第2話 名前をあげる
墜ちてきた少女を、灯は放っておけなかった。
名前のない子に、名前をやる話だ。
結局、俺はその子を仕事場に運び込んだ。
ほかにどうしようもなかった、というのが正直なところだ。街のはずれには医者もいない。評議会に届ければ、こんな怪しい子どもはどう扱われるかわからない。触れると光がこぼれる人間なんて、あいつらの手にかかれば、どうせ「調べもの」の材料にされる。切って、砕いて、中身を検分する。それだけは、なんとなく嫌だった。理屈じゃない。ただ嫌だった。
少女は俺の背中で、ずっと眠っていた。軽い。人ひとりぶんの重さがない。抱えているのに、腕のなかに雲を抱えているみたいだった。息をするたびに、背中で髪がさらさらと鳴って、そのたびに小さな光が一つ、二つ、こぼれて消えた。
寝台に寝かせると、彼女は小さく寝息を立てた。生きてはいる。とりあえず、それだけは確かめられた。
俺は椅子に座って、その寝顔をながめた。
起きているときは気づかなかったが、こうして見ると、ずいぶん幼い顔をしている。それなのに、どこか遠いところを旅してきたような疲れがにじんでいた。矛盾している。子どものような顔で、何百年も生きたような目をしていた。眠っていても、眉のあいだに、かすかな皺が寄っている。何かに、ずっと耐えているみたいに。
「……お前、何者だよ」
返事はない。あたりまえだ。
窓の外の夜空を見た。彼女が墜ちてきたあたりは、まだ夜が濃いままだった。星が一つ抜けた穴。あの穴が、俺の胸をざわつかせる。ふつうの星の穴なら、とっくにまわりの光が埋めている。なのに、あそこだけは、いつまでも暗い。
星読みの勘、というやつかもしれない。
この子はあの空と、つながっている。
◇
少女が目を覚ましたのは、それから半日後のことだった。
俺が湯を沸かしていると、背中で衣擦れの音がした。振り返ると、彼女は寝台の上で身を起こして、部屋のなかをきょろきょろと見回していた。まるで生まれて初めて世界を見る赤ん坊みたいに。天井の染みも、床にころがった工具も、一つひとつに目をとめては、じっと見つめる。
目が合った。
彼女は俺を見て、少し首をかしげた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「ここは……どこ」
「終端。街のはずれの、俺の仕事場だ」
「しゅうたん」
彼女は俺の言葉をなぞった。舌の上で転がすみたいに。まるでその言葉を初めて覚えたみたいに。もう一度小さく、しゅうたん、と繰り返す。
「あなたは、だれ」
「冬瀬灯。星読みだ」
「ふゆせ、とも」
また、なぞる。ふゆせ、とも。ほしよみ。一つずつ、大事にしまいこむみたいに。
俺はそこで、ようやく気づいた。この子は言葉をほとんど知らない。知っている言葉を思い出しているんじゃない。今、ここで、一つずつ覚えている。そう考えると、さっきから俺の言葉を繰り返しているのも、腑に落ちた。
「なあ」と俺は聞いた。「お前、名前は」
少女は、きょとんとした。
「なまえ……って、なに」
その返しに、俺は言葉を失った。
名前を知らない。自分の名前どころか、名前という言葉そのものを知らない。俺は湯呑みを手にしたまましばらく突っ立っていた。湯が沸いて、やかんがかたかたと鳴っているのにも、気づかなかった。
「名前ってのは……お前を呼ぶための、言葉だ。俺が『灯』って呼ばれてるみたいに、お前にも、お前だけの呼び方がある。はずなんだけど」
「わたしの……呼びかた」
少女は自分の胸に手を当てた。その拍子に、指先からまた光の粒がこぼれた。彼女はそれを見て、不思議そうに目を丸くした。自分の体から光がこぼれることさえ、知らなかったらしい。こぼれた粒を手のひらで受けようとして、受けきれずに、くすぐったそうに笑う。
「……ない」と彼女は小さく言った。「わたしには、ない。おぼえて、いない」
その声が、あんまり心細そうだったから、俺は思わず口を開いていた。
「じゃあ、俺がつける」
言ってから、しまったと思った。星読みが、拾った子に名前をつける。そんなのは、家族になるみたいなことだ。俺には、そんな資格はない。姉さん一人、救えなかった俺には。誰かの名前を決めるなんて、そんな大それたこと。
でも少女はぱっと顔を上げた。夜色の瞳が、期待に光っている。さっきまでの心細さが、嘘みたいに消えていた。
「……つけて」
まっすぐな目で、そう言われちまった。
もう引っ込みがつかない。
俺は窓の外を見た。夜空。星屑。彼女が墜ちてきた、あの空。
答えは、そこにあった。ほかに、思いつきようがなかった。
「星」と俺は言った。「お前の名前は、星だ」
少女は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「ほし……」
「空でまたたいてる、あれのことだ。お前は、あそこから墜ちてきたからな。ほかに、いい名前が思いつかない。悪いな、雑で」
我ながらひどいつけ方だと思った。もっと考えてやればよかった。姉さんなら、きっともっと素敵な名前を選んだ。花の名前とか、季節の名前とか。姉さんはそういうことを考えるのが得意だった。
だけど、少女は――星は笑った。
初めて見る笑顔だった。花がほどけるみたいにふわりと。そのとたん、彼女の体からこぼれる光が、さっきより少し明るくなった気がした。喜ぶと、光が強くなる。そういう体なのかもしれない。
「わたし、星」
自分に言い聞かせるように彼女はそう言った。もう一度胸に手を当てて。わたし、星。
「うれしい。名前、うれしい」
たった二文字の名前で、こんなに喜ぶやつを俺は初めて見た。喜びを隠すということを知らない。全部、顔に出る。全部、光に出る。
なんだか、こっちまで落ち着かなくなって、俺は湯呑みを彼女に押しつけた。
「ほら、飲め。腹、減ってるだろ」
「これは」
「白湯だ。……なんもなくて悪い。パンなら、そこにある」
星は湯呑みを両手で受け取った。その手が湯呑みに触れたところから、また光がこぼれる。だが湯呑みは崩れなかった。人には触れられないのに、物には触れられるらしい。この体は、いったいどういう仕組みなんだ。星読みの知識をいくら探っても、答えは出てこない。
星は白湯を一口飲んで、目を見開いた。
「……あったかい」
その一言に、なぜか胸が締めつけられた。あたたかい。そんなことすら、この子は初めて知ったみたいに言う。白湯のあたたかさも、名前をもらう喜びも、何もかもが、この子にとっては生まれて初めてなんだ。この世に、こんなにも何も知らない人間が、いるだろうか。生まれたばかりの赤ん坊でさえ、母の腕のぬくもりくらいは、知っている。だがこの子はそれすら知らない。ずっとどこか冷たい場所に、たった一人でいたみたいに。
俺は視線をそらして、窓の外を見た。まっすぐ見ていると、なんだか、こっちの調子が狂う。
◇
その夜、俺は眠れなかった。
寝台を星に譲って、自分は床に毛布を敷いた。星はすぐに寝息を立てた。よほど疲れていたんだろう。白湯を飲んで、パンを半分かじって、それだけで安心したみたいにころりと眠った。
俺は天井を見上げながらずっと考えていた。
あの子は何者なのか。なぜ空から墜ちてきたのか。なぜ触れると光がこぼれるのか。なぜ言葉を知らないのか。考えれば考えるほど、答えから遠ざかっていく気がした。
わからないことだらけだ。
俺は寝ている星の顔をもう一度見た。眉のあいだの皺は、もう消えていた。安心した顔で、眠っている。俺の部屋で、俺の寝台で、こんなに無防備に。まるでずっと前から、ここにいたみたいに。
この子は俺を疑うということを知らない。拾われたその日に、名前をつけられて、それだけで、心を許しちまう。危ういと思う。だがそれを危ういと思う自分のほうが、よほど汚れているのかもしれない。人を疑うことに、慣れすぎた。星読みなんて、そういう仕事だ。
――もし、この子が本当にただの人間だったなら。
俺はそんな都合のいいことを少しだけ、願った。願ったところで、何も変わらないと知りながら。
ただ一つだけ確かなことがある。
星が墜ちてきたあの穴は、まだ空にあいたままだ。星が一つ、抜け落ちた場所。夜が、どうしても埋められない場所。
もし、あの子自身が――空から抜け落ちた、星屑だとしたら。
背筋が寒くなった。
まさか。そんなことが、あるはずがない。星屑は死んだ人間の心だ。人の形をとって、歩いたり笑ったりするはずがない。
俺は寝返りを打って、その考えを追い払おうとした。だが追い払えば追い払うほど、それは頭の奥にこびりついた。
隣で、星が寝言をつぶやいた。
「……さがして、いた」
墜ちてきた夜と、同じ言葉だった。
誰を探していたんだ。ずっと探していたのか。この、星でできたような子は。
俺はその寝顔をながめながら朝までまんじりともしなかった。窓の外の夜が、白んでいくのをただ見ていた。
「星」って名前が決まった。雑なつけ方だが、灯なりの精いっぱいってやつだ。
次あたりから、世界の物騒なところが顔を出してくる。星屑を狙う連中の話だ。




