第52話 種にするもの
だが宵が、代償を告げる。核にする想いは、記憶ごと天網に捧げられる。つまり灯と星は、おたがいを忘れ、他人に戻る――それが、二人とも生きられる、唯一の道だった。
地下の人々が、榊の兵を押し返してくれた。
その隙に、俺は星と、宵さんを連れて。観測所の、裏手から、外へ、逃れた。榊はまだあきらめていない。だが地下の人々が、時を稼いでくれている。俺たちは、外縁の、崩れた建物の、一室に、身をひそめた。
息を整えながら。俺は宵さんに、向き直った。
「宵さん。姉さんが、言ってた道。……俺と星の、たがいを想う気持ちを、核にして、街じゅうの想いを、より合わせる。それで、天網の、新しい根っこを、作る。……それで、合ってるか」
「ああ」と、宵さんはうなずいた。「詩織が、たどり着いた、本当の答えだ。……人間一人を、犠牲にするんじゃ、ない。いちばん強い想いを、核にして。街ぜんぶで、支える、新しい根っこ。……それなら、誰も、消えずに、すむ」
俺はほっとした。誰も、消えない。星も俺も生きて。世界を救える。……だが。
宵さんの、顔は。晴れなかった。
◇
「宵さん」と、俺はその表情に、気づいて、聞いた。「……まだ、何か、あるのか」
宵さんはしばらく黙っていた。それから重い口を開いた。
「灯。……よく、聞くんだよ」と、宵さんは言った。「その、核になる想いは。天網に、捧げられる。……つまり、天網の、根っこの、一部に、なる、ということだ」
「ああ」
「捧げた想いは」と、宵さんは静かに言った。「もう、あんたたちの、手には、戻らない。……あんたと、星の、たがいを想う気持ち。その、記憶ごと。天網に、渡すことに、なる」
俺の動きが、止まった。
「……それは、どういう、意味だ」
「言葉の、とおりだよ」と、宵さんは悲しげに、言った。「あんたと、星は。おたがいを、想う気持ちを。その、想い出のすべてを。天網に、捧げる。……そして、忘れる。おたがいのことを。出会ったことも。過ごした日々も。愛し合ったことも。……すべて」
◇
俺は言葉を失った。
忘れる。星のことを。この、二か月あまりの、すべてを。墜ちてきた夜。名前をあげた朝。白湯をあたたかいと、笑った顔。好きだと、言い合った、夜。……そのすべてを。天網に、捧げて。忘れる。
俺はこの二か月の日々を思い返した。星読みとして、他人の死ばかり読んで、心を凍らせていた俺。その俺の灰色の毎日に。ある夜、空から、この子が、墜ちてきた。言葉も、名前も、知らない、光の子が。俺はこの子に、名前をあげた。言葉を教えた。そしていつのまにか。この子なしでは、生きられなく、なっていた。……その、すべてが。俺をもう一度、人間に、してくれた、その、かけがえのない日々が。ぜんぶ、消える。まるで、最初から、なかったみたいに。
そんなこと。耐えられるのか。俺に。この子を忘れて。またあの、凍りついた毎日に、戻ることに。
「そんな……」と、俺はかすれた声で、言った。「じゃあ、俺は。星のことを、忘れちまうのか。星も、俺のことを……」
「そうだ」と、宵さんはうなずいた。「二人とも、生きて。世界も、救われる。だが……おたがいのことは、何も、覚えていない。他人に、戻る。それが……この道の、代償だ」
俺はその場に、へたりこんだ。
なんて、ことだ。誰も、消えないと、思った。星も俺も生きられると。喜んだ。……だが、その代わりに。俺たちは、おたがいを失う。命は、残っても。この、いちばん、大切な、想いを。記憶を。手放さなきゃ、ならない。
◇
星が、俺のそばに、座った。話を聞いていたのだ。青ざめた顔で。
「灯……」と、星が、つぶやいた。「わたしたち……おたがいを、わすれちゃう、の?」
「……ああ」と、俺はうなずくしか、なかった。
星はしばらく黙っていた。それからぽつりと、言った。
「……いやだな」
その、小さな声が。俺の胸を締めつけた。
「灯のこと、わすれるなんて。……なまえを、くれたことも。しろゆの、あじも。……ぜんぶ、わすれちゃう。……そんなの、いやだ」
星の目から、涙が、こぼれた。俺はその肩を抱き寄せた。俺だって、同じだ。この子を忘れるなんて。考えただけで、胸が、張り裂けそうだった。
命が、助かっても。おたがいを忘れて、他人に、戻る。それは……ある意味。二人とも、消えるより、つらい道かもしれない。心が、繋がったまま、記憶だけを奪われる。二人が、二人でなくなる。
俺は拳を握りしめた。あの決戦の夜、俺はこの子に、言った。過去形で、話すな、と。しあわせだった、じゃない、しあわせだ、だと。……なのに、この道を選べば。俺たちの、すべては、過去にすら、ならない。記憶ごと、消えて。なかったことに、なる。……それは、死ぬより、残酷なんじゃ、ないか。命が、残るぶん。すれ違っても、気づかない。となりにいても、他人。……そんな未来が、待っている。
◇
だがと、俺は思った。
この道しか、ないのか。姉さんが、遺してくれた、唯一の道。誰も、命を落とさずにすむ、道。その代償が。おたがいを忘れること。
「宵さん」と、俺は聞いた。「ほかに、道は。……記憶を、失わずに、すむ、方法は、ないのか」
宵さんは首を横に、振った。
「ないよ」と、宵さんは静かに言った。長い沈黙の、あとで。「核になるのは、いちばん、強くて、純粋な、想いだ。……中途半端な、気持ちじゃ、天網は、鎮まらない。あんたたちの、いちばん、大切な、その想いを、丸ごと、捧げる。だからこそ、原初の終縞の、代わりに、なれる。……惜しんでいては、できないんだ」
俺はうつむいた。
いちばん、大切なものを捧げる。惜しんでいては、できない。……皮肉な、話だった。二人が、たがいを想う気持ちが、強いほど。世界を救える。だがその、いちばん強い想いを。捧げてしまえば。二人は、おたがいを忘れる。……愛しているからこそ。その愛を手放さなきゃ、ならない。
◇
俺はしばらく動けなかった。
どうすれば、いいんだ。命を取れば、想いを失う。想いを取れば……星が、器のまま、壊れて、消えるか。原初の終縞として、いつか、読まれるか。どっちにしろ、二人は、離ればなれだ。
……いや、と、俺は思い直した。
命が、残るなら。おたがいを忘れても。星は生きられる。ただの、女の子として。この、与え合う世界で。誰かと、笑って。俺のことは、忘れても。……それでも、生きて、いてくれる。それは。俺が、消えて、この子を遺すより。あるいは、この子が、消えて、俺が、遺されるより。ずっとましだ。
俺は顔を上げた。星を見た。涙で、濡れた、その顔を。
「星」と、俺は言った。「……つらい道だ。おたがいを、忘れる。他人に、戻る。……でも、生きられる。二人とも。この世界で。それだけは、確かだ」
「灯……」
「俺は」と、俺は言った。声を絞り出して。「お前が、生きてさえ、いてくれれば。それで、いい。……たとえ、お前が、俺を、忘れても。お前が、どこかで、笑って、生きてるなら。……俺は、それで、十分なんだ」
星は涙を流しながら。俺を見つめていた。
だがその目には。俺の言葉に、素直に、うなずけない。そんな、色が、あった。この子も、迷っている。命か、想いか。二人の、答えは。まだ出ていなかった。
俺には、その迷いが、痛いほど、わかった。この子はきっとこう、思っている。灯が、わたしを忘れるくらいなら。わたし一人が、消えたほうが、いい、と。あの決戦前夜も、この子はそう言った。もし間に合わなかったら、わたしを読んでいい、と。この子はいつも自分より、俺を選ぶ。……そして、俺もまた同じだ。二人とも、相手を生かすことしか、考えられない。だからこそこの、忘れるという道は。俺たちにとって、いちばん、苦しい選択だった。おたがいを想う、その気持ちを。自分たちの手で、手放すのだから。
残された時間は、あまりに、少ない。榊が、迫っている。星の消耗も、進んでいる。……それでも、この、いちばん、大切な問いの、答えだけは。二人で、出さなきゃ、ならなかった。
俺は星の手を握った。冷たくなりかけた、その手を。あたたかい光を少しだけ、注ぐ。この、手の感触も。この光も。いつか、忘れてしまうのか。……そう思うと、胸が、詰まった。だが俺は心のどこかで、もう答えを決めかけていた。この子が、生きられるなら。俺はこの子との、いちばん大切な記憶さえ、差し出す。それが、どんなに、つらくても。愛するというのは、そういうことだと。……姉さんが、燃える街へ、飛びこんだ、あの夜のように。いちばん大切なものを守るために、いちばん大切なものを差し出す。それが、冬瀬の、血なのかもしれない。俺は静かに覚悟を決めた。この記憶ごと星を守り抜くと。それが俺の出した答えだった。
命が残っても、おたがいを忘れる。それは、消えるよりつらいのかもしれない。だが灯は、心のどこかで、もう決めていた。星が生きられるなら、いちばん大切な記憶さえ差し出す、と。




