第23話 姉の足跡
塔の奥に、姉の部屋があった。灯は、姉の遺したノートを、手にする。
二年間、空にばかり探していた姉の面影が、地上に、遺されていた。
塔の内部は、迷路のようだった。
崩れた階段。傾いた通路。ところどころ、天井が抜けて、人工の夜の光が、細く差しこんでいる。壁には、古い機械の残骸が、へばりついていた。役目を終えた、天網の末端の器官。今は、ただの、鉄くずだ。
俺は星屑の灯りをかざして、慎重に、奥へ進んだ。星は俺の背に、ぴたりとついてくる。この塔に入ってから、星は口数が少なかった。何かを感じ取っているのだろう。俺はその手を握ったまま離さなかった。
通路の途中には、天網の末端の装置が、いくつも、転がっていた。人の背丈ほどもある、黒い箱。無数の管が、そこから、伸びている。かつては、これが、地上のすべてと、つながっていたのだろう。人の記憶を記録し、星屑に変えて、空へ打ち上げる。そういう、途方もない仕組みの、一部だったのだ。今は、ただの、死んだ鉄くずだがそれでも近づくと、背筋が、ぞっとした。この機械が、あの夜、街を焼いた。何万もの命を光に変えて、空へ、追いやった。そう思うと、憎しみとも、畏れともつかない、重いものが、胸に、のしかかった。
やがて俺たちは、一つの部屋に、たどり着いた。
ほかの部屋とは、違った。荒れてはいるが、人の暮らした跡が、あった。小さな寝台。文机。壁一面に、貼られた、無数の紙。星図と、走り書きと、計算式。生活の匂いがまだかすかに残っている気がした。誰かが、ここで、寝起きし、考えごとをし、夜を明かしていた。その、誰かの名を俺は知っていた。
そして机の上に、一冊のノートが、置かれていた。
俺はそのノートを手に取った。表紙に、名前が、あった。
冬瀬詩織。
姉さんの字だった。
俺の手が、震えた。ここは、姉さんの部屋だ。灼き落としの前、姉さんはこの観測所で、暮らしていた。天網を見張りながら。誰にも言わず、たった一人で、何かを調べながら。
「姉さん……」
声が、勝手に、こぼれた。喉の奥が、締めつけられる。二年ぶりに、姉さんの名をこんなに、近くで、呼んだ気がした。空の星に向かってじゃない。姉さんが確かに、生きて、触れた、このノートに、向かって。目の奥が、熱くなった。だが泣いている場合じゃ、ない。俺はここに、姉さんの遺したものを受け取りに来た。しっかりしろ、と、自分に、言い聞かせた。
俺は知らなかった。姉さんがこんな場所で、こんなことをしていたなんて。俺の知ってる姉さんはただ優しくて少しおっちょこちょいで。まさか、世界の秘密を追っていたなんて。
思えば、姉さんはよく、家を空けていた。仕事だ、とだけ言って。星読みの仕事だと、俺は思いこんでいた。だが本当は、ここに、来ていたのかもしれない。この、街のはずれの観測所で、たった一人、世界の終わりの気配と、向き合っていた。弟の俺には、おくびにも、出さずに。帰ってくると、いつもの、あの、あたたかい笑顔で、飯を作ってくれた。おかえり、と。……あの笑顔の裏で、姉さんはこんな、重いものを一人で、抱えていたのか。
俺は寝台に、目をやった。小さな、粗末な寝台だ。ここで、姉さんは眠っていた。何を思って、眠りについたんだろう。世界を救えるかもしれない。その希望に、胸を躍らせていたんだろうか。それとも、間に合わないかもしれない、という、焦りに、うなされていたんだろうか。今となっては、確かめようもない。ただこの部屋の、一つひとつのものが、姉さんの生きた証だった。俺はそれをそっと指で、なぞった。
◇
俺は机の前に座って、ノートを開いた。
それは、日記のようでもあり、研究の記録のようでもあった。姉さんの几帳面な字が、びっしりと、並んでいる。
最初のほうは、天網の観測記録だった。星屑の増減。天網の活動の波。姉さんはそれを毎日、丹念に、書き留めていた。
だが途中から、記述が、変わっていく。
『天網は待っている。原初の終縞が、読まれる日を。それが、この世界の、幕を引く合図になる』
『天網は世界をやり直したいのではない。終わらせたいのだ。書き損じた紙を破り捨てるように。原初の終縞は、その、最後の一行を消すための、鍵だ』
宵さんの話と、同じだった。だが姉さんの記録は、もっと、踏みこんでいた。
『ならば原初の終縞を読ませなければいい。だがそれだけでは、足りない。天網はいつまでも待ち続ける。誰かが、いつか、読むまで。……ならば天網そのものを鎮めるしかない。眠らせるしかない。読まずに静かに閉じる方法を』
俺は息を詰めて、読んだ。
これだ。これこそ、俺の探してる、第三の道だ。姉さんはそれを探していた。原初の終縞を読まずに、天網を鎮める方法を。星を殺さず、世界も終わらせない、道を。
俺は思わずノートを握りしめた。姉さんは俺と同じことを考えていた。いや、俺より、ずっと先に。二年も、前に。世界を終わらせないために。誰も、犠牲にしないために。たった一人で、この、途方もない問いに、挑んでいた。……もし、姉さんが生きていたら。俺たちは、肩を並べて、この道を探せたのかもしれない。そう思うと、悔しさと、なつかしさが、いっぺんに、こみ上げてきた。姉さんはいない。だがその意志は、このノートに、遺されている。俺が継ぐしかない。
◇
だがノートの記述は、そこから、難しくなった。
星読みの符牒。天網の構造の図。俺には、半分も、理解できない。姉さんは確かに、何かをつかみかけていた。だがそれが、何なのか。俺の頭では、追いつけなかった。
ページをめくっていく。焦る手つきで。答えを求めて。
やがて俺は最後のほうのページで、手を止めた。
そこには、こう、書かれていた。
『鍵は、記憶だ。天網を鎮めるには、天網のいちばん古い記憶に、語りかけるしかない。原初の終縞に。読むのではなく、語りかけるのだ。……だがその方法をわたしは、まだ知らない。もう少し。もう少しで、届きそうなのに』
そしてその下に。走り書きで、こう、添えられていた。
『もし、わたしが、この答えにたどり着けなかったら。……わたしの見たものをわたしの終縞に、託す。いつか、誰かが、それを』
文章は、そこで、途切れていた。
俺はその一文をじっと見つめた。
わたしの終縞に、託す。
姉さんは答えの、続きを。自分の終縞に、遺したというのか。読めば、消えてしまう、あの、最後の一行に。
俺の心臓が、嫌な音を立てた。
姉さんの終縞。二年間、探し続けて、見つからなかった、あの星。それを読めば、姉さんのたどり着きかけた答えが、わかるかもしれない。第三の道の、続きが。
だが姉さんは覚え書きに、はっきり書いていた。わたしの終縞を探さないでほしい、と。読めば、あなたは、悲しむだけだから、と。
答えは、姉さんの星のなかにある。だが、その姉さんが、読むなと言う。遺してくれた手がかりが、そのまま、鍵のかかった扉になっている。……こんな、意地の悪い仕掛けが、あってたまるか。俺は頭を抱えた。
「灯」
星がそっと俺の背中に、手を当てた。
振り返ると、星は青ざめた顔で、部屋の隅を見つめていた。壁一面の、星図を。まるでそこに、何かが、見えているみたいに。
「ここ……てんもうと、つながってる。まだ、いきてる。……よわく、なってるけど。わたしのこと、よんでる。……こっちに、おいで、って」
俺はぞっとした。
この塔はまだ天網とつながっている。そして天網は星を――原初の終縞を呼んでいる。
俺は星の手を強く、握った。
「行くな。呼ばれても、行くな。……お前は、ここにいろ。俺の、そばに」
星は俺を見てこくりとうなずいた。だがその目は、遠くを見ていた。天網の声のほうを。俺はその手を離さなかった。離せば、この子がどこかへ、行ってしまう気がして。
天網はまだ生きている。弱ってはいるが、死んではいない。そして原初の終縞を――星を呼び続けている。こっちへ来い、と。読まれて、世界を終わらせる、その役目を果たせ、と。星はその声に、抗っている。俺のそばに、いるために。だがいつまで、抗えるだろう。この塔にいるかぎり、その声は、絶えず、この子を蝕んでいく。長居は、できない。俺はそう、悟った。
だが姉さんの遺した答えはまだ半分も、つかめていない。答えの続きは、姉さんの終縞のなかにある。読めば、消える、あの星のなかに。読むなと、姉さんは言う。だが読まなければ、答えは、わからない。俺はこの、出口のない、堂々めぐりのなかで、立ちすくんでいた。腕のなかの、消えかけそうな光を抱きしめながら。天網の声が、じわじわと、この子を引っぱっていく。時間はもうあまり、残されていなかった。
それでも、進むしかない。立ち止まれば、この腕のなかの光が、消えてしまう。それだけは、させない。
星は俺の背に、そっと額を寄せていた。その、かすかな重みだけを支えに、俺は拳を握りしめた。
姉は、原初の終縞を読まずに鎮める道を、探していた。だが、答えは未完のまま。
続きは、姉自身の終縞に託されていた。読めば消える、あの星に。難しい話に、なってきた。




