第39話 久遠の空
久遠が、ついに口を開く。姉・詩織との、二十年前からの因縁を。
この男もまた、姉を失い、過去に囚われた者だった。灯の、なりえたもう一つの姿。
久遠の指が、姉さんの終縞を掴んだ。だが抜かなかった。
久遠はその硝子の筒を掴んだまま、じっと動きを止めていた。指先に伝わる、姉さんの終縞の光。あたたかい、その光を。まるで、確かめるように。
「……詩織」と、久遠が、つぶやいた。
その声には、これまでの、静かな絶望とは、違う、何かが、にじんでいた。俺は星に光を注ぎながら、その横顔を見た。久遠の底の見えなかった目に。初めて、はっきりとした、感情の色が、浮かんでいた。
――痛みだ。深い、深い、痛み。
「久遠、さん」と、俺は絞り出すように、言った。「あんた……姉さんのこと。ただの、知り合いじゃ、ねえな」
久遠は答えなかった。だがその沈黙が、答えだった。
◇
塔が、また揺れた。
崩落は、続いている。だが久遠は姉さんの終縞を掴んだまま、動かない。時が、止まったみたいに。
やがて久遠はぽつりと、語りだした。崩れゆく塔の、轟音のなかで。まるで、独り言のように。
「……私が、詩織と出会ったのは、二十年も前だ。まだ、灼き落としの、前。私は、若い星読みで、あの子は、私の、教え子だった」
俺は息をのんだ。姉さんが、久遠の教え子。初めて聞く話だった。
「筋の、いい子でな」と、久遠は続けた。かすかに目を細めて。「私よりも、ずっと、遠くを、見ていた。星を読んで、死者から奪うこの仕組みを、いつか、変えたいと。……奪うんじゃなく、与え合う世界を、作りたいと。若いころの私は、それを、青臭い理想だと、笑った」
久遠の顔に、後悔のような、色が、よぎった。
「だが、あの子は、本気だった。そして、灼き落としが、来た」
◇
「あの日」と、久遠は言った。声が、わずかに震えていた。「天網が、暴走した。世界が、焼けた。……私は、あの子を、助けに、行けなかった。自分が、逃げるのに、精いっぱいで。……あの子は、燃える街のなかへ、飛びこんでいった。一人でも、多くの人の、終縞を、遺すために。誰かの、最後の想いを、拾い上げるために。……そういう、子だった」
俺はその言葉に、胸を突かれた。姉さんは、灼き落としのあの夜、燃える建物に飛びこんで、消えた。それは、逃げ遅れたんじゃ、なかった。人を助けようとして。誰かの想いを遺そうとして。自分から、火のなかへ、飛びこんだのだ。……姉さんらしい。あまりにも。
俺は二年前のあの夜を思い出していた。姉さんが、帰ってこなかった夜。俺はただ家で、待っていた。姉さんは、きっとまた誰かを助けに行ったんだろう、と。そう、頭では、わかっていた。だが、心は、許せなかった。なぜ自分より、他人を選んだのか。なぜ俺を一人にしたのか。……二年間、俺はその問いを抱えて、生きてきた。姉さんの終縞を夜空に探しながら。答えを聞きたくて。
だが、今久遠の口から、その答えを聞いた気がした。姉さんは、他人を選んだんじゃない。姉さんにとって、目の前で消えかけている命を見捨てることが、できなかっただけだ。それが、俺の姉さんという人だった。恨むのは、お門違いだ。俺はようやくそれを受け入れられた気がした。
「私は、あの子を、失った」と、久遠は続けた。「そして、思い知った。あの子の言っていた、与え合う世界。それを、私は、笑った。青臭い理想だと。……だが、本当に、青臭かったのは、私のほうだった。奪うことしか、知らなかった、私のほうだ」
久遠の目に、涙のような、光が、にじんだ。
「あの子を、取り戻したかった。だから、原初の終縞に、賭けようとした。読めば、世界が、やり直せるかもしれない。灼き落としの前に。あの子が、生きていた、あのころに。……たとえ、それが、完全な終わりだとしても。あの子のいない世界で、生き続けるくらいなら。いっそ、賭けに、出たかった」
◇
俺はその告白に、言葉を失った。
この男も、同じだったのだ。俺と。姉さんを失って。その喪失に、耐えられなくて。過去を取り戻したくて、もがいていた。
ただ俺は星に出会えた。前を向けた。久遠は出会えなかった。だからうしろを向いたまま、破滅に、賭けようとした。俺の、なりえたかもしれない、もう一つの姿。二年前、星に出会わなかった俺はきっとこの男に、なっていた。
「久遠さん」と、俺は言った。星の手を握ったまま。「姉さんは……あんたを、恨んじゃ、いねえ。助けに来なかったことも。……姉さんは、そういう人じゃ、ねえだろう」
久遠の肩が、揺れた。
「姉さんが、本当に、望んでたのは」と、俺は続けた。「世界を、やり直すことじゃ、ねえ。この光を、見てくれ、久遠さん」
俺は天を貫く、光の柱を指さした。街じゅうの想いが、集まって、生まれた、あたたかい光を。
「これが、姉さんの、夢だ。奪い合うんじゃねえ。与え合う世界。……あんたが、青臭いと笑った、その理想が。今、目の前で、形になってる。……姉さんは、こっちを、望んでたんだ。やり直しなんかじゃ、ねえ。この、光を」
◇
俺はその背中に、かつての師の面影を見た。二年前まで、俺に星読みを教えてくれた、あの久遠だ。厳しくて、無口で、だが、どこかで、俺を気にかけてくれていた人。星に出会う前の俺が、唯一、心を許しかけた、大人。その人が、絶望に、のみこまれて、敵に、なった。それが、俺には、ずっとつらかった。……だが、今。その人が、戻ってこようとしている。過去の底から。姉さんの光に、手を引かれて。
久遠は光の柱を見上げた。
長い、長い、沈黙だった。崩れゆく塔の、轟音のなかで。久遠はただその光を見つめていた。姉さんの、夢の結晶を。
その頬を一筋の、涙が、伝った。
「……そうか」と、久遠はつぶやいた。かすれた声で。「これが……詩織の、望んだ、世界か。……ああ。……美しい、な。あの子が、見たがっていたのも、道理だ」
久遠の指が、姉さんの終縞から、離れかけた。俺は息を詰めた。この男の、心が、動きかけている。二十年、囚われ続けた、過去から。今解き放たれかけている。
だがそのときだった。
「久遠さまっ! 何を、なさっているのですっ!」
崩れた広間の奥から、鋭い声が、飛んだ。評議会の、別の実務者だ。数人の兵を引き連れて。久遠が、儀式の手を止めたのを見咎めたのだ。
「装置は、もう、止まりません! 崩落は、進んでいる! ここまで来て、退くのですか! 原初の終縞を、読ませなければ、我々は、都市もろとも、死ぬのですよっ!」
その男が、兵に、叫んだ。
「あの少女を、確保しろ! 祭壇に、据えるんだ! 力ずくでも、原初の終縞を、読ませろ!」
兵たちが、いっせいに星へと、殺到した。
「星っ!」
俺は叫んだ。だが星は街じゅうの想いを受け止めるので、精いっぱいだ。動けない。俺もこの子から、手を離せない。離せば、この子が、崩れる。
兵の手が、星の、細い腕を掴んだ。引き剥がそうとする。星の体から、光が、乱れ、飛び散った。集めた想いが、こぼれ落ちる。光の柱が、大きく、揺らいだ。
――まずい。
ここで、星が、祭壇に、据えられたら。すべてが、終わる。俺は絶望に、目の前が、暗くなりかけた。
だがその、絶望を断ち切ったのは。
久遠の声だった。
「……やめろ」
静かな、けれど、有無を言わさぬ、声だった。
久遠が実務者の前に、立ちはだかっていた。姉さんの終縞を握りしめて。その目には、もう絶望の色は、なかった。
◇
「久遠、さま……?」
実務者が、たじろいだ。
「儀式は、中止だ」と、久遠は言った。はっきりと。「原初の終縞は、読ませない。……この少年と、少女に。そして、詩織の夢に。……賭けてみる。私は、もう、うしろを、向くのを、やめる」
「な……何を、血迷って……!」
「血迷ってなど、いない」と、久遠は静かに言った。「二十年ぶりに、正気に、戻ったのだ。……この光を見て、な」
久遠が、兵たちのほうへ、向き直った。星読みとしての、かつての、頂点の威厳をまとって。
「兵を、退け。この塔から、人々を、逃がすのだ。崩落を、この二人が、止めるまで。……時を、稼ぐ。それが、私に、できる、最後の、罪滅ぼしだ」
俺は久遠のその背中を見た。
二十年、過去に、囚われていた男が。今初めて、前を向いた。姉さんの、夢のために。かつて、自分が笑った、その理想のために。
「久遠さん」と、俺は言った。胸が、熱くなるのを感じながら。「あんた……」
「灯」と、久遠は振り返らずに、言った。「あとは、頼む。……詩織の、弟。君なら、できる。奪い方じゃなく、与え方を、知っている、君なら」
かつての師の、その一言は。ただの、励ましじゃなかった。二十年ぶりに前を向いた男の、覚悟の証だった。ならば、俺も、応えるしかない。この光を、消させはしない。姉さんの夢を、この人の覚悟を、無駄には、しない。
その言葉が。俺の、背中を押した。
姉の光を見て、久遠の心が動く。二十年ぶりに、前を向く。
兵を押しとどめ、時を稼ぐ久遠。あとは頼む――その言葉が、灯の背中を押した。




