第41話 読まない
夜明けの空の下。灯の手には、二年間さがし続けた、姉の終縞。読めば、姉の最期に、触れられる。
夜明けの光のなかで、俺は姉さんの終縞を握りしめていた。
小さな硝子の筒。そのなかで、あたたかい光が、静かに揺れている。二年間、夜空に探し続けた、姉さんの、最後の一行。読めば、姉さんの最期に、触れられる。あの夜、燃える街で、姉さんが、何を思ったのか。俺に、何を遺したかったのか。それが、わかる。
指先が、筒の、留め具に、かかった。
読み方は、体が、覚えている。この留め具を外して、光に、意識を重ねればいい。それだけで、姉さんの記憶が、流れこんでくる。あと、ほんの少し。手を動かすだけだ。
俺は動けなかった。
喉が、渇いていた。心臓が、痛いくらい、鳴っている。読みたい。会いたい。その気持ちが、津波みたいに、押し寄せる。二年間、ずっと抑えてきた気持ちだ。もう目の前に、ある。手のなかに、ある。こらえる理由なんて、あるのか。
ふいに姉さんの声が、耳の奥で、よみがえった。二年前の、あの朝。仕事に出かける俺に、姉さんは、いつものように、笑って、手を振った。行ってらっしゃい、灯。気をつけてね。……それが、生きた姉さんを見た、最後だった。その夜、灼き落としが、来た。姉さんは、帰ってこなかった。
俺はその笑顔をこの二年、何度も、思い出した。夜空を見上げるたびに。姉さんの終縞が、どこかに、あるはずだと。読めば、もう一度、あの声が、聞けるかもしれない。あの笑顔の、続きに、触れられるかもしれない。……そう思って、探し続けた。仕事で消耗しきった体を引きずって、それでも、夜空を仰ぎ続けた。
その、探し物が。今手のなかに、ある。
◇
「灯」
星が、隣で、俺を呼んだ。
崩れた塔の、瓦礫のふち。夜明けの風が、二人の髪を揺らしている。星は心配そうに、俺の顔をのぞきこんでいた。夜色の瞳に、朝の光が、映って、揺れていた。
「……よむの?」と、星が、小さな声で、聞いた。
責める色は、なかった。ただ俺の選ぶ道をそのまま、受け止めようとする目だった。読むなら、それでもいい。読まないなら、それでもいい。ただ俺の、そばに、いる。そういう目だった。
俺は星を見た。それからまた手のなかの終縞を見た。
二年前の俺なら、迷わず、読んでいた。姉さんの最期を知りたくて。その一行に、すがりたくて。……いや、二年前どころか、つい昨日の俺でさえ、そうだったかもしれない。
だが今は、違う。
俺は久遠の顔を思い出した。姉さんを失って、過去に囚われ、破滅に賭けた、あの男を。俺の、なりえたかもしれない、もう一つの姿。あの男は最後に、前を向いて、逝った。姉さんの夢を見つめて。……その、久遠の背中が、今も、目に、焼きついている。
◇
俺は姉さんの、遺言を思い出した。
――私の終縞は、探すな。前を向いて、生きて。
あの言葉の意味が、今なら、わかる気がした。姉さんは、俺が、この一行に、囚われることを恐れたんだ。過去に、しがみついて、前を向けなくなることを。久遠が、そうなったように。
姉さんは、俺に、うしろじゃなく、前を歩いてほしかった。自分の死を追いかけるんじゃなく。自分の、遺したかった世界を。奪い合うんじゃない、与え合う世界を。……その先を生きてほしかった。
俺は深く息を吸った。
読めば、姉さんに、会える。だがそれは、うしろを向くことだ。読まなければ、姉さんの最期は、永遠に、わからない。だがそれは、前を向くことだ。姉さんが、望んだ、その方向を。
いや、と俺は思い直す。頭では、わかっている。だが心は、まだ揺れていた。姉さんに会いたい。その気持ちは、理屈じゃ、消せない。二年間、抱え続けた想いが、そう簡単に、割り切れるはずが、なかった。
俺は手のなかの終縞をじっと見つめた。あたたかい光。姉さんの、想いそのもの。……読まないというのは、この光を永遠に、閉じたままにするということだ。姉さんの最期を知らないまま、生きるということだ。それは、思っていたより、ずっと重かった。会いたいのに、会わない。知りたいのに、知らない。その痛みを抱えたまま、生きていく。
だがそれでも。俺はそっちを選ぶと決めた。痛みごと、抱えて、前を向く。姉さんが、望んだ、その道を。逃げずに。
……答えは、とっくに、出ていた。
◇
俺は姉さんの終縞をそっと両手で、包んだ。
「姉さん」と、俺は小さく、言った。「俺は、読まない」
星が、はっと、俺を見た。
「あんたの最期を、知りたい。今でも、そう思う。……でも、読まない。あんたが、そう、望んだからだ。前を向いて、生きろって。……その言葉を、俺は、守る」
俺の声が、少し、震えた。だが迷いは、なかった。
「あんたに、会いたい気持ちを、抱えたまま。俺は、前を、向く。あんたの夢の、その先を、歩く。……それが、俺の、あんたへの、答えだ。読むより、ずっと、難しい答えだけどな」
俺は顔を上げた。夜明けの空を見た。
人工の夜を覆っていた闇が、うっすらと、晴れかけている。天網が鎮まり、あたたかい光の雨を浴びた都市に、久しぶりの、朝が、来ようとしていた。姉さんが、夢見た、その景色の、きざしが。
「見てるか、姉さん」と、俺はつぶやいた。「あんたの夢、ちゃんと、ここにある。……俺が、続きを、生きるよ。だから、安心して、眠っててくれ」
◇
星が、俺の、そばに、寄り添った。
「灯」と、星は言った。やわらかい声で。「わたし……灯が、その道を、えらんでくれて。うれしい」
「そうか」と、俺は笑った。
「うん。……だって、うしろを向いた灯より。前を向いた灯のほうが。ずっと、かっこいいから」
俺は思わず吹き出した。
「なんだ、それ」
「ほんとうのこと、だよ」と、星は真面目な顔で、言った。「灯は、かっこいい。……わたしの、じまんの、星読み、だもん」
俺は照れて、そっぽを向いた。だが悪い気は、しなかった。むしろ胸の奥が、じんわりと、あたたかくなった。
俺は姉さんの終縞を懐に、大切に、しまった。読まない。だが捨てもしない。ずっとそばに、置いておく。久遠が、言ったとおりに。もう探さなくて、いい。ずっとそばに、あるのだから。
――ありがとう、久遠さん。
俺は崩れた塔を振り返った。あの瓦礫の下で、逝った、かつての師へ。あんたが、最後に、託してくれた、この一行。俺は読まないことで、あんたと、姉さんの、両方の想いを継ぐ。過去に囚われず、前を向く。それが、俺の、二人への、手向けだ。
久遠の亡骸は、崩れた塔の下だ。掘り起こすことは、できない。だが、いつか、この街が、落ち着いたら。あの人の弔いを、してやりたい。星読みとしての、頂点だった人。最後に、前を向いて、逝った人。その名を、忘れずに、語り継ぐこと。それが、遺された者の、務めだと、俺は思った。奪う世界を、変えようとして、道を、違えた人。だが、最後には、戻ってきた人。そういう人が、いたことを。
◇
朝の光が、都市を照らしはじめた。
崩れた塔の、向こうから。人々が、集まってくるのが、見えた。地下の人々。街の人々。昨夜、想いを放った者たち。みんな、傷つき、疲れきった顔で。それでもその目には、これまで、この都市に、なかったものが、宿っていた。
希望だ。
その光景を見て、俺は胸が、詰まった。この都市の人間が、こんな顔をするのを。俺は生まれて初めて、見た気がした。ずっとうつむいて、飢えて、明日に怯えて、生きてきた人々。その人々が、今顔を上げている。空を仰いでいる。自分たちの手で、掴んだ、朝を。
星が、俺の隣で、その光景を見ていた。かつて、この人たちに、化けものと呼ばれ、狩り立てられた少女が。今その人たちの、希望の、真ん中に、いる。俺はこの子の横顔を見た。朝の光に照らされた、その顔は、これまでで、いちばん、晴れやかだった。もう誰も、この子をこわがらない。もうこの子は逃げなくて、いい。
自分たちの想いで、世界を救ったという、確かな、手応え。奪われるばかりだった人々が、初めて、何かを与え、そして、守り抜いた。その、誇りが。みんなの顔を朝の光みたいに、明るく、照らしていた。
俺は星の手を握った。あたたかい光が、指に、灯る。
「行こう、星」と、俺は言った。「まだ、終わっちゃいない。……ここから、始まるんだ。俺たちの、本当の、続きが」
星が、こくりと、うなずいた。
二人で、朝の光の、なかへ、歩き出した。姉さんの夢の、その先へ。読まないと、決めた男と。読まれずに、生き延びた、少女と。二人で。
――だが。この朝の光の裏で。新たな影が、静かに動きはじめていることを。このときの俺はまだ知らなかった。
灯は、読まない道を選んだ。前を向いて生きろ、という姉の遺言を守るために。会いたい想いを抱えたまま、それでも、前へ。読むより、ずっと難しい答えだ。




