第24話 語りかける一行
姉の遺した言葉――読むのではなく、語りかける。
その意味を、灯は、必死に考える。第三の道の、輪郭が、見えはじめる。
その夜、俺たちは、姉さんの部屋で、身を寄せて過ごした。
外へ出るのは、危ない。橋のはぐれ者もいる。それに星が天網の声に、参っていた。塔にいるかぎり、その声は、絶えず、星を呼び続けているらしい。星は俺の腕のなかで、時々、うわ言のように知らない言葉をつぶやいた。
「……接続、要求。……起動、まで、あと」
あの、機械みたいな声だ。俺はそのたびに、星の名を呼んで、揺り起こした。星、と。俺の星だ、と。すると星ははっと我に返って、俺にしがみついた。
「……こわい、灯。てんもうが、わたしを、ひっぱる。よんでくる。……わたし、いっちゃ、いそうになる。じぶんのからだが、じぶんのものじゃ、なくなる。こわいよ」
「行かせない」と、俺はその体を抱きしめた。「絶対に、行かせない。……お前は、俺のものだ。天網なんかに、渡さない」
言ってから、俺のもの、なんて、勝手な言い方だと、思った。だが星はその言葉に少し安心したようだった。俺の胸に、顔をうずめて、小さく、うなずく。
俺はひと晩じゅう、星を抱いていた。天網の声から、この子を守るように。
眠れなかった。腕のなかで、星がうなされるたびに、俺はその名を呼んだ。星。星。俺の星だ。名前を呼ぶと、この子は少しだけ、落ち着く。名前ってのは、不思議なものだ。俺が雑につけた、たった二文字。それが、この子を天網から、つなぎとめている。お前は、原初の終縞なんかじゃない。星っていう、名前を持った、一人の女の子だ。俺は何度もそう、言い聞かせた。この子にも。自分にも。
窓の外の、人工の夜が、白みかけるころ。ようやく、星のうなされ方が、収まった。穏やかな寝息に、変わる。俺はその寝顔を見つめた。疲れきった、幼い顔。この子は生まれてからずっと天網に呼ばれ続けてきたのかもしれない。空の高みで、たった一人。だから俺のそばにいる、この、ささやかな時間が、この子には、何よりの、救いなんだろう。俺はその救いを守り抜きたかった。天網なんかに、渡してたまるか。そう、あらためて、心に、誓った。
◇
朝が来て、星が少し落ち着いたころ。俺はまた、姉さんのノートを開いた。
昨夜、読んだ、あの一文。鍵は、記憶だ。天網を鎮めるには、原初の終縞に、語りかけるしかない。読むのではなく、語りかける。
俺はその言葉の意味をずっと考えていた。
読むのではなく、語りかける。星読みは、星を読む。読めば、消える。それが、この世界の理だ。だが姉さんは違うことを言っている。読むんじゃなく、語りかけろ、と。奪うんじゃなく、届けろ、と。
――もしかして。
俺はふと思い当たった。
星が隠れ里で、枯れた花に、光を与えたことがあった。消すだけじゃない、与えることも、できる、と。奪う力の、裏返しの、与える力。
姉さんの言う「語りかける」も、それと、同じことなのかもしれない。天網から、記憶を読み取る(奪う)んじゃなく。天網に何かを届ける(与える)。そうやって、天網を鎮める。眠らせる。
考えてみれば、天網は飢えているのかもしれない。ずっと原初の終縞を待ち続けている。読まれることを待っている。まるで腹をすかせた獣が、餌を待つように。……だがもし、その飢えを別のもので、満たせたら。読まれることでしか、得られないはずの何かを先に、与えてやれたら。天網はもう待たなくてよくなる。星を呼ばなくてよくなる。眠りに、つけるかもしれない。
馬鹿げた考えかもしれない。俺はただの、街のはずれの星読みだ。天網の仕組みなんて、半分も、わからない。だが姉さんのノートの言葉と、隠れ里で星が見せた、あの、与える力。この二つが、同じ方向を指している気が、してならなかった。奪うんじゃなく、満たす。それが、第三の道の、鍵なんだ。まだおぼろげだが。確かに、そこに、光が、差している気がした。
だが何を届ければ、いいのか。それは、ノートには、書かれていなかった。姉さんもそこまでは、たどり着けなかったのだ。答えの続きは、姉さんの終縞のなかに、ある。
だが、ゆっくり考えている時間は、なかった。この塔にいるかぎり、天網の声は、絶え間なく、星を呼び続けている。ゆうべも、この子は、あの機械みたいな声で、うわ言をこぼした。答えを見つけるのが、遅れれば。……その前に、星が、声のほうへ、連れていかれる。俺の焦りは、日ごとに、濃くなっていた。
「灯」と、星がノートをのぞきこんだ。「なにか、わかった?」
「……少し、な」と、俺は言った。「姉さんは、天網を、鎮める方法を、探してた。原初の終縞を、読むんじゃなく、語りかけて、眠らせる方法だ。……そのやり方は、まだ、わからない。でも、方向は、見えてきた」
星はじっとノートを見た。字は読めない。それでもその、姉さんの遺したものを大切そうに、見つめた。
「灯の、おねえさん……やさしい、ひとだったんだね」と、星がぽつりと言った。「せかいを、おわらせないように。だれも、しなないように。ひとりで、こんなに、しらべてた」
その一言に、俺は胸が、熱くなった。星は字も読めないのに、姉さんの遺したものの、いちばん、大事な芯をまっすぐに、感じ取っていた。優しさを。誰も死なせたくない、という、願いを。この子には、そういう、まっすぐな、感じ取る力が、ある。俺が理屈で、こねくり回して、たどり着くところに、この子はひと足飛びで、届く。
その芯を、俺は、うまく言葉にできなかった。ただ、喉の奥が、熱くなった。
姉さんは、これを、たった一人で抱えていた。弟の俺にさえ、おくびにも出さずに。もし、打ち明けてくれていたら。俺は、その隣に、立っていられたかもしれない。今さらな悔いが、胸を、ちくりと刺した。
それでも、と俺は思う。残されたこのノートが、姉さんと俺を、まだ、つないでいる。字をなぞるたび、あの人の声が、聞こえる気がする。それだけが、今の俺の、支えだった。
◇
だが問題は、残っていた。
答えの続きは、姉さんの終縞のなかにある。読めば、わかる。だが読めば、姉さんは消える。そして姉さんはそれを読むなと、言い遺している。
俺は姉さんのノートを閉じて、天井を見上げた。崩れかけた、石の天井。その向こうに、人工の夜が、広がっている。姉さんもこの天井を見上げたことが、あったんだろうか。答えの出ない問いに、行き詰まって。同じようにため息をついたんだろうか。俺は姉さんのたどった道を今、同じ足取りで、なぞっている。そんな気が、した。
二年間、俺は姉さんの星を読みたかった。最期に、会いたくて。許されたくて。だがあれは、俺の身勝手な望みだった。姉さんは俺に前を向いて、生きてほしいと、願っていた。
なのに、今度は、別の理由で、姉さんの星を読みたくなっている。第三の道の、答えを知るために。星を救うために。
――同じ、じゃないか。
俺は苦く、笑った。理由は、立派になった。だが結局、俺は姉さんの星を読みたがっている。あの人の最期を自分の役に立てようとしている。二年前と、なにも、変わっていない。
「……読まない」
俺は口に出して、言った。自分に、言い聞かせるように。
「姉さんの星は、読まない。答えは、別の方法で、探す。……姉さんの、願いに、背かない」
星が俺を見た。その目に、何か、複雑な色が、浮かんでいた。うれしさと、不安が、混じったような。
俺はそのときは、その色の意味に、気づかなかった。
だがあとで、わかった。星は恐れていたのだ。俺がいつか、姉さんの星と自分と、どちらかを選ぶ日が来ることを。そして俺が姉さんを選ぶことを。
この子はいつも自分より、俺のことを先に、考える。だからこんなときでさえ、俺が姉さんに会えないことを少しだけ、悲しんでいた。自分のために、俺が姉さんをあきらめることを。
俺はまだその優しさの、深さをわかっていなかった。
その夜も、俺は姉さんのノートを遅くまで、読んでいた。読めば読むほど、姉さんのたどった道が、見えてくる。世界の終わりに、たった一人で、抗おうとした、その、孤独な道が。姉さんは賢い人だった。俺なんかより、ずっと。だがそれでも答えには、たどり着けなかった。あと一歩の、ところで、あの夜が、来てしまった。灼き落としが。姉さんは答えを自分の終縞に託して、逝った。いつか、誰かが、それを継ぐことを願って。
その、誰かが、俺なんだろうか。姉さんは弟の俺がここに来ることを望んでいたんだろうか。……わからない。だが俺は継ぐと決めた。姉さんの探していた道を。読まずに、生かす道を。たとえ、俺の頭では、追いつけない部分が、多くても。星と二人でなら。きっとたどり着ける。根拠のない、確信だった。だがその確信だけが、俺を前へ、進ませていた。
姉さんが照らしてくれた細い道を、星の手を握って、一歩ずつたどっていく。
奪うんじゃなく、与える。読むんじゃなく、語りかける。何を届ければ天網が鎮まるのか、そこはまだ、闇のままだ。それでも、進む方向だけは見えた。あとは、その闇に、一歩ずつ、光を差していくだけだ。姉さんの背中は、もう、そう遠くない気がした。
奪うんじゃなく、与える。それが、鍵かもしれない。
だが灯は、また、姉の星を読みたくなっている自分に、気づく。理由は立派でも、結局は同じ。読まない、と灯は決める。




