第40話 与える光
灯は最後の想いを――星への、自分自身の想いを、天網に注ぐ。
街じゅうの想いと、灯の想いが、より合わさって。ついに、天網が鎮まる。
久遠が兵を押しとどめてくれた。
崩れゆく塔のなかで、久遠はかつての頂点の威厳をまとって、実務者と、兵たちの前に、立ちはだかっていた。姉さんの終縞を握りしめて。人々を逃がしながら。俺と星が、天網を鎮めるための、その時を稼いでくれている。
俺はその隙に、すべてを注ぎこんだ。
星の手を握って。自分のなかの、ぬくもりを根こそぎ、この子へと、流す。星は街じゅうから集まる想いを受け止め、天網へと、送り続けている。光の柱は、天を貫いていた。だが装置の唸りは、まだ止まらない。原初の終縞を読もうとする、天網の飢えは、まだ満たされていなかった。
「星、どうだ」と、俺は聞いた。息が、切れていた。「天網は、鎮まりそうか」
「……もう、すこし」と、星は苦しげに、答えた。「でも……たりない。街の、おもいだけじゃ。……あと、ひといき、たりない」
俺は奥歯を噛んだ。街じゅうの想いを集めてなお、足りない。原初の終縞という、世界最古の記憶。その飢えを満たすには。あと、何が、いるのか。
◇
そのときだった。
星の体が、大きく揺らいだ。
膝から、崩れ落ちかける。俺はとっさにその体を抱きとめた。星の光が、急速に薄れていた。むき出しの肌の粒が、消えかけている。街じゅうの想いを受け止める負荷が、ついにこの子の限界を超えたのだ。
「星っ!」
「灯……ごめん」と、星が、かすれた声で、言った。「わたし……もう、ひかりが、ない。……からっぽに、なっちゃった」
俺は血の気が、引いた。この子の光が、尽きる。消えかけている。街じゅうの想いを天網に送るために。自分の、命を削って。
俺は必死に光を注いだ。だが俺自身の光も、もう底をついていた。指先が、氷みたいに、冷たい。視界が、暗んでいく。二人ぶんの光を二人で分け合うどころか。二人とも、空っぽに、なりかけていた。
――このままじゃ、二人とも、消える。
絶望が、俺の胸を掴んだ。ここまで、来て。街ぜんぶが、動いて。久遠まで、味方に、なって。それでもあと、ひといき、届かない。天網は、満たされない。星は消える。
俺は腕のなかの、星を見た。今にも、光が、尽きようとしている、この子を。
◇
そのとき、俺の頭に、一つの答えが、浮かんだ。
――そうか。
街じゅうの人々の、遺したい想い。それを天網に、注いできた。だがまだ注いでいない、想いが、一つ、あった。いちばん、熱くて、いちばん、大きな、想いが。
俺自身の、想いだ。
この子への。星への、想い。名前をつけた夜からの、すべて。好きだと言い合った夜。分け合った白湯の、あたたかさ。二人で見た、つかのまの、幸福。……それをまだ俺は天網に、渡していなかった。惜しんでいたわけじゃ、ない。ただこれは、俺だけの、宝物だった。誰にも、渡したくない、たった一つの、光だった。
だが。
俺は星を抱きしめた。
「星」と、俺は言った。「聞け。……最後の想いを、注ぐ。俺の、想いだ」
「灯……? だめ、それは……灯の、たいせつな……」
「大切だからだ」と、俺は言った。「いちばん大切なものだから。……天網を、満たせる。そうだろ? いちばん熱い想いなら」
俺は星の額に自分の額をそっと合わせた。目を閉じる。そして俺のなかの、いちばん、あたたかいものを。この子への、すべての想いを。惜しみなく、解き放った。
◇
光が、あふれた。
俺のなかから、これまでとは、比べものにならない、まばゆい光が、あふれ出した。星への想い。この二か月ちょっとの、すべての日々。墜ちてきた夜。名前をあげた朝。触れ合った、指先の光。……そのすべてが、まばゆい光になって、星のなかへ、そして、天網へと、流れこんでいく。
星の体が、まばゆく、輝いた。消えかけていた光が、俺の想いを受けて、息を吹き返す。街じゅうの想いと、俺の想いが、より合わさって。ひときわ大きな、光の奔流に、なった。
その奔流が、祭壇の、繋ぎ目を通って。天網へと、注ぎこまれた。
装置の、唸りが。
止まった。
しん、と。崩れゆく塔のなかに、不思議な、静けさが、訪れた。天を貫いていた光の柱が、やわらかく、ほどけて、都市ぜんぶに、降りそそぐ。あたたかい、雨のように。
「……鎮まった」と、俺はつぶやいた。「天網が……鎮まった。原初の終縞を、読む必要が……なくなったんだ」
◇
俺は星を見た。
星は俺の腕のなかで、目を丸くして、自分の体を見つめていた。消えかけていた光が。俺の想いを受けて。前よりも、ずっとあたたかく、輝いていた。
「灯……わたし……きえて、ない」と、星が、言った。信じられない、というふうに。「せかいも……おわって、ない。……みんな、ぶじ、なの?」
「ああ」と、俺は笑った。力が、抜けて、その場に、へたりこみながら。「やったんだ、星。……お前と、俺と、街ぜんぶで。世界を、救ったんだ。……お前を、読まずに、な」
星の目から、光の涙が、あふれた。そして俺の胸に、飛びこんできた。
「灯……灯……!」
俺はその体を抱きとめた。あたたかい。ちゃんと、ここに、いる。消えずに。俺の腕のなかに。街じゅうの想いと、俺の想いを受けて。この子は生きている。
――間に合わせた。
あの夜、誓った、約束。両方、守る。星の命も、世界も。片方だけなんて、選ばせねえ。……守り抜いた。奪い方じゃなく、与え方で。姉さんが、夢見た、そのやり方で。
◇
だが。
安堵したのも、つかのまだった。
塔が、大きく傾いだ。天網は鎮まった。だが儀式で始まった崩落は、まだ完全には、止まっていなかった。天井が、崩れ落ちる。壁が、砕ける。
「灯さんっ! 星さんっ! こっちだ!」
地下の人々が、逃げ道の先から、叫んでいた。久遠が逃がしてくれた人々だ。俺は星の手を握って、立ち上がろうとした。だが光を使い果たした体は、鉛のように重かった。立てない。
そのときだった。
崩れ落ちてくる、巨大な梁が。俺と星の真上に。
俺はとっさに星をかばった。だが避けきれない。間に合わない。目を閉じかけた、その、瞬間。
どん、と。
鈍い、音がした。
目を開けると。梁を受け止めていたのは。
灰色の、外套だった。
◇
「久遠、さん……!」
久遠が崩れ落ちてきた梁をその身で、受け止めていた。血を流しながら。姉さんの終縞を握りしめたまま。
「……行け、灯」と、久遠は絞り出すように、言った。「その子と……逃げろ。ここは、私が……食い止める」
「何、言ってんだ! 一緒に、逃げるんだよ!」と、俺は叫んだ。「あんたも、姉さんの夢を、見たんだろう! その世界で、生きるんだよ、久遠さん!」
久遠は苦しげに、だが、確かに微笑んだ。
「私は……もう、いい。二十年、うしろばかり、向いて、生きてきた。……最後に、一つでも、前を向いた仕事が、できた。……それで、十分だ」
久遠が握りしめていた、姉さんの終縞を。俺のほうへ、放った。
「これは……君が、持っていろ。詩織の、想いだ。……もう、探さなくて、いい。ずっと、そばに、あったのだから」
俺はその硝子の筒を受け止めた。姉さんの、最後の一行。二年間、探し続けた、その光を。今この手に。
「久遠さん……!」
「灯」と、久遠は最後の力で、言った。梁の下から。「詩織に……もし、会えたら、伝えてくれ。……お前の理想は、正しかった、と。教え子に、笑ったことを……許してくれ、と」
塔が、崩れる。俺は星の手を握って、逃げ道へと、走った。振り返る。久遠の姿が、崩れ落ちる瓦礫の、向こうに、消えていく。最後まで、姉さんの夢を見つめる目で。
――ありがとう、久遠さん。
俺は心のなかで、叫んだ。あんたのことは、忘れねえ。あんたが、最後に、向いた、その前を。俺が、代わりに、見続ける。姉さんの、夢の、その先を。
◇
塔を抜け出た、俺たちの前に。
夜が明けかけた、都市の空が、広がっていた。
人工の夜を覆っていた闇が。うっすらと、晴れかけている。天網が鎮まり、あたたかい光の雨を浴びた都市に。久しぶりの、朝の気配が、差しこんでいた。
崩落は、塔の一部をのみこんで、ようやく、収まった。街は、傷ついた。だが消えなかった。世界は、終わらなかった。星も消えなかった。俺の腕のなかに、ちゃんと、いる。
だが。
俺の手のなかで、姉さんの終縞が、かすかに、光を放っていた。二年間、探し続けた、その一行。読めば、姉さんの最期に、触れられる。姉さんの、最後の想いを知れる。
――読むか?
その誘惑が、胸をよぎった。今なら、読める。姉さんに、会える。あの夜、燃える街で、姉さんが、何を思ったのか。それを知れる。
俺はその硝子の筒をじっと見つめた。星が、隣で、俺を心配そうに、見上げている。
俺の指が、その筒に、かかった。
――さあ、どうする、冬瀬灯。姉さんの遺言は、探すな、前を向いて生きて、だった。だがもう目の前にある。読まずに、いられるか。奪わずに、いられるのか。……ここが、最後の、分かれ道だった。俺が、久遠と、同じ道を行くか。それとも、姉さんの、夢の先を行くか。
夜明けの光のなかで。俺は姉さんの終縞を握りしめた。
星は消えず、世界も終わらなかった。だが久遠が、二人をかばって逝く。
残されたのは、姉の終縞。読むか、読まないか。夜明けの空の下、最後の分かれ道が、灯の前にある。




