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第55話 奪わない

 宵を喪った怒りのなか、灯は榊に剣を向ける。だが星が止める。灯は奪う人じゃない、与える人でしょう、と。灯は剣を捨て、榊を斬らないと告げる。

 しばらく誰も、動けなかった。


 宵さんが、倒れた、その瞬間から。時が、止まったように、感じられた。地下の人々も。榊の兵も。みんな、息をのんだまま。ただ床に、広がっていく、血だまりを。見つめていた。


 星が、宵さんの、そばに、崩れ落ちた。震える手で、その、痩せた頬に、触れる。よいさん、よいさん、と。何度も、呼びかけながら。だが返事は、なかった。宵さんの目は、もう閉じられて。二度と、開かなかった。


 俺はその光景を見ていた。頭のどこかが、しんと、冷えていく。二年間、この人は、囚われて。それでも生き抜いて。俺が、迎えに行くまで、待っていてくれた。星を救う道を教えてくれた。……そして、最後に。また星をかばって。逝った。


 その、あまりに、理不尽な、幕切れを。俺は受け止めきれなかった。悲しみより先に。もっと、熱くて、黒いものが。腹の底から、突き上げてきた。


 俺はゆっくりと、立ち上がった。そして榊に、歩み寄った。


 宵さんの血で、濡れた手を握りしめて。腹の底から、怒りが、湧き上がってくる。この男が。宵さんを。二年間、耐え抜いて。最後に、また星をかばった、あの人を。……許せない。この手で。


 榊は、短剣を構えて、後ずさった。だがその顔には、もう余裕は、なかった。地下の人々に、囲まれ。兵は散り散りだ。逃げ場は、ない。


「来るな……来るな!」と、榊は、叫んだ。「私は……私は、間違って、いない! この街を、守るために……!」


 俺は足を止めなかった。倒れた兵の、剣を拾い上げる。それを榊に、向けた。この男を斬る。宵さんの、仇を。星を狙う、この脅威を。……今ここで。



◇



「灯っ!」


 星の、声が、した。


 俺は剣を構えたまま、動きを止めた。


「だめ……!」と、星が、叫んだ。涙を流しながら。「灯……その、けん。おろして。……おねがい」


「星」と、俺は言った。低い声で。「こいつは、宵さんを、殺したんだ。お前を、狙ってる。……こいつを、生かしておいたら。また、誰かが、傷つく。だから……」


 俺の頭は、真っ白だった。ただ宵さんの、あたたかい血の感触だけが。手に、残っていた。二年間、囚われて、痩せこけて。それでも最後まで、俺と星を案じてくれた、あの人。その、命を奪った男が。目の前に、いる。……理性より、先に。体が、動いていた。復讐の、二文字が。頭を灼いていた。


「わかってる」と、星は言った。「わかってる、けど……。でも、灯が。ひとを、あやめる、すがたなんて。……みたく、ない」


 俺の、心臓が、跳ねた。


 だが剣を下ろせなかった。下ろせば。この、腹の底で、暴れる、黒いものが。行き場を失う。宵さんの死が。ただの、無駄に、なる気がした。誰かが、償わなきゃ、ならない。この、理不尽に。この、喪失に。……その、やり場のない気持ちが。剣を握る手を震わせていた。


 星は俺の顔を見ていた。涙で、濡れた顔で。俺が、どれほど、苦しんでいるか。この子には、わかっていた。俺が、宵さんをどれほど、大切に思っていたか。俺が、今どれほど、復讐に、駆られているか。……そのすべてを受け止めた上で。それでもこの子は。剣を下ろして、と。願っている。


 長い、沈黙が、あった。俺の、荒い息だけが。廃墟に、響いていた。剣の切っ先が、迷うように、揺れた。斬るべきだ、という声と。斬るな、という声が。俺のなかで、激しく、ぶつかり合った。宵さんの、あたたかかった血。星の、まっすぐな瞳。二つが、俺を両側から、引っぱっていた。


「灯は」と、星は続けた。「うばうひとじゃ、ないでしょ。あたえるひと、でしょ。……ここで、さかきさんを、あやめたら。灯も、おなじに、なっちゃう。うばうせかいの、じゅうにんに。……そんなの、いやだ」



◇



 俺は剣を握る手が、震えた。


 星の、言うとおりだった。ここで、榊を斬れば。俺は奪う側に、なる。久遠や、榊と、同じ。恐怖と、怒りに、のみこまれた、亡霊に。……宵さんが、命を賭けて、守ったのは。俺が、そんな男に、なることじゃ、ない。


 俺は榊を見た。震えながら、短剣を構える、この男を。


 ――こいつも。恐怖に、囚われた、一人の、人間だ。


 俺は深く息を吸った。腹の底の、怒りを。ゆっくりと、鎮めながら。そして剣を。地面に、投げ捨てた。


 からん、と。乾いた音が、崩れた廃墟に、響いた。


「……俺は」と、俺は言った。「あんたを、斬らない」


 榊が、目を見開いた。



◇



「なぜだ」と、榊は、かすれた声で、言った。「私は……お前の、大切な者を、殺した。お前を、憎んでいるだろう。斬りたいだろう。……なぜ、斬らない」


「斬りたいさ」と、俺は言った。正直に。「今も、腹の底が、煮えくり返ってる。……でも、斬らない。斬れば、俺は、あんたと、同じになる。奪う側に、な。……そして、それは。宵さんが、いちばん、望まないことだ」


 俺は榊の目をまっすぐ見た。


「榊さん。……あんたも、失ったんだろう。灼き落としで。大切な、誰かを」


 榊の、体が、こわばった。図星だった。


「……妻と、娘を」と、榊は、絞り出すように、言った。「あの夜。天網の、暴走で。……目の前で。焼けて、消えた。私は、何も、できなかった。ただ、見ていることしか」


 榊の目から。涙が、こぼれた。憎悪の、仮面が。剥がれ落ちて。その下から。深い、深い、悲しみが。あらわれた。


 俺はその涙に。かつての、久遠を重ねた。あの男も、最後は、涙を流した。過去に、囚われた者は。みな、同じ顔をしている。憎悪の、奥に。癒えない、傷を隠して。……この男も。ただ悲しかっただけなんだ。大切なものを失って。その痛みに、耐えきれなくて。だから二度と、失うまいと。すべてを力で、握りしめようと、した。その手が、かえって。新たな喪失を生んだとも、知らずに。



◇



「だから、私は」と、榊は、震える声で、言った。「二度と、あんな思いは、したくなかった。制御できない、天網が。また、暴走して。大切なものを、奪っていく。……それが、こわくて。こわくて、たまらなかった。だから……力で、押さえこもうと、した。その少女を。原初の終縞を。……確実に、管理下に、置けば。もう、何も、失わずにすむと」


 榊の指が、無意識のように、外套の留め具を、また、一つずつ、確かめていた。震える手で。


「私は、数えられるものしか、信じられなくなった」と、榊は、言った。「帳簿に、つけられるもの。鍵をかけて、しまえるもの。……そういうものだけが、失わずにすむと、思った。想いだの、絆だの、目に見えないものは。……こわかった。数えられないものは、いつ、消えるか、わからないから。あの夜、妻と娘が、一瞬で、消えたように」


 俺は、その言葉に、久遠との、違いを、見た。久遠は、すべてを諦めて、破滅に賭けた。だが榊は、逆だ。何ひとつ諦めきれなくて、すべてを、数えて、閉じこめようとした。絶望の、向きが、真逆なんだ。それでも、根にあるのは、同じ。喪うことへの、耐えがたい、恐怖だった。


 俺はその言葉に、胸が、痛んだ。


 この男も。俺と、同じだった。大切なものを失って。二度と、失いたくなくて。もがいていた。ただその、恐怖の、行き先が。俺とは、逆だった。俺はこの子と、生きる道を選んだ。榊は、すべてを力で、凍りつかせる道を選んだ。


「榊さん」と、俺は言った。「その、こわさは。わかる。俺も、姉を、失った。二度と、失いたくないって、気持ちは。痛いほど、わかる。……でも。力で、押さえこんでも。恐怖は、消えない。むしろ、増えるだけだ。あんたは、そうやって。今日、また一つ。宵さんを、失わせた」


 榊は、何も、言い返せずに。ただうなだれた。



◇



「恐怖を、乗り越える道は」と、俺は言った。「奪うことでも、押さえこむことでも、ない。……分かち合うことだ。星が、あんたに、言っただろう。恐怖を、あずけろ、と。一人で、抱えこむな、と。……それが、この子の、そして、姉さんの、たどり着いた答えだ」


 俺は星を見た。星は頬を濡らしながら。それでも榊に、向かって。もう一度、その手を差し伸べていた。


 あれだけのことをされて。宵さんを殺されて。それでもこの子は。榊を憎まなかった。ただその恐怖を受け止めようと、している。


 俺はその姿に。胸が、熱くなった。


 ――かなわねえな。この子には。


 俺が、腹の底で、煮やしていた怒りを。この子は優しさで、越えていく。憎むより、赦すほうが。よほど、強くて、難しいのだと。この子はその身で、教えてくれる。


 だが、それでも。俺は、この男を、赦せたわけじゃ、なかった。


 斬らない。それは、決めた。だが、宵さんを殺した、この男を。今日、この場で、抱きしめてやれるほど。俺は、できた人間じゃ、ない。腹の底には、まだ、黒い塊が、居座っていた。


「……勘違いすんな」と、俺は、低く、言った。「斬らないのは、あんたを赦したからじゃ、ない。俺が、あんたと同じ側に、堕ちたくないからだ。……宵さんを殺したことは。俺は、忘れない。今は、赦せない。それで、いい」


 俺は、立ち上がった。榊を、見下ろして。


「あんたが、ほんとうに、償いたいなら。……生きろ。逃げずに。そして、いつか、自分のしたことと、向き合え。赦すか、赦さないかは。……それを、見てから、決める」


 突き放すような、言葉だった。だが、それが、そのときの俺の、精いっぱいの、正直さだった。憎しみを、その場でなかったことにはできない。だが、殺しもしない。その、宙ぶらりんの重さごと、抱えて生きていく。……それが、奪わない、ということなのだと思った。



◇



 榊は、しばらくうなだれていた。


 その、肩が、震えていた。二年間、抱え続けた、恐怖と、悲しみが。今堰を切ったように。あふれ出しているようだった。


「……私は」と、榊は、つぶやいた。「取り返しのつかないことを、した。あの、老婆を……殺してしまった。今さら……許されるはずが、ない」


「許すかどうかは、俺が、決めることじゃ、ない」と、俺は言った。「宵さんが、決めることだ。……でも、俺は、知ってる。宵さんは、優しい人だった。……きっと、あんたのことも。憎まない。ただ、こう、言うだろう。もう、こわがるな、って。前を、向け、って」


 榊が、顔を上げた。涙で、濡れた顔で。


 その目から。狂気の色が。消えていた。ただ疲れ果てた、一人の、男が。そこに、いた。大切なものを失い。恐怖に、囚われ。それでもまだ生きている、一人の、人間が。


 榊は、短剣を。地面に、落とした。そしてその場に、崩れ落ちて。子どものように、声を上げて、泣きじゃくった。


 地下の人々が、その榊を静かに取り囲んだ。だがもう誰も、この男を攻めなかった。ただその、慟哭を。静かに見守っていた。憎しみでは、なく。哀れみの目で。かつて、自分たちを苦しめた男の。その、崩れゆく姿を。……この街は、変わったのだと。俺はあらためて、思った。奪われた者が、奪った者を。赦そうとしている。それは、久遠のときには、なかった光景だった。星が、まいた種が。人々の心に。こんなにも、深く根を張っていた。


 ――ひとまず、終わった。


 俺はそう、思った。榊との、戦いは。斬ることでも、殺すことでもなく。剣を、下ろすことで。終わった。だが、赦したわけじゃ、ない。俺の胸には、まだ、澱のような怒りが、残っていた。それを、無理に、流そうとは、しなかった。赦しは、こんなに、簡単なものじゃ、ない。時間が、いる。宵さんへの、けじめが、いる。……それは、これから、ゆっくり、向き合っていくものだと思った。


 だが俺の胸には。宵さんを失った、深い、喪失が。ぽっかりと、大きな穴を空けていた。この、与え合う世界を掴むために。俺たちは。また一つ。かけがえのないものを。喪ったのだ。


 俺は宵さんの、亡骸に、歩み寄った。そしてその、まだあたたかい手を握った。……ありがとう、宵さん。あんたが、繋いでくれた命で。俺は星を生かす。あんたと、姉さんの、夢を必ず、この街に、根づかせる。だから安らかに、眠ってくれ。もうこわがらなくて、いい。もう囚われなくて、いい。……ゆっくり休んでくれ。


 俺は宵さんの、閉じた目もとをそっとなでた。二年ぶりに、地上の、朝の光を。この人は、浴びることが、できた。せめて、それが。救いだと。俺は思いたかった。

 榊もまた、灼き落としで妻と娘を喪った、恐怖の成れの果てだった。灯は赦し、共に生きようと手を差し伸べる。榊は崩れ落ちて泣いた。奪うのではなく、赦すことで。戦いは終わった。

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