第25話 夜空の一点
観測所の道具で、灯は、ついに姉の終縞の在り処を、突き止める。
夜空の、青い一点。手を伸ばせば、届く。二年間、探し続けた、あの星だ。
観測所には、便利なものが、遺されていた。
姉さんの部屋の隅に、古い観星の道具が、あった。壊れかけているがまだ使える。夜空の、どの領域に、どんな終縞があるか。それを細かく、調べるための道具だ。星読みなら、喉から手が出るほど、欲しい代物だった。
俺はその道具をいじりながらある考えに、たどり着いていた。
姉さんの終縞は、読まない。それは、決めた。だがどこに、あるのかくらいは、知っておきたい。もし、天網に呼ばれた星がそちらへ、引き寄せられそうになったとき。姉さんの星の位置を知っていれば、避けられるかもしれない。そう、理由をつけた。
本当はただ知りたかっただけかもしれない。姉さんが空の、どこにいるのか。
自分でも心の底が、見えなかった。読まないと、決めた。それは、本当だ。だが位置を知りたいという、この気持ちは、いったい、なんなんだろう。読まないのに、在り処だけは、確かめたい。矛盾している。だが俺はその矛盾を抱えたまま道具に、手を伸ばしていた。二年間、探し続けた、あの星。せめて、どこにいるのかだけでもこの目で、見ておきたい。それくらいは、許されるはずだと、勝手に、理由をつけて。
人間ってのは、勝手なものだ。読まないと誓った、その口で、探そうとする。俺は自分の、そういう弱さをよく知っていた。だからこそ、危うかった。位置を知れば、次は、読みたくなる。読めば、姉さんに会える。第三の道の答えも、わかる。……その誘惑が、すぐそこまで、来ていることを俺はうすうす、感じていた。それでも道具から、手を離せなかった。
俺は道具を夜空に向けた。観測所の、砕けた硝子の目から、人工の夜が、よく見える。無数の星屑。そのどこかに、姉さんがいる。
二年間、闇雲に探しても、見つからなかった。だがこの道具と、姉さんのノートに記された観測記録があれば。灼き落としの夜に昇った終縞の、おおよその領域が、絞りこめる。
◇
俺はその道具を丁寧に、手入れした。埃を払い、曇った硝子を布で拭く。姉さんもこうやって、この道具をいじっていたのかもしれない。そう思うと、金属の冷たさにさえ、姉さんの手の、ぬくもりの名残が、あるような気がした。星は俺のそばで、その様子をじっと見ていた。何をしているのか、聞きもせずに。ただ俺の真剣な横顔を見つめていた。
三晩、かけた。
俺は道具をのぞき、記録と、照らし合わせ、少しずつ、範囲を狭めていった。星を一つずつ、確かめる。読みはしない。ただ光の質を見る。姉さんの終縞は、ふつうの星屑とは少し違うはずだ。強く、深く、まっすぐな光。姉さんのまっすぐな生き方みたいな、光。
三晩目の、明け方近く。
俺はそれを見つけた。
夜空の、東の、はずれ。ほかの星より、少しだけ、青く、深い、一点の光。
――ここだ。
俺には、わかった。理屈じゃない。星読みの勘が、告げていた。あれが、姉さんの終縞だ。二年間、探し続けて、見つからなかった、あの星。それが、今、目の前の、夜空の、一点に、ある。
俺は道具から、目を離せなかった。
あそこに、姉さんがいる。読めば、会える。最期の記憶に、触れられる。何を思って、死んだのか。俺を恨んでいたのか。許してくれていたのか。……そして第三の道の、答えも。
手を伸ばせば、届く。読み方は、知っている。星読みだ。あの星を読むことなど、造作もない。この道具をあの一点に、向けて、力を集めれば、いい。それだけで、姉さんの最期が、俺のなかに、流れこんでくる。二年間、焦がれ続けた、あの人の、最後の一行が。
俺の指が、震えた。
喉が、からからに、渇いた。心臓が、痛いほど、鳴っている。読むな。頭の片隅で、声がする。姉さんが読むなと言った。星が消えると言った。だがそれより、大きな声で、別の何かが、叫んでいた。読め。会いたいんだろう。ずっと探してたんだろう。今、目の前に、あるじゃないか、と。二年間の飢えが、俺の手をあの星へと、引き寄せようとした。俺は道具の縁を握りしめて必死にこらえた。額に、脂汗が、にじんだ。
◇
「灯」
背後で、声がした。
振り返ると、星が立っていた。いつから、そこにいたのか。じっと俺を見ている。その顔は、青ざめていた。
「……おねえさんの、星。みつけたの?」
俺は答えられなかった。図星を突かれて。
星はゆっくりと俺のそばに、来た。そして道具のほうを見た。その先にある、夜空の、青い一点を。
「あれ、なんだね」と、星は静かに言った。「わたしにも、わかる。……あの星、ほかのと、ちがう。あったかい。灯の、おねえさんの、におい、がする」
俺はうつむいた。
「……読まない」と、俺は言った。声が少し震えていた。「見つけただけだ。読みはしない。……ただ、位置を、確かめたかった。それだけだ」
星はしばらく黙っていた。それから、俺の手をそっと握った。
「灯」
「なんだ」
「わたしのこと、きにしないで。……もし、おねえさんの星を、よみたいなら。よんでも、いいんだよ」
俺ははっと、顔を上げた。
星の目は、澄んでいた。だがその奥に必死に何かをこらえているのが、見えた。
「灯、ずっと、さがしてた。おねえさんに、あいたくて。……わたしのために、それを、あきらめてほしくない。わたしは、へいき。……だから」
その言葉の途中で、俺は星を抱き寄せた。
ばかな子だ、と思った。自分を差し出そうとしたときも、こうだった。この子はいつも自分より、俺を先に、考える。俺が姉さんに会えないことを自分のことみたいに悲しんでいる。
こんな子をどうして、読めるものか。この子を守るために、姉さんの星を読む。そんなことをしたら、この子は一生、自分を責め続けるだろう。わたしのせいで、灯は、おねえさんとの約束を破った、と。俺はこの子のその優しさごと、守りたいんだ。読むという道は、この子の心をいちばん深いところで、傷つける。だから選べない。何があっても。
「聞け、星」
俺はその細い肩をつかんで、目を見た。
「読まないのは、お前のためじゃない。……いや、それもある。でも、それだけじゃない。姉さんが、読むなと、言ったからだ。前を向いて、生きろと。……俺は、姉さんの、その願いを、継ぎたいんだ。だから、読まない。お前に、遠慮してるわけじゃない」
星は俺を見つめた。涙が、その目に、にじんでいた。
「……ほんとに?」
「ああ」と、俺はうなずいた。「本当だ。……それに、俺は、もう、決めたんだ。姉さんの最期を知るより、お前と、生きるほうを。過去を読むより、これからを、生きるほうを」
星の目から、涙が、こぼれた。光の粒に、なって。
俺はその涙を指で、ぬぐった。むき出しの手が、星の頬に、触れる。消えない。俺は消えない。
この子は、俺のいちばん弱いところを、いつも、まっすぐに見抜く。手を伸ばしかけたことも、必死にこらえていることも。全部わかったうえで、それでも、自分のことより、俺の望みを、先に口にする。よんでもいいんだよ、と。……ばかな子だ。そんなことを言われて、読めるわけが、ないだろう。読んだその瞬間に、俺は、姉さんの願いと、この子の想いを、いっぺんに、踏みにじることになる。そんな真似だけは、天地がひっくり返っても、できやしない。
俺はあらためて、思った。二年間、俺を縛っていた、過去への未練。それが、今、少しずつ、ほどけていくのを感じた。この、腕のなかの、あたたかい光が。俺を前へと、向かせてくれる。過去を読むより、この子とこれからを生きる。そのほうがずっと大事なんだと。姉さんもきっとそれを望んでいる。俺はそう、信じることにした。
夜空の、青い一点が、そんな俺たちを静かに見下ろしていた。姉さんがそこから、見ている気がした。そうだよ、と。それで、いいんだよ、と。二年ぶりに、俺は姉さんに少しだけ、褒められた気がした。
俺は道具をたたんだ。もうあの星をのぞくことは、しない。位置は、覚えた。それで、じゅうぶんだ。姉さんがあそこにいる。それを知っているだけで、心が、あたたかくなる。読まなくても、いいんだ。会いに行かなくても、いい。姉さんはあの空で、俺たちを見守ってくれている。それだけで、俺は前を向いていける。星の手を握って。この、あたたかい光と、一緒に。
二年間、俺を縛っていた鎖が、音もなく外れていく。もう、空ばかり見上げる俺じゃない。地に足をつけて、この子と生きていく。あの青い星は、そこに在るだけでいい。読まなくても、姉さんはちゃんと、俺を見ていてくれる。
夜空の青い一点が、うなずくように、またたいた。俺は星の肩を、そっと抱き寄せた。もう、離さない。
読めば、姉に会える。答えもわかる。だが灯は、こらえた。
星は「よんでもいい」と言う。灯は「読まない」と返す。姉の願いを、継ぐために。二人の距離が、また、縮む。




