第32話 戒厳の街
戒厳令の敷かれた街で、二人は行き場を失う。
だが、思わぬ味方が現れる。評議会を憎む、街の底の人々だ。
俺たちは、久遠の松明の列を裏手の谷づたいに、なんとかまいた。
外縁の崩れた地形は、逃げるには、むしろ都合がよかった。瓦礫の陰を縫い、崩れた橋を渡り、追手の目を少しずつ引き離す。星は必死についてきた。もう力を無駄に使わせはしない。守るのは俺の仕事だ。そう決めてから、俺の足は、前より、ずっと粘り強くなった気がした。
半日かけて、俺たちは、街のはずれまで戻ってきた。かつて暮らした、あの街のはずれだ。だが様子が、変わっていた。
街に、兵が、あふれていた。
通りという通りに、評議会の外套が立っている。行き交う人々を一人ずつ、検分している。若い娘を見つけては、頭巾を剥ぎ、顔をあらためる。誰かを探しているのは、明らかだった。星を。原初の終縞を。
「戒厳令だ」
俺は路地の陰から、その光景を見て、つぶやいた。街ぜんぶが、星を捕らえるための、網になっている。これじゃ、うかつに、表を歩けない。
「灯……ひとが、いっぱい、こわい」
星が、俺の服の裾を握った。震えている。むき出しの光を頭巾と手袋で、なんとか隠しているが、この人混みだ。いつ、見咎められても、おかしくない。
俺は街の空気の、重さに、息が詰まった。かつて、この街で、俺は星読みとして暮らしていた。人の死を拾い、明日の飯に換えて。灰色だが、平穏な日々だった。それが今や、どうだ。街ぜんぶが、殺気立っている。兵の怒鳴り声。逃げまどう人々。泣きだす子ども。評議会は、たった一人の少女を捕らえるために、街ぜんぶを恐怖で塗りつぶしていた。星を世界の敵に、仕立て上げて。
皮肉な話だった。世界を守っているのは、この子なのに。守られている当の世界が、この子を狩り立てている。真実を知らないというのは、こんなにも、残酷なことなのか。俺は頭巾の下で怯える星の横顔を見て、こぶしを握りしめた。この誤解を解いてやる。何としても。そう、あらためて、誓った。
◇
俺は星を路地の奥へ引きこんだ。壁に背をつけ、息をひそめる。
どうする。街ぜんぶが、敵だ。表通りは通れない。かといって、街に入らなければ、人々の想いを集める、第三の道は、始められない。進むも地獄、退くも地獄。俺は必死に頭をめぐらせた。
そのとき、路地の奥から、しわがれた声がした。
「……こんなところで、突っ立ってると、すぐ見つかるよ」
振り返ると、痩せた老人が、俺たちをじっと見ていた。ぼろをまとった、街の底の住人だ。俺は身構えた。突き出されるか。だが老人の目には、悪意はなかった。むしろ憐れむような色があった。
「あんたたち、追われてるんだろう。……その子だね。評議会が、血眼で探してるのは」
俺は答えなかった。だが答えないことが、答えだった。
老人はふっと、笑った。歯の抜けた口で。
「安心しな。あたしは、評議会が、大嫌いでね。あいつらは、あたしら底の人間を、ずっと、見殺しにしてきた。……その子が、あいつらの狙うものなら、匿うくらい、してやるさ」
老人はそう言って、皺だらけの顔をくしゃりと、崩した。
「こんな、老いぼれにも。まだ、やれることが、あるらしい。……ふっ。長生きは、してみるもんさ」
思いがけない言葉に、俺は目を見張った。
街の人間は、みんな、星を災いだと思っている。そう決めつけていた。だがこの老人は違った。評議会を憎むがゆえに、その敵を匿おうという。……そうか。街の人心は、一枚岩じゃない。評議会に、押さえつけられてきた者ほど、そこに、ひびが入っている。
◇
老人は俺たちを街の底の、古い地下水路へと、案内してくれた。
かつて、宵さんの隠れ里があった、あの避難区の、さらに奥。忘れられた水路のなかに、底の住人たちが、身を寄せ合って暮らす、小さな隠れ場所があった。灯りは乏しく、空気は湿っていた。だがそこには、評議会の目を逃れた人々の、確かな暮らしが、あった。
老人は俺たちをその一角に、座らせた。欠けた椀に、薄い粥をよそってくれる。星はそれを両手で受け取って、うれしそうに、すすった。あたたかい、と、小さくつぶやいて。
その顔を見て、老人は目を細めた。
「……ふつうの、娘っ子じゃないか」と、老人は言った。「評議会は、その子を、世界を終わらせる化けものみたいに、言ってるがね。……あたしには、ただの、腹をすかせた娘に、見えるよ」
その一言が、俺の胸に、灯った。
そうだ。これだ。この老人が、たった今星を見て、感じたこと。化けものじゃない、ただの娘だ、という、その気づき。それを街じゅうの人間に、広げられたら。星は災いじゃなく、守るべき存在に、変わる。人々の心が、動く。第三の道の、最初の一歩は、ここにあった。
評議会は、恐怖で、人を動かす。星は化けものだ、読んで消せ、と。だが恐怖でつないだ心は、脆い。俺が使うのは、その逆だ。この子の、あたたかさ。腹をすかせて粥をすする、ただの娘の姿。それを一人、また一人と、見せていく。恐怖に凍った心をぬくもりで、溶かしていく。時間はかかる。だがそれしか、ない。そしてそれこそが、姉さんの生き方だった。奪うんじゃなく、与える。壊すんじゃなく、灯す。俺はこの老人の、たった一言で、その確信を得た。
「爺さん」と、俺は言った。「頼みがある。……この子のことを、知ってほしい人が、いるんだ。この、地下の、みんなに。あんたが今、感じたことを。星が、化けものなんかじゃないってことを」
老人は俺をしばらく見ていた。それからゆっくりと、うなずいた。
◇
その夜、俺は地下水路の住人たちの前に、立った。
十数人ほどの、痩せた男女。子どもも、いる。みんな、うろんな目で、俺と星を見ている。よそ者を警戒する目だ。無理もない。俺は緊張で、喉が渇いた。柄にもなく、大勢の前で、話そうとしている。
だが腹を決めた。
「俺は、冬瀬灯。星読みだ」と、俺は言った。声が、震えないように。「この子は、星。……評議会が、探してる、原初の終縞だ」
どよめきが、起きた。人々が、身を引く。恐怖の色が、走る。
俺は構わず、続けた。
「あんたたちは、こいつを、世界を終わらせる化けものだと、聞かされてるだろう。……でも、それは、半分しか、当たってない」
俺は星の頭巾をそっと外した。夜色の瞳と、こぼれる光が、あらわになる。人々が、息をのむ。
「こいつが読まれれば、確かに、世界は終わる。だが、逆なんだ。……こいつが、ここに、生きてるかぎり、世界は、続く。こいつは、災いじゃない。――この世界を、たった一人で、守ってる、錠なんだ」
しんと、静まりかえった。
「評議会は、こいつを読んで、世界を賭けに出ようとしてる。俺は、それを、止めたい。こいつを読まずに、みんなが助かる道が、ある。……でも、それには、あんたたちの力が、いるんだ」
俺は深く頭を下げた。星読みが、街の底の人々に、頭を下げる。おかしな話だ。だがなりふりなんて、構っていられなかった。
顔を上げて、俺はまっすぐみんなを見た。
「頼む。……こいつと、この世界を、一緒に、守ってくれ」
返事は、すぐには、なかった。人々はただ困惑したように、顔を見合わせていた。当然だ。こんな話、すぐに信じられるはずがない。
だがその沈黙のなかで、一人の女が、おずおずと、口を開いた。
「……その子は。あたしらの、想いで。ほんとに、救われるのかい」
その問いに、俺ははっきりと、うなずいた。
「ああ。あんたたちの、遺したい想い。誰かへの、届かなかった言葉。それが、こいつを、そして、この世界を、救う力になる。……嘘は、言わない。星読みの、名にかけて」
女はしばらく俺を見ていた。それから星のほうへ、目を移した。星はその視線に、おずおずと、けれど、まっすぐに、頭を下げた。
「……おねがい、します」と、星が、小さな声で、言った。「わたし、みんなと、いきたい。この、せかいで」
その、たどたどしい一言が、女の、何かを溶かしたようだった。女の目に、うっすらと、涙がにじんだ。
まだみんなが、味方になったわけじゃない。半信半疑の顔も、まだ多い。だが確かに最初のひびが、入った。氷みたいに固かった、街の心に。一人の女の、涙ひとつぶん。たった、それだけ。それでもゼロと、一の差は、大きい。
俺はその手応えを噛みしめた。ここから、この一を十にする。十を百にする。街じゅうに、広げていく。気の遠くなる道のりだ。だが始まった。それだけは、確かだった。
星が、俺の隣で、そっと俺の手を握った。地下の灯りに照らされた、その横顔は、さっきより、少しだけ、明るく見えた。自分が、誰かに、受け入れてもらえた。その、生まれて初めての手応えをこの子も、噛みしめているようだった。
第三の道は、今この地下水路の、小さな灯りのなかから、始まったのだ。二人きりの逃避行が、ようやく、二人きりじゃ、なくなろうとしていた。
恐怖でつないだ心は脆い。灯が使うのは、その逆――星のぬくもりだ。
地下水路の、たった一人の女の涙から。第三の道が、静かに始まった。




