第31話 集める光
外縁の廃墟で、灯は与える術を、少しずつ覚えていく。
姉のノートが示す、第三の道の核心。星を読まず、街じゅうの想いを集めて天網を鎮める――そのために、二人は街へ乗りこむ覚悟を決める。
星に光を与えたあの夜から、俺は毎晩それを練習していた。
外縁の廃墟の、崩れた家の一間で。星の手を握り、目を閉じて、自分のなかのあたたかいものを、細く、この子へと流す。星読みが叩きこまれるのは奪う技術だけだ。与えるやり方なんて、どこにも書いていない。だから、手探りだった。それでも、日ごとに、少しずつコツがつかめてきた。
星の光は、目に見えて戻ってきた。頬に赤みがさし、指先の粒も鮮やかになる。俺はそれを見るたびに、胸を撫でおろした。守れている。今度こそ、この手で。
与えるという感覚は、読むのと真逆だった。星を読むとき、他人の死が冷たい水みたいに流れこんでくる。逆に、与えるときは、自分のなかのあたたかいものが、指先からこぼれ出ていく。星への想い。この子と過ごした日々。名前をつけた夜。白湯をあたたかいと喜んだ顔。好きだと言い合った、あの夜。そういうものが、そのまま光になって、この子のなかへ流れていく。奪う技術しか知らなかった俺の手が、少しずつ、与える手に、なりかけていた。
姉さんの言葉が、正しかったのだ。読むんじゃなく、語りかける。奪うんじゃなく、与える。二年前、この人が、たった一人でたどり着きかけた答え。それを、俺は今、この手で、なぞっている。そう思うと、削られる体の重さも、不思議と、苦じゃなかった。
だが、代償もあった。
光を与えた翌朝、俺は決まって、体が鉛みたいに重くなった。星を読んだあとの、あの消耗に似ている。頭がぼんやりして、指先が冷たい。俺のなかの何かが、確かに、削られていた。
「灯、かおが、あおいよ」
ある朝、星が俺の顔をのぞきこんで、そう言った。心配そうに、眉を寄せて。
「平気だ」と俺は笑った。「お前が元気になったぶん、俺がちょっと寝坊すりゃいい。それだけの話だ」
「でも……わたしのために、灯が、けずれてる」
星は、俺の手を、両手で包んだ。あたたかい。この子の光が、逆に、俺に流れこんでくる気がした。
「わけあおうって、いったよね。灯がへったら、わたしが、あげる」
俺は、その言葉に、少しだけ救われた。一人ぶんの光を、二人で分け合う。減ったら、片方が足す。そうやって、支え合って生きる。俺たちにしか、できないやり方だ。
思えば、二年前の俺は、誰とも、何も分け合っていなかった。姉さんを失って、心の扉を閉ざして。星読みの仕事だけを、機械のようにこなして生きていた。誰かと支え合うなんて、考えもしなかった。一人で抱えて、一人で削れて、それが当たり前だと思っていた。
だが、今は違う。隣に、この子がいる。減れば、足してくれる者がいる。それが、どれほど心強いか。守っているつもりで、いつも、俺のほうが、支えられている。この子と出会って、俺は、人間らしい重さを、少しずつ、取り戻していた。
◇
その日、俺は姉さんのノートを、また開いた。
第三の道の核心が、そこにあるはずだ。原初の終縞を読まずに、天網を鎮める。奪うんじゃなく、与えて、眠らせる。その具体的なやり方が。俺は、符牒を一つずつ、根気よく読み解いていった。
やがて、俺は、ある一文に、たどり着いた。
『天網が求めるのは、原初の終縞に刻まれた、世界の記憶。ならば、代わりの記憶を、与えればいい。今を生きる者たちの、遺したい想いを。それを集め、原初の終縞に注げば、天網は満たされ、読む必要を失う。眠りにつく』
俺は、その一文を、何度も読み返した。
――今を生きる者たちの、遺したい想い。
つまり、こういうことだ。天網は、飢えている。原初の終縞という、世界のいちばん古い記憶を、読みたがっている。それを読めば、世界は終わる。だが、もし、別のもので、その飢えを満たせたら。今を生きる、街の人々の、遺したい想い。誰かへの愛、誰かへの後悔、誰かへ届けたかった言葉。そういうものを、集めて、星に注げば。天網は、それで、満たされる。星を、読まなくてよくなる。
俺は、なるほど、と思った。星を読むというのは、死者の遺した一行を、奪うことだ。だが天網が本当に欲しいのは、記憶そのもの、想いそのものなんだ。ならば、死者の分を奪わなくても、生者が差し出せばいい。遺したい、と願う気持ちなら、生きている人間のなかに、いくらでもある。むしろ、生きている想いのほうが、熱い。強い。天網を満たすには、そのほうが、ふさわしいのかもしれない。
姉さんは、そこに、気づいていた。人の死を奪って街を延命させる、この星読みの仕組みそのものを、根っこから、ひっくり返そうとしていた。奪う世界から、与え合う世界へ。……とんでもない人だ。俺の姉さんは。会えなくなって、二年も経って、なお、俺を、驚かせてくる。
だが、そこには、問題があった。
ノートの、いちばん最後に、姉さんは、こう書いていた。
『ただし、一人の力では、到底、足りない。星読み一人が注げる想いなど、大海の一滴だ。……これを成すには、大勢の想いが、いる。街じゅうの、人々の』
そして、その、いちばん下に。姉さんは、こうも、書き添えていた。前に、外縁で読んだ、あの一行と、同じ筆跡で。
『けれど、まだ、道の半ばだ。天網を鎮めたあと、原初の終縞そのものを、どう生かすか。その答えに、わたしは、たどり着けていない。……ひとつだけ、予感がある。それを成す核には、たった一人の想いでは、足りない。たがいを想い合う、二人の心が。そして、いちばん惜しいものを、差し出す覚悟が。……いる気がする』
俺は、その一行を、しばらく、見つめた。二人の心。いちばん惜しいものを、差し出す覚悟。……まだ、意味は、掴めなかった。だが、なぜか、胸が、ざわついた。姉さんは、この道の、もっと先まで。見ようとして、いたんだ。
俺は、ノートを、閉じた。
◇
大勢の想い。街じゅうの人々。
それが、第三の道の、本当の姿だった。俺一人では、足りない。星に光を与えるあの術を、街じゅうの人間が、いっせいに使う。そうやって初めて、天網を、鎮められる。
途方もない話だった。俺は、ため息をついた。壁にもたれて、天井の染みを、しばらく見上げた。
街の人々は、星を、災いだと思っている。世界を終わらせる、原初の終縞。読まれる前に、消すべきもの。評議会も、回収屋も、みんな、そう見ている。そんな連中が、星のために、自分の想いを、差し出してくれるのか。
考えるだけで、気が遠くなった。街の人間は、その日を生きるのに、精いっぱいだ。誰もが飢えて、誰もが疲れて、誰かを気づかう余裕なんて、とうに失っている。避難区の、あのうつろな目を、俺は思い出した。生きているのか、ただ息をしているだけなのか、わからないような、あの目を。あんな人々が、見も知らぬ少女のために、心を差し出す。そんな奇跡が、起こせるのか。
いや、と俺は首を振った。奇跡じゃない。姉さんは、それを、机上の空論で終わらせなかった。実現できると信じて、命の最後まで、調べ続けた。だったら、弟の俺が、あきらめるわけには、いかない。方法が途方もないなら、途方もない覚悟で、挑むだけだ。
無理だ。ふつうに考えれば。
だが、と、俺は思った。無理を、可能にするのが、姉さんの生き方だった。燃える建物に、飛びこんだ、あの人の。誰も助からないと思う場所で、たった一人、手を伸ばした、あの人の。
「星」と、俺は言った。「気の遠くなる話だが、道は、見えた。お前を読まずに、世界を救う道が。……街じゅうの人間の、想いを、集めるんだ」
星は、目を、丸くした。
「街じゅうの……ひとの? でも、みんな、わたしを、こわがってる」
「今はな」と、俺は笑った。「でも、変えてやる。お前が、災いなんかじゃないって。……世界を守ってる、たった一つの光だって。俺が、証明してやる」
柄にもない、大口だった。だが、口にすると、不思議と、腹が据わった。
そのときだった。
崩れた壁の向こうから、遠い地鳴りのような音が、聞こえてきた。俺は、身構えた。外縁の、静けさを破る、その音。いくつもの足音と、金属の擦れる音。街のほうから、何かが、こっちへ近づいてくる。
いやな予感がした。星読みの勘が、告げていた。この勘は、いつも、悪いほうばかり当てる。
俺は、星を、背中にかばいながら、崩れた窓へ這い寄った。隙間から、外をうかがう。
瓦礫の向こう、外縁へ続く一本道を、松明の列が、こちらへ進んでくる。評議会の印を染めた外套。数は、前の比じゃない。二十や三十じゃきかない。街の兵を、根こそぎ動員したような、その物々しさ。先頭を、灰色の外套が、ゆっくりと歩いていた。久遠だ。
俺は、奥歯を噛んだ。とうとう、来た。外縁の、この隠れ家も、もう安全じゃない。久遠は、本気だ。星を、力ずくで、確保するつもりだ。原初の終縞を、読ませるために。
――評議会が、動きだした。
「星」と俺は、低く言った。声が、震えないように。「逃げるだけの時間は、終わったみたいだ。……ここからは、攻めるぞ」
星が、俺の顔を、見上げた。不安そうな、けれど、俺を信じきった目で。
「攻める……?」
「ああ」俺は、笑ってみせた。こんなときこそ、笑うんだ。「逃げてても、あいつらは追ってくる。なら、こっちから、街のど真ん中に、乗りこんでやる。……街じゅうの想いを、集めるためにな。第三の道を、始めるぞ、星。俺と、お前で」
無謀だった。二人きりで、街ぜんぶを敵に回して、なお、その街の人心を、ひっくり返そうというのだから。だが、無謀を承知で、俺は、腹を決めていた。姉さんの遺したノートを、懐に、固く押しこんで。俺は、星の手を、握った。あたたかい光が、指に、灯った。
――行こう。俺たちの、本当の戦いは、ここからだ。
奪う世界を、与え合う世界へ。姉が夢見たその道は、途方もない。
だが、久遠が動きだした。もう逃げてはいられない。ここからは、攻めの番だ。




