、静かにけれど確かに震えたのだ。……この子だ。俺が、失った。大切な、誰か。この子に、違いない。
◇
俺はその子に、歩み寄った。
少女が、俺に、気づいて、顔を上げた。夜色の瞳が、俺をとらえる。
だがその目には、何の、感情も、浮かばなかった。
俺を見ても、この子は何も、思い出さない。ただ見知らぬ人を見る、目だった。……そうだ。この子も、俺のことを忘れたんだ。おたがいを忘れる。それが、この道の、代償だった。
「……あの」と、俺は声をかけた。何を言えばいいのか。わからないまま。「……あんた。名前は」
少女はしばらく。俺を見ていた。それから小さな声で、言った。
「……わからない」と、少女は言った。「なまえ。……わたし、なまえが、ない、みたいなの。……おぼえて、ないの。なにも」
俺の胸が、締めつけられた。
名前が、ない。この子は原初の終縞から、ただの人間になった。だがその代わりに、名前も記憶も、すべて失ったのだ。まるで、あの、空から。墜ちてきた、あの夜のように、まっさらな光の子として。……いや、俺はその夜を知らないはずなのに、なぜ。そんな、言葉が、浮かんだのか。
◇
俺はその子の、前に、しゃがみこんだ。
名前が、ない。記憶が、ない。それはまるで、生まれたての子どものように。だが、俺はなぜか。この子に、名前をあげたい、と、思った。理由は、わからない。ただそうしなければいけない気がした。魂のいちばん深いところが、そう告げていた。
俺は空を見上げた。人工の夜が明けて、あたたかい光の雨を浴びた空には、うっすらと星屑の光がまたたいていた。
その光を見て、俺の口から。自然と、言葉が、こぼれた。
「……星」と、俺は言った。「お前の、名前は。星、だ」
少女の、目が、大きく。見開かれた。
その瞳から。ふいに涙が、あふれた。理由も、わからないまま。ぽろぽろと。
「……ほし」と、少女はつぶやいた。「せい……。……なんでだろう。……その、なまえ。……すごく、あったかい。……なつかしい、きがする」
俺の胸も、熱くなった。
覚えていない。二人とも、おたがいのことを何も、だが、この、名前を口にした瞬間。二人の胸のいちばん奥で、あたたかいものが確かに触れ合った気がした。
名前をあげる。ただそれだけのことなのに、なぜ、こんなに、胸が、震えるのか。俺には、わからなかった。だがこの子に、この名前を贈ることが、何よりも、大切なことのように、思えた。まるで、ずっと昔にも、俺はこの子に、名前をあげたことが、あるみたいに、……そんな、はずは、ないのに。
◇
俺はその子に、手を差し出した。
「星」と、俺は言った。「行こう。……どこへ、とは。言えないけど。……なんだか。お前を。一人には。しておけない、気がするんだ。理由は。わからない。……でも」
少女は――星は俺の差し出した手をじっと見ていた。
それからおずおずと、その、小さな手を俺の手に、重ねた。
触れた、瞬間。あたたかいものが、二人のあいだを流れた。まるで、ずっと昔から。この手を知っていたように、この手のかたち。この指の温度。何もかも、初めてのはずなのに、どうしようもなく、なつかしい。俺の体が、心が、この子を覚えていた。頭より、ずっと深いところで。
この子の手はあたたかかった。空から墜ちてきたばかりの光のように。俺はその温度を知らないはずだった。なのに指先が覚えている。この子と過ごした日々を頭が忘れても、手が、体が、まだ手放していなかった。忘却さえ奪えなかったものが、この繋いだ手のなかに残っている。それだけで俺は生きていけると思った。
俺たちは、おたがいを覚えていない。名前も、過ごした日々も、愛し合ったことも、すべて、世界のために、差し出した。
だが
この手のぬくもりだけは、このなつかしさだけは、魂のいちばん深い根っこに、確かに残っていた。記憶を失っても、消えなかった。俺たちが、たがいを想い合ったという。その、いちばん大切な、真実だけは。
――もう一度。
俺は星の手を握りしめながら思った。もう一度。この子と、出会い直そう。名前も、何も、忘れたけど。ここから。また。始めればいい。
夜明けの光のなかで、俺たちはもう一度出会った。名前のない少女と、名前をあげた少年が。すべてを忘れて、それでもまた惹かれ合って。
それは悲しい結末だったのかもしれない。愛し合った記憶を二人とも失ったのだから。だが俺はこの繋いだ手のあたたかさのなかに、確かな希望を感じていた。記憶は、消えても、想いは、消えなかった。名前をあげれば、涙がこぼれるくらいに。俺たちの絆は、魂の根っこでまだ生きていた。
だったら、大丈夫だ。俺たちはまた出会える。何度でも。そしてまた恋をするだろう。この名前のない光を、もう一度手繰り寄せながら。……それが、俺たちの、選んだ、未来だった。
人々のなかに、夜色の瞳の少女がいた。名前も記憶もない、ただの女の子。灯は、そっと名前をあげる。「星」と。二人とも忘れたのに、その名に、なつかしさが宿った。もう一度、出会い直す。




