第53話 忘れる前に
二人は道を選ぶ。忘れる前に、いっぱい思い出をつくろう――。白湯を淹れ、花を見て、語り合う。忘れると決まっているからこそ、一秒が宝物のように感じられた。
その夜。俺と星は外縁の廃墟の、屋根の上に、並んで、座っていた。
人工の夜空を見上げながら。答えは、もう出ていた。二人で、決めた。姉さんの遺した、道を行く。おたがいを想う気持ちを核にして。天網の、新しい根っこを作る。……そして、おたがいを忘れる。
命は、残る。星は原初の終縞から、解き放たれ、ただの女の子に、なる。世界は、救われる。だが俺たちは、他人に、戻る。……それが、いちばん、みんなが、生きられる道だと。二人で、そう、結論した。
簡単に、決めたわけじゃ、なかった。一晩じゅう、二人で、話し合った。命を取るか。想いを取るか。どちらを選んでも、何かを失う。だが最後に、星が、言ったのだ。灯が、いきてくれるなら。わたしは、なんど、わすれても、また灯をすきになる、と。……その一言で、俺の迷いも、消えた。ああ、そうだ。忘れても。また出会えばいい。また一から、好きになればいい。記憶は、消えても。俺たちが、たがいを選んだという、その事実は。消えやしないのだから。
「灯」と、星が、言った。夜空を見上げたまま。「わたし、きめたよ。……せかいを、すくう。灯を、いかす。そのためなら。……灯を、わすれるのも、うけいれる」
「ああ」と、俺もうなずいた。「俺も、だ。……お前を、生かせるなら。忘れるくらい、受け入れる。……つらいけどな」
星が、俺の肩に、頭をあずけた。
◇
「でも」と、星は言った。小さな声で。「わすれるまえに。……いっぱい、おもいでを、つくりたい」
俺は星を見た。
「わすれちゃうなら。せめて、わすれるそのときまで。……いっぱい、いっしょに、いたい。いっぱい、わらいたい。……そうすれば。わすれても。どこかに、のこるかもしれないから。……こう、むねの、おくの、ほうに」
俺はその言葉に、胸が、詰まった。
忘れても。どこかに、残るかもしれない。……そうだ。記憶は、消えても。この、あたたかい気持ちは。魂の、いちばん深いところに。何か、残るかもしれない。名前も、顔も、思い出せなくても。ふと胸が、あたたかくなる。そんな、かけらくらいは。
「そうだな」と、俺は笑った。「なら、儀式の、そのときまで。いっぱい、思い出を、作ろう。……忘れても、いいくらい。めいっぱい、な」
◇
だからその、わずかな時間を。俺たちは、二人で、大切に、過ごした。
まるで、これまでの日々をもう一度、なぞるように。あの、逃避行の日々。宵さんの隠れ里で過ごした、つかのまの平穏。観測所で、光を分け合った夜。……そのすべてを思い出しながら。俺は星に、いろんなものを見せた。廃墟の、隙間から、差しこむ、人工の朝日。崩れた壁に、咲いた、小さな花。星はそのひとつひとつに、目を輝かせた。初めて、出会ったころと、同じように。世界の、すべてが、珍しくて、愛おしい、というふうに。
「灯、みて! はな、さいてる!」と、星が、はしゃいだ。
「ああ」と、俺は笑った。「こんな、瓦礫のなかでも。花は、咲くんだな」
「うん」と、星はうなずいた。「……わたしたちも。こんなふうに。どんなときでも。わらって、いられたら、いいな」
俺はその、無邪気な横顔を見て。胸が、締めつけられた。 この、なんでもない、ひとときが。どうしようもなく、愛おしかった。忘れると、決まっているからこそ。一秒が、宝物のように、感じられた。人は、失うと知って、初めて。目の前のものの、本当の価値に、気づくのかもしれない。
この笑顔を。忘れちまうのか。俺は。……いや、と、俺は思い直した。今は、そんなことを考えるな。今この瞬間を。めいっぱい、覚えておくんだ。忘れる、その瞬間まで。この子と過ごす、一秒一秒を。焼きつけておく。
◇
俺は星に、白湯を淹れてやった。
あの、最初の夜と、同じように。欠けた椀に。あたたかい、白湯を。星はそれを両手で、受け取って。ふうふうと、冷まして。一口、すすった。
「……あったかい」と、星は笑った。「やっぱり、しろゆは、あったかい。……灯が、はじめて、くれた、あじ」
「覚えてるか」と、俺は言った。「お前が、初めて、うちに来た夜。この白湯を、飲んで。あったかいって、笑ったんだ。……あのとき、俺は。ああ、この子を、守りたいって。初めて、そう、思った」
「……そうだったの?」と、星は目を丸くした。
「ああ」と、俺はうなずいた。「あのときから、ずっと。俺は、お前に、救われてたんだ。……凍りついてた、俺の心を。お前が、あの笑顔で、溶かしてくれた」
星の目に、涙が、にじんだ。
「わたしも」と、星は言った。「灯に、ぜんぶ、もらった。……なまえも。ことばも。あったかさも。……いきる、いみも。ぜんぶ、灯が、くれた」
俺はその言葉に、胸が、いっぱいに、なった。もらったのは、俺のほうだと、思っていた。だがこの子も、同じように、感じてくれていた。……そうか。俺たちは、たがいに、たがいを救い合っていたんだ。奪い合うんじゃなく。与え合って。姉さんの夢を俺たちは、二人の間で、とっくに、生きていたのかもしれない。ならばその夢を。街ぜんぶに、広げるのが。俺たちの、最後の仕事だ。
◇
二人で、たくさん、話した。
これまでの、日々のことを。楽しかったこと。怖かったこと。うれしかったこと。悲しかったこと。……すべてを。忘れる前に。もう一度、二人で、たどるように。
俺は思った。この時間が、あって、よかった、と。もし、いきなり、儀式で。すべてを忘れていたら。俺はきっと後悔しただろう。もっと、話しておけば、よかった、と。もっと、この子を見ておけば、よかった、と。……だが、今こうして。二人で、めいっぱい、過ごせている。忘れる前に。悔いのないように。それだけが、せめてもの、救いだった。
夜が、更けた。星が、俺の腕のなかで、眠りに、ついた。穏やかな、寝顔で。もううなされては、いなかった。他人の記憶に、のまれることも、なく。ただ静かに。俺の隣で。眠っている。
この、平穏な寝顔を守れたことだけでも。ここまで、あがいてきた甲斐は、あった。かつて、街じゅうに、こわがられ、狩り立てられた、この子が。今こんなにも、安らかに、眠っている。それは、俺と、宵さんと、そして、街の人々みんなで、勝ち取った、ささやかな、けれど、かけがえのない光景だった。この光景を守るためなら。俺はなんだって、する。
俺はその寝顔をいつまでも、見ていた。
――忘れたくない。
正直な、気持ちが、こみ上げた。この子を。この、あたたかい日々を。忘れたくない。だが忘れなければ。この子は生きられない。世界も、救えない。……なんて、残酷な、選択なんだろう。
◇
だが。俺の感傷は。長くは、続かなかった。
夜明け前。廃墟の、外から。かすかな、足音が、近づいてきた。いくつもの。金属の、擦れる音。……兵だ。
俺ははっと、身構えた。星をかばうように、抱き寄せる。宵さんも、目を覚まして、身を固くした。
崩れた窓から、外をうかがう。夜明けの薄闇の、なか。松明の列が、廃墟を包囲しつつあった。先頭に、榊が、いた。血走った目で。俺たちの、隠れ家を突きとめたのだ。
「……とうとう、来たか」と、俺はつぶやいた。
時間切れだった。あまりにも、早すぎる、幕切れだった。儀式の、準備も、まだ整っていない。街じゅうの想いを集める、その仕組みも。……なのに、榊はここで、決着をつけるつもりだ。星を動力源として、奪うために。
俺はこぶしを握りしめた。
この、榊を越えなければ。姉さんの道も、何も、始まらない。星と、生きるための、最後の日々を。守るために。俺は立ち上がった。眠る星を宵さんに、託して。
――やらせやしない。
俺は崩れた戸口へと、向かった。夜明けの、薄闇の、なかへ。この子との、大切な時間を。踏みにじらせは、しない。たとえ、相手が、どんな絶望だろうと。俺はもう退かない。
だが正面から、ぶつかっても、勝ち目は、ない。相手は、武装した兵の、集団だ。俺は走りながら、必死に考えた。時間を稼ぐ。地下の人々が、加勢に来るまで。あるいは、榊の狙いを逆手に取る。何か、手は、あるはずだ。……あきらめるな。姉さんの道が、見えたんだ。あと少しなんだ。ここで、終わってたまるか。
俺は崩れた戸口の陰に、身をひそめた。榊の兵が、廃墟へ踏みこんでくる。錆びた金具の、こすれ合う音。その足音を聞きながら、俺は息を殺して、機をうかがった。星と過ごした、あの忘れられない日々。その、いちばん最後の一日を、この男に汚させはしない。俺は、拳を、握りしめた。爪が、手のひらに、食いこむほど、強く。
だが夜明け前、榊が隠れ家を突きとめ、襲ってくる。星を動力源として奪うために。二人の最後の日々を、この男に汚させはしない。灯は、崩れた戸口の闇へ、踏み出した。




