第33話 還る名前
星が、記憶を消された抜け殻の男に、その名前を返してみせる。
奪う力の、裏返し。与える力が、この子のなかで、目を覚ます。
地下水路の暮らしは、貧しかったが、あたたかかった。
住人たちは、最初こそ俺たちを警戒していたが、数日もすると、少しずつ、態度をやわらげていった。星が、子どもらと遊んでやったのが、大きかった。この子は子どもと、波長が合う。世界のすべてを覚えたてで、子どもと同じ目線で、何にでも驚き、笑うからだ。むき出しの光をこわがる子もいたが、じきに慣れた。むしろ、きれいだと、はしゃぐ子のほうが多かった。
俺はその光景を隅で見ていた。星が、笑っている。人に、囲まれて。逃げ隠れの暮らしのなかで、こんな時間が持てるなんて。胸の奥が、あたたかくなった。
星が来る前、俺はこういう光景と、無縁だった。星読みは、孤独な仕事だ。人の死ばかり読んで、生きている人間とは、ろくに関わらない。関われば、いつか失う。失えば、またあの夜みたいに、心が凍る。だから、俺は誰にも近づかなかった。近づかないことで、自分を守っていた。臆病者の、生き方だ。
だが、この子はそんな俺の周りに、いつのまにか、人の輪を作っていた。子どもが笑い、老人が目を細め、女たちが世話を焼く。星がいるだけで、この、うす暗い地下水路が、あたたかい場所に変わる。俺はその真ん中で、久しぶりに、誰かと生きるということの、手触りを思い出していた。この子は光を与えるだけじゃない。人と人をつなぐ光でも、あるのかもしれない。
だが、俺は忘れていなかった。この平穏も、束の間だということを。街の上では、久遠が、原初の終縞を読む準備を着々と進めている。時間は、こっちの味方じゃない。人々の心を動かす。街じゅうの想いを集める。その途方もない仕事を急がなければならなかった。
◇
転機は、思わぬ形で、訪れた。
ある日、地下水路の奥から、住人の一人が、痩せた男を連れてきた。うつろな目をした、記憶のない男。その顔に、俺は見覚えがあった。
鴉羽の、手下だ。
あの夜、仕事場で、星に記憶を消された、あの男たちの、一人だった。街の底をあてどなく、さまよっていたのを住人が、拾ってきたらしい。自分が誰かも、わからないまま、ただ生きているだけの、抜け殻。
星の顔が、こわばった。この男を見るのは、あの日以来だ。自分が、何をしてしまったのか。その、動かぬ証拠が、目の前にいる。星はうつむいて、両手を握りしめた。
「……わたしが、こう、しちゃった」
消え入りそうな声だった。
俺は星の肩に、手を置いた。そして、ふと思い出した。あの、廃墟の観測所で。俺が、星に、光を与えて、救ったこと。奪う力の、裏返しの、与える力。
――もしかしたら。
俺は星の前に、しゃがみこんだ。目の高さを合わせて。
「星。お前は、記憶を、消せる。……なら、逆に、返すことも、できるんじゃないか。俺が、お前に、光を与えたみたいに。奪ったものを、与え返すことが」
星ははっと、顔を上げた。
「返す……? わたしが、けした、きおくを……?」
「わからない。やってみなきゃ、な」と、俺は言った。「でも、お前なら、できる気がする。……この人に、名前を、返してやろう。奪ったままで、終わらせるな」
◇
星はおそるおそる、男の前に、進み出た。
むき出しの手を男の額に、そっと当てる。俺はその隣で、息を詰めた。住人たちも、遠巻きに、見守っている。
星は目を閉じた。隠れ里で、宵さんに教わった、あの、力の抜き方。そして、廃墟で、俺が見せた、与える術。その二つをこの子は自分のなかで、重ね合わせているようだった。奪うんじゃなく、返す。消すんじゃなく、灯す。
俺は祈るような気持ちで、それを見守った。できるはずだ。この子には。俺が、この子に光を注げたなら。この子が、誰かに記憶を返せない道理は、ない。奪う力と、与える力は、同じ力の、表と裏。宵さんは、そう教えてくれた。恐れずに、心で、抑えて、細く、流す。星はその教えを今実践している。恐ろしい力を優しい形で。人を壊すためじゃなく、人を取り戻すために。
男の額に触れた星の指先が、かすかに、震えていた。だが、その震えは、恐怖じゃなかった。集中の、震えだった。この子は本気で、この見知らぬ男を救おうとしている。自分が奪ってしまったものをなんとしても、返そうとしている。その必死さが、隣にいる俺にも、痛いほど、伝わってきた。
星の指先から、細い光が、伸びた。男の額へと、静かに流れこんでいく。爆発じゃない。制御された、あたたかな、一筋の光。
どれくらい、そうしていただろう。
男の、うつろだった目に、ふいに光が、宿った。
まばたきをする。あたりを見回す。そして、震える声で、つぶやいた。
「……ここは。俺は……そうだ、俺は……」
男の目から、涙が、あふれた。
「……思い出した。俺には……娘が、いた。……生き別れた、娘が。ずっと、探してた。……なんで、忘れてたんだ、こんな、大事なこと……」
男は顔を覆って、泣きじゃくった。奪われていた記憶が、名前が、想いが、戻ってきたのだ。完全にじゃない。断片だけ、かもしれない。だが、確かにこの男は抜け殻から、一人の人間に、戻った。
星が、俺を見た。信じられない、というふうに。自分の手を見つめて。
「……もどった。わたし、きおくを、もどせた」
その声は、震えていた。だが、それは、怯えの震えじゃなかった。喜びの、震えだった。ずっと自分の力を呪ってきた、この子が。初めて、その力で、誰かを救えたのだ。奪うだけの力だと、思っていた、この力で。
俺はその横顔を見て、胸が、熱くなった。あの、街の底で、抜け殻の男たちを見て、自分はやっぱり悪いものだと、泣いた夜。あの夜の星はもういない。今俺の隣にいるのは、奪った記憶を返してみせた星だ。呪いを祝福に、変えてみせた星だ。この子は確かに変わった。俺と出会って。宵さんに学んで。そして、自分自身の手で、その変化を勝ち取った。
――よくやった。俺は声には出さず、心のなかで、そう言った。誇らしかった。自分のことみたいに。いや、自分のこと以上に。
◇
その光景を地下水路の住人たちは、息をのんで、見ていた。
記憶を消す、恐ろしい力。だが、その同じ力で、失われた記憶を返してみせた。奪う力が、与える力に、変わった瞬間をみんな、目の当たりにした。
人々の目の色が、変わっていた。星を見る目が。恐怖から、驚きへ。そして、驚きから、何か、もっと、あたたかいものへ。
「あんた……」と、老人が、つぶやいた。「その子は、化けものなんかじゃ、ないね。……人を、救う子だ。あたしらと、同じ。いや、あたしら以上に……優しい子だ」
俺は立ち上がって、みんなを見回した。今だ、と思った。心が、動いている、今しか、ない。
「見てのとおりだ」と、俺は言った。腹の底から、声を出して。「こいつの力は、呪いじゃない。人を、救う力だ。……でも、こいつ一人じゃ、この街も、この世界も、救えない。あんたたちの、力が、いる」
俺はまっすぐみんなを見た。
「俺は、こいつと一緒に、評議会に、乗りこむ。原初の終縞を読ませない。そのために、あんたたちの、想いを、貸してほしい。……誰かに遺したい、たった一つの想いを。それが、こいつを、そして、この世界を、救う光になる」
しんと、静まりかえった。だが、その沈黙は、前とは、違った。拒絶の沈黙じゃない。考えている、沈黙だった。
やがて記憶を取り戻した男が、涙をぬぐって、立ち上がった。
「……俺の想いで、いいなら。娘に、会いたいっていう、この想いで、いいなら。……いくらでも、貸すよ。この子に、救われた、恩がある」
その一言が、皮切りだった。
一人、また一人と、住人たちが、うなずき始めた。あたしも。俺も。声が、地下水路に、重なっていく。小さな、けれど、確かな、うねりになって。
俺はその光景を目に焼きつけた。氷が、溶けていく。街の心が、動きだす。姉さんが、たった一人で、夢見た景色が。今この地下の、小さな灯りのなかで、確かに形になり始めていた。
まだ十数人だ。街ぜんぶから見れば、砂粒みたいな数だ。だが、この十数人が、次の十数人を動かす。その連鎖を信じるしかない。奪う世界を与え合う世界へ。姉さんの夢見た、その一歩を俺たちは、今確かに踏み出した。
星が、俺の隣で、涙をこぼしていた。うれし泣きの、光の涙を。俺はその頭をそっとなでた。頭巾越しじゃなく、じかに。むき出しの髪に触れても、指から光がこぼれるだけで、この子は崩れない。もう俺たちのあいだに、隔たりは、なかった。
「よくやったな、星」と、俺は言った。「お前は、もう、誰も、こわがらせない。……お前は、人を、救う光だ。俺が、保証する」
星は涙で濡れた顔で、俺を見上げて、笑った。花がほどけるみたいに。地下の灯りのなかで、その笑顔が、いちばん、明るかった。
呪いだと思っていた力で、初めて人を救えた。星が、変わった瞬間だ。
その光景を見た地下の人々の心も、少しずつ、動きはじめる。




