第29話 手の届く星
姉の星に手が届く。だが、星が、それを止める。
わたしのために、おねえさんの願いを破らないで、と。
俺の手が、止まった。
「……だめ、灯」と、星はまた、言った。消え入りそうな声で。だがはっきりと。
「よまないで。おねえさんの、星。……わたしのために、よんじゃ、だめ」
消えかけの、細い声。だがその言葉は、はっきりと、俺の手を止めた。星はこんなときでさえ、俺の手が、どこへ、伸びかけているか、わかっていた。目を閉じていても。光が、消えかけていても。この子はいつも俺のことをいちばんに、見ている。
「星、でも、このままじゃ、お前が」
「いいの」と、星は笑おうとした。うまく、笑えていなかった。「わたしのために、灯が、おねえさんの、ねがいを、やぶるの。それが、いちばん、いや。……そんなの、わたし、うれしくない」
俺はこぶしを握りしめた。
この子は消えかけている。今にも、光が、尽きようとしている。それなのにまだ俺のことを姉さんのことを心配している。自分のことは、後回しにして。
どうして、この子はこうなんだ。自分が、消えるかどうかの、瀬戸際で。それでも俺の心を守ろうとする。俺が姉さんの願いを破って、あとで、苦しむことを案じている。自分が助かることより、俺が汚れないことを。……そんな優しさが、あるものか。俺はこの子のその優しさに、何度、救われ、何度、胸をえぐられただろう。守りたいのは、俺のほうなのに。いつも先に、守られてしまう。それが、悔しくて、たまらなかった。
「ばかやろう……」
俺の目から、涙が、こぼれた。ぼろぼろと。こらえきれずに。この子の前で、俺は何度、泣いただろう。皮肉屋の星読みが。人前じゃ、涙なんて、見せなかった俺が。この子の前でだけは、子どもみたいに泣いてしまう。それだけ、この子が俺の心の壁を崩してしまったんだ。奥に、しまいこんでいた、いちばん柔らかいものを引きずり出してしまったんだ。
「お前が、死んだら、意味ないだろ。姉さんの願いを、守って、お前を、失って。……そんなの、俺は、耐えられない」
「たえて」と、星は言った。「灯は、つよいから。……わたしがいなくても、まえを、むいて、いきられる。おねえさんが、そうねがったみたいに」
「無理だ。……お前なしじゃ、生きられない」
言ってから、俺は自分の言葉に、驚いた。だがそれは、本心だった。この子なしの世界なんてもう考えられない。星が来る前の、あの、灰色の日々に、戻るくらいなら。俺はいっそ――。いや、そんなことは、考えたくもなかった。ただこの子と生きたい。それだけが、俺のたった一つの、願いだった。
星は弱々しく、手を伸ばして、俺の頬に、触れた。むき出しの手が。だがその光はもうほとんど、消えていた。触れても、あたたかさが、伝わってこない。それが、いちばん、怖かった。
「灯」と、星は言った。「わたし、しあわせだった。なまえを、もらって。あったかい、ゆを、のんで。灯に、すきって、いってもらって。……せかいのこと、なにも、しらなかったわたしが。こんなに、しあわせを、もらった。……もう、じゅうぶんだよ」
俺は首を振った。激しく。
「じゅうぶんじゃない。全然、じゅうぶんじゃない。……これからも、いっぱい、しあわせに、するんだ。一緒に、生きるって、約束したろ。……だから、消えるな。頼むから」
◇
俺は夜空を見上げた。
姉さんの終縞。青い一点。読めば、答えが、手に入る。星を救えるかもしれない。手を伸ばせば、届く。
だが。
俺は星の言葉を思い出していた。わたしのために、灯が、おねえさんの、ねがいをやぶるの。それが、いちばん、いや、と。
そして姉さんの覚え書きの言葉も。前を向いて、生きてほしい、と。
二人とも、同じことを言っている。過去を消費するな。前を向け、と。
俺の手はまだ夜空の一点に、向かって、伸びかけていた。星読みの力が、指先に、集まりかけている。あとは、それを解き放てば、いい。あの星が俺のなかに、流れこんでくる。姉さんの最期。第三の道の、答え。そしてたぶん、星を救う、手がかりも。ほんの、一瞬の、ことだ。読むと、決めれば。
だが俺はその手を宙で、止めていた。
俺は二年間、姉さんの星を読みたかった。過去に、囚われていた。久遠と同じだった。過去を取り戻したくて、前に進めずにいた。あの、絶望した男と、俺は地続きだった。星に出会わなければ、俺もあそこまで、堕ちていたかもしれない。世界を道連れにしてでも失ったものを取り戻そうとする。そんな、亡者に。
でも俺は星に出会った。前を向くことを教わった。姉さんの生き方を継ぐことを選んだ。
――なら、ここで、読んだら。
俺はまた、久遠と同じに、なる。過去に、囚われた、あの男と。星を救うという、立派な理由をつけて。結局は、姉さんの星を消費する。あの人の願いを踏みにじる。
それは、違う。
俺はゆっくりと伸ばしかけた手を下ろした。
「……読まない」
俺は言った。星の目を見て。はっきりと。
「姉さんの星は、読まない。……お前を、救うためでも。俺は、姉さんの願いを、継ぐ。前を、向く。……そして、お前を、別の方法で、救ってみせる。読むんじゃ、ない、方法で」
俺は夜空の、青い一点を見上げた。二年間、焦がれ続けた、あの星。
「見ててくれよ、姉さん」
声が、震えないよう、腹に、力をこめた。
「あんたの星は、読まない。俺は、あんたの最期を、覗き見して、慰めにするような、そんな弟には、ならねえ。……あんたが遺したのは、覗くための星じゃない。継ぐための、生き方だ。だろ?」
夜空は、答えない。だが青い光が、ほんの少し強くまたたいた気がした。それで、じゅうぶんだった。
星の目に、涙が、あふれた。だがそれは、悲しみの涙じゃなかった。安心したような、うれしいような、涙だった。俺が姉さんの願いを守れたことを。過去に、のみこまれずに、すんだことを。この子は自分が消えかけているのに、俺のことを喜んでくれていた。最後まで、俺の心を案じてくれていた。
「……うん」と、星は言った。「灯なら、そういうと、おもった。……だいすき、灯」
俺は星を強く、抱きしめた。消えかけの、その体を。壊れないように。だが二度と、離さないように。
◇
だが抱きしめても、星の光は、戻らない。
このままでは、この子は消える。読まずに、救う方法。そんなものが、本当に、あるのか。俺は必死に考えた。姉さんのノート。天網を鎮める方法。読むんじゃなく、語りかける。奪うんじゃなく、与える。
――与える。
俺ははっと、した。
星が隠れ里で、枯れた花に、光を与えたことがあった。奪う力の、裏返しの、与える力。星は光を与えることが、できる。
なら、逆は。
誰かが、星に光を与えることは、できないのか。
俺は自分の手を見た。星読みの手だ。星を読む手。奪う手。人の最期を味わい、そして消す手。二年間、俺はこの手で、数えきれないほどの星を殺してきた。読むのは、殺すのと同じだ。ずっとそう思って、生きてきた。この手は、奪うことしか、知らない。そう、思いこんでいた。
だがもし、その力を逆に、使えたら。読んで奪うんじゃなく、与えることが、できたら。星が枯れた花に、光を与えたように。奪う力の、裏返しの、与える力。星読みの俺にも、それが、できるんじゃないか。この、奪うためだけに、鍛えてきた手で。今度は、与えることが。この子に光を注ぐことが。
俺は星の頬に、両手を当てた。冷たい頬だ。光の、ほとんど、消えた頬。だがまだかすかに脈打っている。命の火はまだ消えていない。細く、頼りなくとも、確かに、ここにある。俺はその火を消させはしない。読むんじゃない。与えるんだ。姉さんが遺してくれた、あの言葉を信じて。
そして目を閉じた。星を読むときの、あの感覚を思い出す。星から、記憶を引き出す、あの感覚。それを逆に、する。引き出すんじゃなく、注ぎこむ。俺のなかにある、あたたかいものを。星への、想いを。この子と生きたいという、願いを。
できるか、どうかは、わからない。星読みが、光を与えるなんて、聞いたことも、ない。だがやるしかなかった。ほかに、この子を救う方法は、ない。姉さんの星を読まずに。この子を生かす。その、たった一つの、細い糸に、俺はすべてを賭けた。
「星。……俺の光を、やる。全部、やる。だから、消えるな」
俺の手のひらが、ほのかに、あたたかくなった。何かが、俺から、星へと、流れていく。それが、光なのか、想いなのか、わからない。だが確かに、何かが、伝わっていく。俺のなかの、あたたかいものが、少しずつ、この子のなかへ、注がれていく。星を読むときとは、まるで逆の感覚だった。奪うんじゃない。差し出しているんだ。この子のために。俺の持てるもの、すべてを。
星の閉じかけていた目がわずかに開いた。
灯は、読まないことを選んだ。姉の生き方を、継ぐために。
そして気づく。奪う手で、与えることも、できるはずだと。星読みの力を、逆に使って。




