第28話 薄れゆく光
天網が目覚め、星を呼ぶ。星は、渾身で抗い、そして――光を、使い果たす。
消えかける星を前に、灯は、夜空の姉の星に、手を伸ばしかける。
塔が、鳴った。
低い、地鳴りのような音が、足元から、突き上げてきた。腹の底に、響くような、重い音。兵たちが、たじろぐ。俺を押さえる手が、ゆるむ。何が起きたのか、誰にも、わからなかった。ただ足元の石が、震え、崩れた瓦礫が、かたかたと、鳴った。塔全体が、身じろぎしたみたいだった。長い眠りから、目を覚ました、巨大な獣のように。
見上げると、観測所の、砕けた硝子の目が、青白く、光っていた。天網の末端の器官が、目を覚ましたみたいに。長いあいだ、眠っていた機械が、原初の終縞が、すぐそばに来たことで、うずき始めたのだ。そしてその光が、星に向かって、伸びてきた。呼んでいる。原初の終縞を。こっちへ、来い、と。
俺はとっさに状況を悟った。まずい。この塔は、天網とつながっている。星がここにいるかぎり、天網はこの子を呼び続ける。そして今、久遠に追い詰められ、星が動揺している。心が、乱れれば、天網の引力に、抗う力も、弱まる。最悪の、間合いだった。久遠の兵と、天網の光。前と後ろから、同時に、この子が狙われている。
「星っ!」
星の体が、ふわりと、宙に、浮きかけた。天網の光に、引き寄せられて。俺はその手を必死につかんだ。渾身の力で、引き戻す。
「行くなっ! 星、行くな!」
星は俺の手のなかで、もがいた。だがそれは、星の意志じゃなかった。天網が力ずくで、この子を引っぱっている。星の顔は、苦しげに、ゆがんでいた。
「灯……っ、からだが……かってに……」
星の体から、光が、あふれ出した。だがそれは、いつもの、まばゆい光じゃなかった。薄い。はかない。まるで最後の力を絞り出しているみたいだった。その光が、天網の光と、ぶつかり合う。せめぎ合う。
そして星は天網の引力に、抗った。
自分の意志で。俺のそばに、いるために。
俺はその光景をただ見ていることしか、できなかった。星がたった一人で、巨大な天網の力と、渾身で、綱引きをしている。細い体を震わせて。歯を食いしばって。俺のそばに、とどまるために。そのために、この子は残された光をぜんぶ、燃やしている。俺には、手を貸すことすら、できない。星読みの力は、奪うことしか、知らない。この子を引き止める腕の力しか、俺には、なかった。無力だった。守ると誓ったのに。またしても、守られているのは、俺のほうだった。
どん、という衝撃とともに、天網の光が、砕けた。硝子の目が、暗く、沈む。塔の地鳴りが、やんだ。
◇
だがその代償は、大きかった。
星は俺の腕のなかに、崩れ落ちた。光が、ほとんど、消えている。体の輪郭さえ、ぼやけていた。あんなに、大きな力に、抗ったのだ。残っていた光を全部、使い果たしたのだ。
「星っ! しっかりしろ、星! 目を、閉じるな!」
俺はその体を揺すった。星はうっすらと、目を開けた。だがその目にももう力がない。焦点が、合っていない。俺の顔を探すように視線が、さまよう。俺はその頬を両手で、包んだ。ここだ、と。俺はここにいる、と。星の目が、ようやく、俺をとらえた。かすかに口元が、ほころぶ。俺を見つけて、安心した、そんな笑みだった。その、頼りない笑みが、俺の胸を締めつけた。
「灯……ごめん。わたし、もう……ひかりが……」
「しゃべるな。……大丈夫だ。眠れば、戻る。いつも、そうだったろ」
だが俺には、わかっていた。今度は、違う。以前とは、消耗の度合いが、違う。これだけの力を使ったのだ。眠っても、そう簡単には、戻らない。下手をすれば、このまま――。
考えるのも、恐ろしかった。腕のなかの、星の光はもう蛍火みたいに頼りなかった。指先から、こぼれるはずの光の粒も、ほとんど、出てこない。頬は、氷みたいに冷たい。息だけが、かろうじて、細く、続いている。まるでいつ、消えても、おかしくない、灯火だった。俺はその火を両手で、覆って、風から、守るように抱きしめた。だが俺の手のぬくもりくらいで、この子の光が、戻るはずも、なかった。
どうすれば、いい。誰か、教えてくれ。俺は心のなかで、叫んだ。だが答える者は、いない。宵さんは、逝った。姉さんももういない。頼れる者は、誰も、いなかった。この、広い世界に、俺と消えかけの星の二人きり。そんな気が、した。
兵たちは、天網の光に、たじろいで少し退いていた。突然の地鳴りと、まばゆい光に、腰が引けたのだ。無理もない。天網の器官が、目を覚まし、暴れたのだ。ただの兵に、耐えられる光景じゃない。おかげで、俺たちの周りに、わずかな、空白が、生まれていた。逃げるなら、今か。だが星は俺の腕のなかで、ぐったりと、していた。この子を抱えて、走れるか。いや、走ったところで、どこへ。囲まれている。
久遠だけがじっとこちらを見ている。星の消えかけた光を。眉ひとつ、動かさずに。あの光景を見ても、この男は、たじろがない。天網の力を誰よりも、よく知っているからだ。むしろその目には、かすかな、興味の色さえ、あった。原初の終縞が、力を使い果たしたら、どうなるのか。それを観察するような、冷たい目だった。
「……力を、使い果たしたか」と、久遠がつぶやいた。「原初の終縞といえど、無限では、ない、ということか。……哀れなものだ」
俺は久遠をにらんだ。だが言い返す余裕も、なかった。腕のなかの、星の光が、今にも、消えそうだった。哀れなものだ、だと。この男は、消えかけの星を見て、そんなふうに、しか、思わないのか。この子がどれだけ必死に生きようとしているか。どれだけ、俺のそばに、いようとしているか。それが、まるでわかっていない。原初の終縞をただの、道具としか、見ていないからだ。俺はこみ上げる怒りを奥歯で、噛みつぶした。今は、怒っている場合じゃ、ない。この子を救う方法を探すのが、先だ。
◇
どうすれば、いい。
俺は必死に頭をめぐらせた。星の光を取り戻す方法。この子を救う方法。
だが俺には、何もなかった。星読みの知識にも、そんなものは、ない。眠らせて、待つしかない。だが待つあいだに、久遠に連れていかれる。あるいは、待っても、星が戻らないかもしれない。
絶望が、胸を締めつけた。
そのときふと俺の目が、夜空の、東のはずれをとらえた。
姉さんの終縞。あの、青い一点。
――読めば。
その考えが、稲妻みたいに頭を走った。
姉さんの終縞には、第三の道の答えが、遺されている。天網を鎮める方法。原初の終縞に、語りかける方法。……もしかしたら、星の光を取り戻す方法も、そこに、あるかもしれない。姉さんは原初の終縞のことを誰よりも、調べていたんだから。
読めば、姉さんの知恵が、手に入る。星を救えるかもしれない。
俺の指が、震えた。星読みだ。あの星を読むことなど、できる。ここからでも。
――でも。
姉さんは読むなと、言った。前を向いて、生きろと。
――でも星が死ぬ。
俺のなかで、二つの声が、ぶつかった。
姉さんの願い。星の命。どっちを取る。どっちを。
天秤が、揺れた。激しく。かつてない、重さで。
姉さんの願いを守れば、星が死ぬ。星を救えば、姉さんの願いを裏切る。どちらも、選べない。だが選ばなければ、この子は俺の腕のなかで、消えていく。時間は、ない。星の光は、刻一刻と、細くなっていく。迷っている、そのあいだにも。
俺は星を腕に抱いたまま夜空を見上げた。青い一点が、俺を見下ろしている。手を伸ばせば、届く。読めば、答えが、手に入る。星を救えるかもしれない。二年間、読むのをこらえてきた、あの星。今、その封印を解けば。この、腕のなかの光をつなぎとめられるかもしれない。
姉さんは読むなと言った。だが姉さんだって、俺が目の前で、誰かを失うのを望むだろうか。星を見殺しにしてまで、守るべき願いなのか。俺の頭は、めちゃくちゃに、乱れていた。
俺の手が、その星に向かって、伸びかけた。星読みの、力をそこに、集めようとして。
読めば、姉さんに会える。二年間の飢えが、また、胸の底から、噴き上げてきた。そして今度は、その飢えに、立派な、大義名分まで、ついている。星を救うため。第三の道の、答えを知るため。……こんなに、都合のいい、言い訳が、あるか。読んでいい理由が、目の前に、いくつも、転がっている。俺の手はもう半分、あの星をつかみかけていた。あとは、力を解き放つだけ。
「……灯」
腕のなかで、消えかけの声が、した。
星が俺の袖を、弱々しく、握っていた。指先の光は、もう、ほとんど残っていない。それでも、その手は、俺を引き止めようと、必死に、力をこめていた。
俺の手が、夜空の一点へ、あと少しで、届く。その、寸前だった。
「……だめ」
読めば、星を救えるかもしれない。だが、姉は読むなと言った。
姉の願いと、星の命。板挟みの灯の手を、消えかけの星が、そっと、握る。「……だめ」。次で、灯は答えを出す。




