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第26話 触れられる意味

 姉の部屋で、星が、まっすぐな想いを、口にする。

 消したくない。ふれていたい。……これって、好きってこと、と。

 その夜、俺たちは、久しぶりに、穏やかに眠れた。


 姉さんの部屋は、狭いが、居心地がよかった。壁の星図が、俺たちを見守っている。天網の声も、その夜はなぜか静かだった。星が俺のそばで、すやすやと、寝息を立てていた。


 俺はその寝顔をながめていた。


 この子と出会って、どれくらいになるだろう。ひと月か、ふた月か。逃げてばかりの日々で、時間の感覚も、あやふやだ。だがこの子のいない暮らしなんてもう思い出せない。それくらい、俺の日々に、星は深く、根を張っていた。


 星が来る前の俺はどうやって、生きていたんだろう。思い出そうとしても、うまく、思い出せない。ただ灰色の日々だった気がする。星を読んで、飯を食って、姉さんの星を探して、また眠る。その繰り返し。誰とも、口をきかず。何にも、心を動かさず。ただ生きているだけの、抜け殻みたいな毎日。あのころの俺は街の底で見た、あの、記憶を失った男たちと、たいして、変わらなかったのかもしれない。


 それが、この子と出会って、変わった。名前を呼ばれ、おかえりと言われ、笑い、泣き、怒る。人間らしい、いろんなものが、俺のなかに、戻ってきた。星は俺に生きることを思い出させてくれた。守っているつもりでいつも俺のほうが、救われている。そのことを俺はこの子の寝顔を見るたびに、思い知る。


 俺はそっと星の髪に、触れた。長い、光の尾みたいな髪。触れると、指のあいだからかすかな光が、こぼれる。この子の何もかもが、星屑でできている。それでも俺には、この世の誰よりも、あたたかく、確かな存在に、思えた。手に触れられる。抱きしめられる。それが、どれほど、ありがたいことか。姉さんはもう抱きしめられない。だがこの子はここにいる。俺の腕のなかに。生きて、息をして。


 ふと星が目を覚ました。


「……灯。おきてたの」


「ああ。寝つけなくてな」


 星は身を起こして、俺の隣に、座った。むき出しの手を俺の手に、重ねる。指先の光が、俺の手をあたたかく包む。消えない。何度、確かめても、消えない。


「灯」と、星が言った。「わたし、ずっと、ふしぎだった。どうして、灯にだけ、ふれられるのか」


「ああ。俺も、わからない」


「でも、さいきん、わかってきた」と、星は少し頬を染めた。「わたし、灯のことを、けしたくないの。世界でいちばん、けしたくない。……そのきもちが、つよいから。灯には、ふれられるんだと、おもう」


 俺はその言葉を静かに聞いていた。


「ほかのひとには、ふれられない。こわいから。けしちゃうかも、しれないから。……でも、灯だけは、ちがう。灯とだけは、ふれあっていたい。ずっと。……だから、わたしの、ちからは、灯を、けさないんだと、おもう」


 星の頬をこぼれた光が、伝った。


「これって……すきってことなのかな。灯のこと」


 俺の心臓が、跳ねた。


 この子はまっすぐだ。思ったことをそのまま口にする。世界のすべてを覚えたてで。恋という言葉も、たぶん、覚えたてで。だからこそ、その一言は、飾りけがなくて、まっすぐに、俺の胸に、刺さった。


 好き、という言葉の意味をこの子はたぶん、正確には、知らない。だがその気持ちの、いちばん、純粋なところだけは、誰よりも、わかっている。消したくない。ふれていたい。ずっとそばにいたい。……それが、好きってことだと、この子は言う。理屈も、駆け引きも、何もない。ただまっすぐな、想いだけ。俺みたいにひねくれた人間には、まぶしすぎるくらいの、まっすぐさだった。


 俺はこういう感情を久しく、忘れていた。誰かを好きになるなんて。誰かと、生きたいと願うなんて。姉さんを失ってから、俺は心の扉を固く、閉ざしていた。もう誰も、失いたくなくて。だがこの子はその扉をいつのまにかこじ開けていた。むき出しの手で、まっすぐに。俺のいちばん、柔らかいところに、触れてきた。消したくない、と言いながら。



◇



 俺はなんと答えていいか、わからなかった。


 消えると決まっている子だ。読まれれば、世界を終わらせる子だ。そんな子を好きになっていいのか。この気持ちに、名前をつけていいのか。


 だが星の澄んだ目を見ていると。そんな理屈は、どうでもよくなった。


「……ああ」と、俺は言った。「たぶん、そうだ。俺も、お前のことが、好きだ」


 言ってしまってから、顔が、熱くなった。柄にもない。皮肉屋の星読みが、こんな、まっすぐな言葉を口にするなんて。


 だが星は花がほどけるみたいに笑った。今まで見たなかで、いちばん、明るい笑顔だった。そのとたん、薄かった光が、ぱっと、明るくなった。まるでうれしさが、この子の光を取り戻させたみたいに。


「うれしい」と、星は言った。「わたし、灯のこと、すき。ずっと、すき。……いっしょに、いきたい」


「ああ。一緒に、生きよう」


 俺たちはしばらく手を握り合っていた。姉さんの部屋で。星図に、見守られながら。消えない光を確かめ合いながら。


 こんな、穏やかな時間が、いつまでも続けばいい。俺は心から、そう願った。逃げることも、怯えることもない、ふつうの暮らし。二人で、朝を迎えて、飯を食って、くだらないことで、笑い合う。そんな、あたりまえの幸せが、俺たちには、いちばん、遠かった。だがいつか、必ず、手に入れてみせる。第三の道を見つけて。この子を読まれずに生かして。そのために、俺はあがくんだ。何度でも。この、あたたかい手を離さないために。


 消えると決まっている。それでも俺はこの子と生きたい。この気持ちごと、守り抜きたい。第三の道を必ず、見つけて。二人で、生きていくんだ。


 ――そう、誓った、そのときだった。



◇



 塔の外でかすかに音がした。


 俺ははっと、身構えた。星の手を握る。


 窓の隙間から、外をうかがう。血の気が、引いた。


 遠くの、瓦礫の向こう。いくつもの、明かりが、揺れていた。松明だ。列を成して、こちらへ、近づいてくる。その先頭には、灰色の外套の影。


 久遠だった。


 ――見つかった。


 なぜ、ここが。俺は唇を噛んだ。だが考えてみれば、当然だった。ここは、旧・天網観測所。天網とつながった、いわくつきの場所だ。原初の終縞を探す久遠が目をつけないはずが、ない。俺たちが、ここに来ること自体、読まれていたのかもしれない。


「星、逃げる支度を。……久遠が、来た」


 星はこくりとうなずいた。だがその顔は、また、青ざめていた。天網の声が、また、聞こえ始めたのだ。この塔にいるかぎり、星は消耗する。長居は、できない。


 俺は姉さんのノートを懐に、しまった。これだけは、置いていけない。姉さんの遺した願いだ。第三の道への、道しるべだ。久遠に渡すわけには、いかない。あの男の手に、渡れば、姉さんの意志は、逆に、利用されるかもしれない。世界を終わらせるために。それだけは、させない。俺はノートをしっかりと、懐の奥に、押しこんだ。姉さんの願いを俺の体で、守るように。


 俺は窓から、外の様子をうかがった。松明の数は、前より、多い。二十、いや、もっとか。久遠は本気で、俺たちを囲みにきた。前は、話し合いだと言って、一人で来た。だが今度は、違う。あれだけの兵を率いている。逃がすつもりは、ないのだ。


 なぜ、今夜なのか。俺は歯がみした。好きだと、言い合ったばかりだ。ようやく、この子と心が、通じ合ったばかりだ。なのに、その、いちばん、あたたかい時間を狙いすましたように久遠が来る。まるで俺たちの、つかのまの幸せを踏みにじるために、現れたみたいだった。……いや、そんなのは、偶然だ。あの男に、俺たちの心のうちなんて、わかるはずもない。ただ観測所を突き止めただけだ。だがそう思っても、悔しさは、消えなかった。


 松明の列が、塔の根元まで、迫ってきた。もう逃げ道は、限られている。


 俺は星の手を握った。あの、あたたかい手を。


「行くぞ。……つかまるわけには、いかない」


 つかのまの、穏やかな夜は、終わった。また、逃げる夜が、始まる。だが今度の俺は一人じゃない。好きだと言い合った、この子と一緒だ。俺はその手を強く、握り直した。何が来ようと、離さない。そう、決めて。あの夜、姉さんの手を離してしまった、あの俺はもういない。今度こそ、この手を守り抜く。二年前の後悔を繰り返しは、しない。


 どんな夜でも、この子となら、越えていける。そう思えた。


 ――だが、その夜道の先で。俺たちを、待っている影が、あった。崩れた観測所の、入り口に。黒い傘を、ついた、灰色の外套。逃げた先で、まるで、俺たちが来るのを、知っていたように。久遠が、静かに、立っていた。逃げる夜は、いつだって、いちばん会いたくない相手を、連れてくる。

 好きだと、言い合った。つかのまの、あたたかい夜だった。

 だが、その夜を狙うように、久遠が兵を率いて現れる。また、逃げる夜が始まる。

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