第21話 遺されたノート
第三章「継ぐ星」のはじまりだ。逃げるだけの旅は、終わった。
姉の遺した覚え書きを頼りに、灯と星は、その続きを、探しに出る。
外縁の廃墟で、俺たちは、しばらく息をひそめて暮らした。
誰も来ない。追手の気配も、ここまでは届かない。焼け残った家の一間に布を敷いて、拾ってきた水と、乾いたパンで、その日その日をしのいだ。貧しい暮らしだ。だが二人でいられる。それだけで、じゅうぶんだった。
外縁の朝は、静かだった。人工の空の光も、ここまでは薄い。だからいつまでもうす暗い。俺は毎朝、崩れた家々を回って、使えそうなものを拾い集めた。割れた器。まだ着られる布。運がよければ、干からびた保存食。街の底より、さらに貧しい暮らしだったが、不思議と、みじめじゃなかった。帰れば、星がいる。おかえり、と迎えてくれる。それだけで、拾い物の一つひとつが、宝物みたいに思えた。
夜になると、二人で、その日の拾い物を分け合った。かたいパンを水でふやかして。星はそれをうまそうに食う。二人で食うと、うまい、と言って。俺はその顔を見るのが、好きだった。逃げるだけの日々のなかで、そういう、ささやかな時間だけが、俺を正気に、つなぎとめていた。
俺は床下から見つけた姉さんの覚え書きを毎晩、読み返していた。青白い星屑の灯りを頼りに、色あせた紙を一枚ずつ。
姉さんは原初の終縞のことを調べていた。読んじゃいけない、それは鍵じゃなく錠だと、はっきり書いてあった。だが書いてあることは、それだけじゃなかった。
覚え書きの後ろのほうは、俺には、うまく読めなかった。星読みの符牒と、姉さんだけにわかる走り書きが、入り混じっている。何かの手順のようでもあり、祈りのようでもあった。ところどころ、こんな言葉が、目についた。
――鎮める。返す。読まずに、閉じる。
俺はその三つの言葉を指でなぞった。
読まずに、閉じる。原初の終縞を読まずに、天網を鎮める。もし、そんな方法があるなら。それこそが、俺の探してる、第三の道だ。星を殺さず、世界も終わらせない道。
だが覚え書きは、そこで途切れていた。肝心の手順は、書かれていない。まるで続きをどこか別の場所に、隠したみたいに。
俺は姉さんの字を指でなぞった。丸みを帯びた、優しい字。二年前まで、この字を書く手が、確かに、生きていた。飯を作り、俺の頭をなでた、あの手が。その同じ手が、こんな、世界の秘密みたいなものを書き留めていた。俺の知らないところで。たった一人で。
姉さんはいつも笑っていた。俺の前では。だがこの観測記録を書いていたとき、姉さんはどんな顔をしていたんだろう。世界の終わりの気配をたった一人で、見つめていたとき。怖くは、なかったんだろうか。誰かに、打ち明けたくは、なかったんだろうか。俺には、何も、話してくれなかった。弟の俺には、心配をかけまいと。……そういう人だった。優しすぎて、自分のことはいつもあとまわしにする。星とよく似ている。だから俺はこの二人が、こんなにも、放っておけないのかもしれない。
◇
「灯、また、それ、みてるの」
星が俺の隣に、そっと座った。もう手袋はしていない。むき出しの手が、俺の肩に、ふれる。あたたかい。だがその光は、以前より、少し薄い気がした。
俺はそれが、ずっと気になっていた。
鐘楼や隠れ里で、星は何度も力を使った。そのたびに、光を削った。眠れば戻る、と星は言う。確かに、戻る。だがあのころの、あふれるような輝きは、なかなか、返ってこない。まるで井戸の水が、少しずつ、涸れていくみたいに。
「星。体は、どうだ。しんどく、ないか」
「へいき」と、星は笑った。「ちょっと、ひかりが、うすいだけ。……でも、灯といると、あったかいから。だいじょうぶ」
その笑顔が、かえって、俺の胸を締めつけた。だいじょうぶ。この子はいつもそう言う。自分が、いちばん、しんどいときにこそ。
俺は星の手をそっと握った。薄い光が、指のあいだからこぼれる。以前なら、この手は、もっと、まぶしかった。触れれば、あたたかさが、じんと、伝わってきた。今は、その、あたたかさが少し遠い。まるで遠くの焚き火に、手をかざしているみたいに。
宵さんは、眠れば戻ると言った。だが、この薄れ方は、そんな生易しいものには思えなかった。俺を守るたび、この子は、自分の芯を、ひとかけらずつ、どこかへ差し出している。そんな気がしてならない。強くなったと喜んでいいのか、遠ざかると恐れるべきなのか。俺には、わからなかった。ただ、この手のなかの光を、これ以上、減らしたくない。その一心だけが、はっきりと、あった。
だからこそ、俺は思うのだ。この子にもう力を使わせたくない。守られるんじゃなく、守りたい。そのためには、第三の道を見つけるしかない。星が力を使わずにすむ、平穏な暮らしを。取り戻すしかないんだ。
俺は覚え書きをそっと閉じた。
「星。俺は、この覚え書きの、続きを、探そうと思ってる」
「つづき?」
「ああ。姉さんは、原初の終縞を、読まずに、天網を鎮める方法を、探してた。……お前を、殺さずにすむ方法だ。でも、肝心なところが、ここには、書かれてない。どこか、別の場所に、隠したんだ。たぶん、姉さんが、生前、通ってた場所に」
星はじっと覚え書きを見た。字は、まだ読めない。だがそこに、姉さんの願いが、こもっていることは、感じ取っているようだった。
俺の話を星は真剣に、聞いていた。原初の終縞。天網を鎮める方法。自分が、殺されずにすむ道。どれも、この子にとっては、自分の運命に、じかに、かかわる話だ。だが星は怖がりも、しなかった。ただまっすぐに、俺を見ていた。
「……いこう」と、星は言った。「灯の、おねえさんの、のこしたもの。さがしに、いこう。ふたりで」
俺はうなずいた。
◇
翌朝、俺は覚え書きをもう一度隅々まで調べた。
続きの隠し場所。姉さんはそれをどこかに、書き残しているはずだ。俺なら、たどり着ける。そう信じて、記された符牒を一つずつ、読み解いていく。
覚え書きの紙はもうぼろぼろだった。角は擦り切れ、インクは、ところどころ、かすれている。それでも俺は一文字も、見逃すまいと、目を凝らした。姉さんが何を遺そうとしたのか。その、たった一つの手がかりを探して。
やがて覚え書きの、裏表紙の内側に。俺は小さな走り書きを見つけた。
インクが、薄い。だが確かに、姉さんの字だった。
『すべての始まりを見た場所へ。天網の目のあった場所へ』
俺はその一文を何度も読み返した。
すべての始まりを見た場所。天網の目。……心当たりが、あった。
旧・天網観測所。
灼き落としの前、天網の様子を監視していた施設だ。今は、誰も近づかない。あの夜、天網が暴走したとき、いちばん近くで、それを見ていた場所。焼け落ちて、廃墟になったと聞く。街の、いちばん外れ。まさに、この外縁の、さらに奥だ。
「星。行き先が、わかった」
俺は星にその走り書きを見せた。
「姉さんは、観測所に、続きを遺した。……天網の始まりを、見ていた場所だ。ここから、そう遠くない。歩いていける」
星の目が、光った。不安と、期待が、混じった光だ。
「そこに、いけば。第三の道が、わかるの?」
「わからない」と、俺は正直に言った。「でも、姉さんが、そこに、何かを遺してる。それだけは、確かだ。……行ってみるしか、ない」
俺は窓の外を見た。人工の夜が、白みかけている。外縁の、崩れた街並みの、そのさらに向こう。焦げた雲海のはてに、古い塔の影が、うっすらと見えた。あれが、観測所だろう。
二年間、俺は姉さんの星を夜空に探してきた。だが今、俺が向かうのは、空じゃない。姉さんが生きて、歩いた、地上の場所だ。そこに、姉さんの本当の願いが、遺されている。そんな気が、してならなかった。
俺は星の手を握った。薄い光が、俺の手をあたたかく包む。
二年前、俺は姉さんの死を遠くから、見ていることしか、できなかった。火のなかへ消えていく背中を追えなかった。だが今度は、違う。姉さんが生きて、歩いた場所へ、自分の足で、向かう。姉さんが命をかけて、探していたものをこの手で、受け取る。それは、二年前に果たせなかった、俺なりの、償いだった。
「行こう。姉さんの、遺したものを、受け取りに」
星はこくりと、うなずいた。
――逃げるための旅は、終わった。ここから先は、探すための旅だ。姉さんの願いを継ぐための、旅だった。二年前、火のなかへ消えた姉さんの背中を俺は今度こそ、追いかける。地上の、この足で。
もう、逃げも、迷いもしない。姉さんが生きて歩いた場所へ、この足で向かい、遺したものをこの手で受け取る。
空の星を探すだけの旅は、今日で終わりだ。ここから先は、地を歩く旅になる。俺は星の手を引いて、白みかけた外縁の道へ、歩き出した。
姉は、原初の終縞を読まずに天網を鎮める道を、探していた。灯と、同じ道だ。
その続きは、姉の通った場所に遺されている。次は、天網観測所へ向かう。




