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第35話 決戦前夜

 決戦前夜。地下の輪は数百に広がった。だが、街じゅうの想いには、まだ遠い。

 静かな夜、灯と星は、たがいの覚悟を、確かめ合う。

 闇の日まで、あと一晩となった。


 地下水路の隠れ場所は、これまでにない、熱気に満ちていた。この半月で、俺たちの輪は、地下の底だけじゃ、収まらなくなっていた。記憶を返された者が、その家族を連れてくる。家族が、隣人に話す。星の噂は、水路を伝う水みたいに、街の底から底へ、静かに広がっていた。今では、儀式の夜に立ち上がろうという者が、数百を超えていた。


 だがそれでも足りない。姉さんのノートは、はっきりと言っていた。街じゅうの想いが、いる、と。数百じゃ、大海の一滴だ。街の上には、まだ何千という人間が、評議会を信じて、星を恐れて、暮らしている。その心を明日一晩で、どう動かすか。俺はその途方もない賭けの前で、正直震えていた。


 俺は水路の片隅で、地図を広げていた。評議会の白い塔。その周りの、広場。地下から塔へ通じる、古い水路の道。何度も、頭のなかで、明日の段取りをなぞる。塔の中心に、星読みたちが集められている。その真ん中に、星を据えて、束ねた力で、一気に読む。久遠の筋書きは、そうだ。俺はそれを止めなきゃならない。読ませる前に、天網を鎮める。街じゅうの想いで。


 簡単に、いくはずがなかった。塔は、兵で固められている。地下の道も、いつ気づかれても、おかしくない。うまく塔にたどり着けたとして、そこから、街じゅうの人間の心をどうやって、あの短い時間で、つかむのか。考えれば考えるほど、穴だらけの、無謀な賭けだった。


 俺は地図の上に、指を置いた。塔の中心。星が据えられるであろう、その一点に。あそこまで、たどり着けるか。そもそも、あの中心に近づけなければ、想いを注ぐも、へったくれも、ない。久遠はそれをいちばん厳重に、固めているはずだ。俺は指先で、塔から広場へ、広場から街へと、線をたどった。この線の先に、何千という、まだ見ぬ人々の心が、ある。その心を動かせるか。すべては、明日の、あのわずかな時間に、かかっていた。


 だがと、俺は思い直した。悪いほうばかり、数えていても、始まらねえ。塔には、地下の道が、通じている。街には、俺たちの蒔いた種が、根を張り始めている。無いものより、有るものを数えろ。姉さんなら、そうした。俺はそう自分に言い聞かせて、地図を丁寧にたたんだ。


 それでも俺は退かなかった。退けば、星が読まれる。世界が、終わる。なら穴だらけでも、飛びこむしか、ない。姉さんが、燃える建物に、飛びこんだように。



◇



 夜半すぎ。あの老人が、俺のところへ、やってきた。この地下で、最初に俺たちを匿ってくれた、痩せた爺さんだ。


「明日、みんな、腹を決めてるよ」と、老人は言った。「底の連中が、次の底を、呼んでくれてる。娘を返してもらった男は、上の親戚に、話をつけに行った。……あんたが蒔いた種が、あんたの知らねえところで、根を張ってる」


 俺は胸が、詰まった。半月前、この地下で、たった一人の女の涙から、始まったことだ。それが今数百人を動かしている。恐怖じゃなく、あの子のぬくもりが。


「爺さん」と、俺は言った。「危ねえ橋だ。しくじれば、あんたたちも、ただじゃすまねえ。……それでも、いいのか」


 老人は歯の抜けた口で、笑った。


「あたしらはな、灯さん。ずっと、奪われる側だった。取られて、忘れさせられて、うつむいて生きてきた。……その、あたしらが。生まれて初めて、誰かに、何かを、与える側に、回れるんだ。……こんな心躍ること、断る爺が、いるかい」


 俺は言葉が、出なかった。ただ深く頭を下げた。この人たちの、遺したい想いが。明日、星をそして世界を救う光になる。奪われてばかりの、この街の底から。


 老人が去ったあと、俺はしばらく暗い水路の天井を見上げていた。姉さんが、夢見た景色。奪う世界を与え合う世界へ。その第一歩が、今確かにこの地下の灯りのなかに、ある。俺はこぶしを握った。明日で、それを街ぜんぶに、広げてみせる。



◇



 夜が更けて、人々が眠りについたころ。俺は水路の外れの、静かな場所へ、抜け出した。


 星が、そこに、いた。


 膝を抱えて、暗い水面を見つめていた。人工の月の、わずかな光が、水路の隙間から差しこんで、その横顔をほのかに照らしている。むき出しの肌から、いつものように、光の粒が、こぼれている。だがその光は、俺が最初に出会ったころより、ずっと落ち着いていた。制御を覚えたんだ。この子は。宵さんに学んで。俺と、生きるなかで。


「眠れねえのか」と、俺は隣に腰を下ろした。


「うん」と、星はうなずいた。「あした……ついに、だね」


「ああ」


 しばらく二人とも、黙っていた。水の、したたる音だけが、暗がりに、響いていた。


 やがて星が、ぽつりと、言った。


「ねえ、灯。……わたし、ここに、きて、よかった」


 俺は星の横顔を見た。


「たくさんの、ひとに、あえた。名前を、もらった。ことばを、おぼえた。……しろゆの、あたたかさも。ごはんの、おいしさも。ぜんぶ、灯が、おしえてくれた」


 星は俺のほうを向いた。夜色の瞳が、光を映して、揺れていた。


「わたし、しあわせ、だったよ。ほんとうに」


 過去形で、話すな。俺はそう言いかけて、のみこんだ。この子は覚悟を決めている。明日、何が起きても、いいように。だから今のうちに、伝えておこうとしている。ありがとうを。しあわせだったを。まるで、遺言みたいに。


 俺はその細い肩を引き寄せた。


「まだ、終わってねえ」と、俺は言った。「過去形で、話すんじゃねえ。しあわせだった、じゃねえ。しあわせだ、だ。明日も、明後日も、ずっと、な。俺が、そうしてやる」


 星は俺の胸に、頭をあずけた。


「……こわく、ないの? 灯は」


「こわいさ」と、俺は正直に言った。強がっても、この子には、見抜かれる。「明日、しくじったら、お前は消える。世界も終わる。……こわくて、さっきから、手が、震えてやがる。柄にもなくな」


 俺は自分の手を星の前に、かざした。確かに指先が、かすかに、震えていた。


 星はその手を両手で、そっと包んだ。あたたかい、光が、指に、灯る。


「わたしが、とめてあげる」と、星は言った。「灯の、ふるえ。わたしの、ひかりで」


 俺は思わず笑った。守るつもりが、また守られている。いつもそうだ。この子といると、俺は強くなれるくせに、同じだけ、弱いところも、さらけ出しちまう。



◇



 俺は星の手を握りかえした。そしてあの術を試した。与える術だ。


 自分のなかの、あたたかいものを細く、この子へと、流す。星への想い。過ごした日々。名前をつけた夜。好きだと言い合った夜。そういうものが、光になって、この子のなかへ、流れていく。星の頬に、赤みが、さした。指先の粒が、鮮やかに、輝きだす。


「明日、お前は、力を、使うことになる」と、俺は言った。「街じゅうの想いを、天網に、注ぐ。とんでもない量だ。お前一人じゃ、消耗で、消えちまう。……だから、俺が、支える。お前が減ったら、俺が、足す。二人で、一人ぶんの光を、分け合いながら、やり抜く。……約束だ」


 星はこくりと、うなずいた。


「うん。……ふたりで」


「ああ。二人で」


 俺は星の額に、自分の額をそっと合わせた。光が、二人のあいだで、まざりあう。俺の光と、星の光が。境目が、わからなくなるくらい、近く。


「星」と、俺は言った。「明日、どんなことがあっても、お前を、離さねえ。誰にも、読ませねえ。久遠にも、評議会にも、天網にも。……お前は、俺が、護る。何があっても、だ」


 俺は顔を離した。星の目をまっすぐ見た。腹の底から、声を出した。


「いいか、よく聞け。……明日で、証明してやる。星を読んで奪う世界なんて、もう、いらねえ。想いを与え合って、生きていける世界を、俺たちが、作る。姉さんが、夢見た世界を。……この手で、掴みとる。星読み、冬瀬灯の、名にかけてな」


 柄にもない、大見得だった。だが口にすると、震えが、止まっていた。


 星はしばらく俺を見て、それから、花がほどけるみたいに、笑った。


「……灯は、やっぱり、かっこいい」


「今日は、うるせえって、言わねえのか」


「うん」と、星は笑った。「きょうだけは、すなおに、いっておく。……あした、いえなく、なるかも、しれないから」


 その一言が、胸に、刺さった。だが俺は笑ってみせた。こんな夜こそ、笑うんだ。俺と、この子の、最後になるかもしれない夜を暗い顔で、終わらせてたまるか。


「言えるさ」と、俺は言った。「明後日も、明々後日も、何度でも、言わせてやる。……覚悟しとけ」


 星はまた笑った。その笑い声が、暗い水路に、やわらかく、響いた。


 人工の月が、水面を静かに照らしていた。決戦の夜が、すぐそこまで、来ていた。それでも俺たちは、この、つかのまの夜を噛みしめていた。二人で、寄り添って。まざりあう光の、あたたかさのなかで。


 ――待ってろ、久遠さん。姉さん。俺は逃げも、隠れも、しねえ。明日、正面から、行く。この子と、二人で。俺たちの、答えを抱いて。

 しあわせだった、と過去形で話す星に、灯は言う。しあわせだ、だと。

 二人で一人ぶんの光を分け合う。その約束を胸に、二人は闇の日を迎える。

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