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第48話 秘めた覚悟

 地下へ戻ると、星の症状は進んでいた。灯は宵から、星がこの覚悟を絶対に受け入れないと知らされる。

 地下水路の、隠れ場所に。俺は宵さんを連れて、帰った。


 地下の人々は宵さんを見て、驚き、そして、温かく、迎えてくれた。痩せ細った老婆を寝床に、寝かせ、粥をふるまう。宵さんは二年ぶりの、人のぬくもりに、涙ぐんでいた。生きて、ここまで、たどり着けたことを噛みしめるように。


 だが俺の心は、そこには、なかった。


 星の様子を見に行った、俺は。息をのんだ。


 星が、寝床で、うわ言をつぶやいていた。知らない、誰かの名を。いくつも、いくつも。たろう。はな。じいちゃん。……あずかった人々の、記憶が。この子のなかで、あふれ、渦を巻いている。俺が、留守にした、数日で。星の症状は、さらに、進んでいた。



◇



「星」と、俺はその手を握った。「戻ったぞ。灯だ。……わかるか」


 星が、うっすらと、目を開けた。焦点の、合わない目。それが、ゆっくりと、俺をとらえる。


「……灯」と、星が、つぶやいた。かすかに、笑って。「かえって、きた。……よかった」


 俺はほっとした。俺のことは、まだわかる。だがその安堵は、すぐに、消えた。星の目が、またうつろに、なる。


「……たろう。にげて。……はやく」


 また別の、誰かに、なる。俺は慌てて、与える術を使った。自分の想いを星のなかへ、流しこむ。他人の記憶の、渦に、のまれかけた、この子の、芯を。繋ぎとめるように。


 星の目に、また焦点が、戻る。


「……ごめん、灯」と、星が、弱々しく、言った。「わたし……だんだん、わたしじゃ、なくなってく。……こわいよ」


 俺はその手を強く、握った。何も、言えなかった。ただこの子の、恐怖を少しでも、和らげたくて。手のぬくもりを伝えることしか、できなかった。



◇



 その夜。俺は宵さんの、寝床の、そばに、座った。


「星は、もう、長くない」と、宵さんが、小声で、言った。人々に、聞こえないように。「あんたの、与える力で、繋ぎとめてるが。それも、そう、長くは、もたない。……根っこの役目から、解き放つなら。急がなきゃ、ならないよ」


「わかってる」と、俺はうなずいた。「その、儀式ってのは。どこで、やれるんだ」


「天網観測所だ」と、宵さんは言った。「天網と、じかに、繋がる場所。あんたが、星に、光を与えた、あの廃墟だよ。あそこでなら、人間の終縞を、天網の根っこに、繋ぎ変えられる。……詩織の、ノートに、その術は、あるはずだ」


 俺はうなずいた。姉さんのノート。その、いちばん奥に。第三の道の、さらに、その先の術が。書かれていたのかもしれない。俺はまだ読み解けていない、後半の符牒を思い浮かべた。


「宵さん」と、俺は言った。「その術で、天網の、新しい根っこになるのは。……俺だ。俺が、やる」


「灯」と、宵さんが、俺を見た。悲しげに。「本気なんだね」


「ああ」と、俺は言った。「星を、生かせるなら。俺が、消えることくらい、なんでもない。……こいつを、ただの女の子として、生かしてやりたいんだ。それが、俺の、願いだ」



◇



 宵さんはしばらく俺を見ていた。それから静かに言った。


「……灯。一つだけ、言っておくよ」


「なんだ」


「星は」と、宵さんは言った。「あんたの、その覚悟を、絶対に、受け入れない」


 俺の動きが、止まった。


「考えてごらん」と、宵さんは続けた。「あの子は、かつて、自分を差し出そうとした。あんたのために。世界のために。……それを、あんたは、必死に、止めたんだろう。一緒に生きようって。読ませないって」


 俺はうなずいた。あの、逃避行の、日々を思い出しながら。


「なのに、今度は、あんたが。自分を差し出そうとしてる」と、宵さんは言った。「あの子が、それを、知ったら。どう、思うかね。……自分が、生きるために。いちばん、大切な人が、消える。そんなこと。あの子が、受け入れられると、思うかい」


 俺は言葉を失った。


 宵さんの、言うとおりだった。俺が、星の身代わりを止めたように。星も俺の身代わりを絶対に、許さない。あの子は、優しすぎる。俺のために、消えるくらいなら。自分が、消えることを選ぶだろう。……俺と、同じように。



◇



「だから」と、宵さんは言った。「あんたが、本気で、それを、やるつもりなら。……あの子には、黙って、やるしかない。気づかれる前に。……残酷な話だが、ね」


 俺はうつむいた。


 星に、黙って。俺だけの、覚悟で。この子を生かして、消える。……そうすれば、星は助かる。ただの女の子として、生きられる。だが目覚めたとき、この子は俺が、いないことを知る。俺が、自分の身代わりに、消えたことを知る。……この子はどれほど、傷つくだろう。俺を恨むかもしれない。なぜ、勝手に、消えたのかと。


 だがそれでも。


 俺はこぶしを握りしめた。恨まれても、いい。憎まれても、いい。この子が、生きてさえ、いてくれれば。生きて、いつか、この痛みを乗り越えて。誰かと、笑い合える日が、来るなら。……それで、いい。俺の役目は、この子を生かすこと。その先の、幸せは。この子自身が、掴めばいい。 たとえ、その幸せの、隣に、俺が、いなくても。……いや。俺はいなくても、いいんだ。この子が、笑って、生きてくれるなら。俺は夜空の、いちばん深いところから。ずっとこの子を見守っていられる。星屑に、なって。それは、寂しいけれど。悪くない、終わり方だと、思った。少なくとも、この子を失って、生き残るよりは。ずっとましだ。


「……わかった」と、俺は言った。低い声で。「星には、黙ってる。……気づかれる前に、やる」


 俺のその言葉に。


 背後で。かすかな、衣擦れの音が、した。


 俺ははっと、振り返った。


 寝床のはずの、星が。そこに、立っていた。青ざめた顔で。夜色の瞳を大きく、見開いて。俺を見ていた。



◇



「……いま、なんて、いった?」


 星の声は、震えていた。焦点は、はっきりと、俺をとらえていた。他人の記憶に、のまれていない、星自身の、目で。


 俺は凍りついた。……聞かれた。いちばん、聞かせたくなかったことを。


「星、これは」


「灯が」と、星は俺の言葉をさえぎった。一歩、また一歩と、近づいてくる。ふらつく足で。「灯が、きえる……? わたしの、かわりに……? てんもうの、ねっこに、なって……?」


「星、聞け」と、俺は立ち上がった。「これは、お前を、救う、唯一の道なんだ。お前が、器の運命から、解き放たれて。ただの女の子として、生きられる、たった一つの……」


「いやだっ!」


 星が、叫んだ。地下水路に、その声が、響きわたった。これまで、聞いたことのない、悲痛な、叫びだった。


「いやだ、いやだ……! そんなの、ぜったい、いやだ!」


 星の目から、光の涙が、あふれた。ぼろぼろと。


「灯が、きえるくらいなら……! わたしが、きえたほうが、いい! わたしが、よまれて、おわったほうが、ずっと、いい! ……なんで! なんで、灯が、そんなこと!」


 そのときだった。


 星のたどたどしい言葉が。ふいに崩れるのをやめた。


「――わたしは、この世界が、始まったときから、ここにいた」


 その声は、いつもの、覚えたての、幼い声じゃなかった。澄んで、静かで、底が、知れなかった。まるで、何万年も、生きてきた、誰かの声のように。


「数えきれない死を、見送ってきた。数えきれない別れを、見てきた。……そのすべてに、わたしは、手を伸ばせなかった。ただ、見ていることしか、できなかった。灯。あなたは、わたしにとって、初めてなの。……失いたくない、と、思えた相手は。あなたが、初めてなの。だから」


 星の声が、そこで、ふっと、揺れた。澄んだ水面に、小さな波紋が立つように。


「……だから、いやだよぉ……っ」


 次の瞬間には、もういつもの、たどたどしい、幼い星に、戻っていた。頬を涙で、濡らして。子どものように、しゃくり上げて。だが俺は聞いた。今確かに。この子の、いちばん奥にいる、原初の終縞そのものの、声を。世界と同じだけの齢を重ねた、その孤独の、深さを。


 俺はその、必死の叫びに。胸が、引き裂かれる、思いだった。


 わかっていた。こうなることは。だが目の前で、この子に、そう叫ばれると。俺の覚悟が、どれほど、この子を傷つけるか。骨身に、しみて、わかった。


 星と、俺。二人とも、相手のために、消えようとしている。二人とも、自分が、消えるほうが、ましだと、思っている。……なんて、俺たちは。似た者どうし、なんだろう。愛しすぎて。相手を失うことに、耐えられなくて。


 あの、決戦前夜。俺はこの子に、言った。しあわせだった、じゃない、しあわせだ、だと。過去形で、話すなと。……なのに、今俺は。自分から、この子との、未来を手放そうとしている。この子を生かすために。その矛盾を。どう、埋めれば、いいのか。俺には、わからなかった。ただこの子を失いたくない。その一心と。この子を生かしたい。その一心が。俺のなかで、激しく、ぶつかり合っていた。


 俺は泣きじゃくる星を抱きしめた。強く。


 ――どうすれば、いいんだ。


 どちらかが、消えなければ、ならない。だがどちらも、相手を失いたくない。……この、出口のない、問いに。俺はまだ答えを持っていなかった。


 腕のなかで、星は泣き続けていた。子どものように、しゃくり上げて。俺の胸を小さなこぶしで、叩きながら。ばか、灯のばか、と。消えないで、置いていかないで、と。……その、細い体の、震えが。俺の覚悟を少しずつ、揺さぶった。ほんとうにこれで、いいのか。この子をこんなに、泣かせてまで。俺一人の覚悟で、突き進むことが。……正しいのか。わからなかった。ただこの子を抱きしめる腕に、力をこめることしか、できなかった。

 黙って、やるしかない。そう口にした灯の言葉を、星が聞いてしまう。灯が消えるくらいなら自分が消える、と星は泣き叫ぶ。二人とも、相手のために消えようとしていた。似た者どうしの、出口のない問い。

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