第20話 外縁にて
長い逃避行の、終着点。街の外縁で、二人はあるものを見つける。
それは、二年前に逝った姉が遺した、道しるべだった。
俺たちは、廃墟の街の、さらに奥へと、移り住んだ。
街の外縁。終端の、いちばん端。ここから先は、もう雲海しかない。崩れた欄干の向こうは、底の見えない、白い霧が、渦を巻いている。人工の空の明かりも、ここまでは、ほとんど、届かない。だがそのぶん、誰も、来ない。評議会の兵も、回収屋も。しばらくは、身を隠して、次の一手を考えられる。
崩れた家のひとつを住処に、定めた。屋根の半分は、落ちていたが、奥の一間だけは、無事だった。俺はそこに、拾い集めた布を敷いて、寝床を作った。星は少しずつ、元気を取り戻していた。光も、だいぶ、戻ってきた。あの夜、空へ昇ろうとした星はもういない。今の星は生きることを選んでいた。俺と一緒に。前を向いて。
俺はその横顔を見るたびに、思う。守れて、よかった、と。あの夜、間に合って、よかった、と。宵さんの犠牲を姉さんの願いを無駄にせずに、すんだ。まだこの子は俺の隣で、笑っている。
外縁の暮らしは、静かだった。誰も、来ない。誰にも、追われない。俺たちは、朝、目を覚まし、わずかな食い物を分け合い、崩れた街を二人で、歩いた。星は廃墟のあちこちに、しぶとく咲く草花に、光を注いでは、生き返らせた。そうやって、この、死んだ街に、少しずつ、命の色を増やしていった。俺はそれを見ているのが、好きだった。この子がいるだけで、廃墟さえ、あたたかい場所に、変わる。そんな気が、した。
だが俺は忘れては、いなかった。この平穏が、束の間のものだと、いうことを。久遠はまだ俺たちを探している。評議会もあきらめては、いない。いつか、また追手が、来る。そのときのために、俺は備えなければ、ならなかった。この子を守り抜く、手立てを。逃げるだけでは、ない、道を。
◇
ある日。俺は住処の、床下から、古い箱を見つけた。
寝床を整えようと、腐った床板をはがしたときだった。その下に、埃をかぶった、木の箱が、埋もれていた。この廃墟は、灼き落とし前、誰かの、住まいだったんだろう。焼け残った、わずかな家財が、床下に、眠っていた。その箱のなかに、色あせた、紙の束が、あった。
なんとなく、俺はそれをめくった。そして息が止まった。
その紙に、書かれていたのは、星読みの、記録だった。星屑の、位置を記した、覚え書き。どの空域に、どんな終縞が、あるか。それを丹念に、書き留めたものだった。几帳面な、細かい字で。
そしてその、いちばん最後の頁に。
見覚えのある、字が、あった。丸みを帯びた、優しい字。二年間、忘れたことのない、字だった。
――冬瀬、詩織。
姉さんの名前だった。
俺の手が、震えた。なぜ、こんなところに、姉さんの字が。この廃墟は、姉さんと何か、関係が、あったのか。それとも、宵さんが、この場所を俺たちに、選ばせたのは、偶然じゃ、なかったのか。姉さんの遺したものが、ここに、あることを宵さんは、知っていたのか。
◇
姉さんの覚え書きには、こう、書かれていた。俺は震える声で、それを読み上げた。
『原初の終縞は、読んではならない。あれは、鍵ではなく、錠だ。あれを読めば、天網は再起動するのじゃない。天網はあれを読ませることで、この世界を完全に、終わらせようとしている。……原初の終縞を守ること。それが、この世界を守ること』
俺はその文字を何度も読み返した。心臓が、早鐘を打っていた。
その下に、もう一行。まだ答えの出ていない、問いのように、走り書きが、あった。
『守るだけでは、足りない。天網は、飢え続ける。……いつか、鎮める道を、見つけねば。奪うのではなく、還す道を。だが、それには、きっと。いちばん、手放したくないものを、手放す覚悟が、いる』
俺には、その意味が、まだ、わからなかった。奪うのではなく、還す。手放したくないものを、手放す。……姉さんは、何を、掴みかけていたんだろう。ただ、その一行は、妙に、胸に、残った。
――原初の終縞は、鍵ではなく、錠。
久遠は間違っているのかもしれない。星を読めば、世界がやり直せる、と、あの男は、信じている。だが姉さんの記録が、正しければ。星を読むことは、やり直しでは、ない。完全な、終わりなんだ。取り返しの、つかない。
姉さんは二年前すでにそれに気づいていた。だから調べていた。原初の終縞のことを。世界を守るために。一人で、こつこつと。
「星」と俺はその紙を星に見せた。「これを、見てくれ」
星は覚え書きをじっと見た。字は、まだうまく、読めない。だが姉さんの名前だけは、わかったらしい。俺が何度も口にした名前だから。
「灯の……おねえさん?」
「ああ」と俺はうなずいた。「姉さんは、お前のことを、調べてた。……お前を、読んじゃ、いけない、って。お前は、世界を、終わらせる鍵じゃ、ない。……お前は、世界を、守ってる、錠なんだ」
星は目を見開いた。
◇
「わたしが……せかいを、まもってる……?」
「そうだ」と俺は言った。「お前が、読まれずに、ここに、いる。それだけで、世界は、守られてる。……お前は、いていいんだ。いなきゃ、いけないんだ。この世界の、ために。お前がいるから、世界は、続いてる」
星の目に、涙がにじんだ。だがそれは、悲しみの涙では、なかった。ずっと自分を恐ろしいものだと、思ってきた。世界を終わらせる、災いだと。人を傷つけるだけの、呪いだと。だが違った。この子は世界を守っていたんだ。ただ生きているだけで。息をして、笑っているだけで。
「……わたし、いても、いいんだ」
「ああ」と俺はその頭をなでた。「いていい。ずっと俺の、そばに」
星は俺の胸に、顔をうずめた。小さな肩が、震えている。うれし泣きだった。初めて見る、うれし泣きだった。俺はその背中をそっとさすった。よかった。この子が自分を肯定できる日が、来た。それが、何より、うれしかった。
その夜。俺は姉さんの覚え書きをもう一度読み返した。眠る星のそばで。
最後に、こう、書かれていた。ほかの頁とは少し違う、乱れた字で。急いで、書いたような。
『わたしに、もしものことが、あれば。この記録を見つけた誰かへ。原初の終縞を守ってほしい。……そして。わたしの終縞を探さないでほしい。読めば、あなたは、悲しむだけだから。わたしは、あなたが、前を向いて、生きることを願っている』
俺はその一文で、息を止めた。
あなた。それは、俺のことだろうか。姉さんは俺がこの記録を見つけることを予感していたんだろうか。読めば、悲しむだけ。だから探すな。前を向いて、生きろ、と。
◇
二年間、俺は姉さんの星を探し続けてきた。読めば、姉さんに会える。許されるかもしれない。そう思って。夜ごと、空を見上げて。だが姉さんはそれを望んでいなかった。俺に前を向いて、生きてほしいと、願っていた。俺があの人の死をいつまでも引きずることをいちばん、恐れていた。
俺の頬を涙が伝った。だが不思議と、悲しくは、なかった。むしろあたたかかった。二年ぶりに、姉さんの声を聞いた気が、した。すぐ、そばで、話しかけられた気が、した。もういいんだよ、と。前を向きなさい、と。
俺は決めた。
姉さんの終縞は、もう探さない。姉さんの願いを継ぐ。前を向いて、生きる。……この子と一緒に。それが、あの人への、いちばんの、手向けだ。
だが原初の終縞を守るためには、まだ知らなければならないことが、多すぎた。天網とは、何なのか。久遠の本当の狙いは。そして姉さんが遺した、この記録の、続きは、どこにあるのか。この覚え書きだけでは、足りない。姉さんがどこまで、真相に、迫っていたのか。それをたどらなければ。
逃避行は、終わった。俺たちは、追手の手を逃れて、この、忘れられた街の端に、たどり着いた。だが戦いは、これからだった。俺は星を守り、世界を守る道を探し始める。姉さんが遺してくれた、その、小さな灯りを頼りに。
俺は姉さんの覚え書きを大切に、たたんで、懐に、しまった。これは、姉さんが遺してくれた、道しるべだ。この、たった数枚の紙が、俺たちを第三の道へと、導いてくれるかもしれない。星を読まず、世界も終わらせず、誰も犠牲にしない、あの道へ。まだその入り口さえ、見えていない。だがたしかに、一歩、近づいた。そんな気が、した。
窓の外の、人工の夜が静かに俺たちを見下ろしていた。あの空のどこかで、姉さんと宵さんが、俺たちを見守っている。そんな気が、した。俺は眠る星のあたたかい手をそっと握った。この光を守り抜く。姉さんの願いも、宵さんの願いも、全部、背負って。俺は静かにそう、誓った。長い逃避行の、果てに。ようやく、俺はただ逃げるのではなく、進むべき方向を見つけたのだった。第二の章は、ここで、終わる。だが俺と星の本当の戦いは。姉さんの遺した謎をたどる旅は。ここから、始まるんだ。
俺は、姉さんのノートを、もう一度、握りしめた。この数枚が、ここから始まる旅の、たった一つの道しるべだ。
――姉さん、見ててくれ。
姉さんの遺した一行が、闇のなかで道を照らす、灯のように思えた。その先に、まだ見ぬ第三の道の入り口が、待っている気がする。
第二章「逃げる星」、これで完結だ。ここまで、ありがとうな。
姉の遺した記録が、二人を第三の道へ導く。原初の終縞は、鍵じゃなく錠だった――。
第三章では、姉の終縞をめぐる新しい物語が始まる。また会おう。




