第18話 遺された願い
宵に逃がされ、二人は廃墟の街にたどり着く。
遺された願いの重さに、灯と星は向き合う。
抜け道は、暗く、長かった。
俺は消えかけた星を抱えたままその闇を走った。壁に、肩をぶつけ、石につまずきながら。背後の物音が、だんだん、遠ざかっていく。剣の音。人の叫び。そしてときおり、光が、瞬く気配。宵が時間を稼いでくれている。そう思うと、足を止められなかった。止めては、いけなかった。
どれくらい、走っただろう。抜け道の、出口が、見えてきた。かすかな、外の光。俺はそこへ、転がり出た。膝を地面に、つく。息が、胸を焼いた。
街の、外れの区画だった。宵が地図で、示した場所。灼き落としで焼けて、打ち捨てられた、廃墟の街。人の気配は、まるでない。ただ崩れた建物と、焦げた柱と、静寂だけが、広がっていた。人工の空の明かりも、ここまでは、薄い。灰色の、死んだ街だった。
俺は崩れた壁の陰に、身を隠した。星をそっと地面に、下ろす。追手の気配は、もうなかった。ここまでは、来ていない。とりあえず、逃げ切った。だが安堵する余裕は、なかった。
「星。しっかりしろ。星!」
俺はその顔をのぞきこんだ。星は目を閉じていた。光は、ほとんど、消えている。体の輪郭さえ、ぼやけて、見えた。だが胸はかすかに上下していた。息は、ある。生きている。かろうじて。
俺は震える手で、星の頬に、触れた。冷たい。あんなに、あたたかかった頬が、今は、氷みたいに冷たい。触れると、ほんのわずかに光の粒が、こぼれた。まだ光は、尽きていない。俺はその、わずかな光に、すがる思いだった。
「……頼む。目を、覚ませ。星。……頼むから」
どれくらい、そうしていただろう。やがて星の睫毛が、震えた。ゆっくりと目が、開く。夜色の瞳が、俺を映す。
「灯……?」
「星っ」
俺は思わずその体を抱きしめた。よかった。生きてる。まだ生きてる。腕のなかの、その、かすかなぬくもりを確かめて。俺はようやく、息をついた。
◇
「宵さん、は……?」
星のその問いに、俺は答えられなかった。
宵は残った。俺たちを逃がすために。あの、老いた体で、大勢の兵に、立ち向かった。星読みの道具を握って。……無事で、いられるはずが、なかった。俺には、それが、わかっていた。わかっていて、俺は逃げた。あの人を置いて。
俺は唇を噛んだ。また、だ。また、俺のために、誰かが、身を投げ出した。姉さんも。宵さんも。俺はいつも守られて、ばかりだ。差し出される、命の上を走って、逃げるばかりだ。
俺は腕のなかの星を見下ろした。まだ意識は、朦朧としている。だが俺の顔を見つけると、その目がかすかにほころんだ。それだけで、俺は救われた気がした。この子が生きている。それだけで、逃げてきた甲斐が、あった。宵さんの、犠牲が、報われた。少なくとも、無駄には、ならなかった。
だが心の底で、俺は宵さんのことを思うと、胸が、張り裂けそうだった。あの人は、俺に何も、見返りを求めなかった。ただ詩織の弟だからと。それだけで、命を投げ出した。俺はあの人に、何一つ、返せていない。礼の言葉すら、まともに、言えなかった。走り去る、その背中に、ありがとうの一言も。喉まで、出かかった言葉は、涙に、つぶれて、声に、ならなかった。
その夜。俺たちは、廃墟の一角で、身を寄せ合って、過ごした。崩れた壁が、風をわずかに防いでくれた。
星の光は、少しずつ、戻ってきた。眠れば戻る。宵の言葉はやはり本当だった。だがあんなに、無茶な使い方をしたんだ。全部、戻るには、何日も、かかりそうだった。それでも命は、つないだ。それだけで、じゅうぶんだった。
「灯」と星が小さな声で、言った。「宵さん、たすからないの……?」
俺は答えに、迷った。だが嘘は、つけなかった。
「……わからない。でも、あの兵の数だ。無事じゃ、すまない」
星の目から、涙がこぼれた。光の粒に、なって。頬を静かに流れていく。
「わたしの……せいだ。わたしが、いるから。宵さんも、灯のおねえさんも……みんな、わたしのために……」
「違う」
俺は星の言葉を遮った。強く。
◇
「違う、星。宵さんは、お前のために、残ったんじゃ、ない。……いや、それも、あるけど。それだけじゃ、ない」
俺は宵が最後に、言った言葉を思い出していた。抜け道へ、走る、その、寸前。号令のように俺の背中に、叩きつけられた、あの言葉を。
――詩織の弟を生かして。あの子の、ぶんまで。
「宵さんは」と俺は声を震わせながら言った。「姉さんのことを、覚えててくれた。姉さんの、生き方を。……だから、姉さんの弟の、俺を、生かそうと、してくれた。姉さんが、他人を救った、みたいに。宵さんも、俺たちを、救ってくれたんだ。同じ、生き方で」
俺の目からも、涙がこぼれた。こらえきれなかった。
「宵さんは、姉さんの、生き方を、継いだんだ。……俺たちを、逃がすことで。目の前の、救える命を、救った。それが、あの人の、選んだ道だった」
星はしばらく泣いていた。声を殺して。肩を震わせて。俺も泣いた。二人で、廃墟のなかで、ただ泣いた。宵さんのために。姉さんのために。俺たちを生かすために、消えていった、二人の女のために。
やがて涙が涸れたころ。星がぽつりと、言った。
「灯。わたし、きめた」
「なにを」
「もう、にげるの、やめる」
俺ははっとして、星を見た。その顔に、またあの、静かな覚悟が、浮かんでいた。
◇
「わたしが、いるから、みんな、しんじゃう。宵さんも、灯のおねえさんも。これから、灯も……。わたしが、いなければ、みんな、たすかるのに」
星の目は、静かだった。だがその静けさが、俺には、いちばん、恐ろしかった。泣き叫ぶより、ずっと。
「だから、わたし……よまれても、いい。灯を、これいじょう、あぶないめに、あわせたくない。もう、だれにも、しんでほしくない。わたしの、せいで」
その言葉に、俺のなかで、何かが、崩れた。堰が、決壊するように。
「――ふざけるな」
俺は思わず星の肩をつかんだ。強く。痛いほど。
「そんなこと、言うな。二度と、言うな。……宵さんが、姉さんが、なんのために、身を投げ出したと、思ってるんだ。お前を、守るためだろう。お前が、生きるためだろう。……なのに、お前が、消えたら。あの人たちの、犠牲が、全部、無駄に、なるじゃないか! 姉さんの、宵さんの、命が! 全部、意味を、失うんだぞ!」
星は俺を見つめていた。涙で、濡れた目で。俺の剣幕に、驚いたように。
「……でも」
「でもじゃ、ない」
俺は星を抱き寄せた。もう離さないように。この腕のなかから、二度と、消えないように。
「一緒に、生きるんだ。逃げるだけじゃ、ない。……戦うでも、ない。何か、別の道が、あるはずだ。お前が、読まれずに、それでもみんなが、助かる道が。……俺が、探す。絶対に、探し出す。だから、消えるなんて、言うな。頼むから」
星は俺の胸のなかで、震えていた。それから、小さく、うなずいた。俺の服を握りしめて。
「……うん。……ごめん、灯」
俺はその背中をそっとさすった。骨の浮いた、細い背中を。
別の道。第三の道。そんなものが、本当に、あるのか。俺にも、わからなかった。星を読まず、世界も終わらせず、誰も犠牲にしない道。あまりに、都合が、よすぎる。ありえない、のかもしれない。だが探すしか、ない。それしか、この子を生かす道は、ないのだから。
廃墟の空を見上げた。人工の夜が、ここにも、広がっていた。無数の星屑。そのどこかに、姉さんが。そしてたった今、宵さんも、あの空に、昇ったのかもしれない。一行の、光になって。
その夜は、なかなか、明けなかった。星は俺の腕のなかで、浅い眠りを繰り返していた。時々、うなされて、宵さん、と、寝言をこぼした。俺はそのたびに、その背をさすってやった。大丈夫だ、と。俺がここにいる、と。
だが大丈夫なんかじゃ、ないことを。俺は知っていた。行くあては、ない。頼れる者も、もういない。宵さんも、逝った。残されたのは、俺と星、二人だけ。この、広い街の、片隅で。追われながら身を寄せ合って、震えている。それでも。俺はこの子を離さない。何が、あっても。二人ぶんの願いと、一つの、消えかけた光を抱いて。俺はその空に、誓った。あんたたちの犠牲を無駄には、しない、と。この子を生かす。必ず。二人ぶんの、願いを背負って。そしていつか。この子と二人で、笑って、暮らせる日を。取り戻してみせる。追われることも、怯えることも、ない、そんな日を。
その誓いだけを、俺は胸の底に、固くしまいこんだ。折れそうな夜を越えるための、たった一つの支えとして。……まだ、負けたわけじゃない。俺は、奥歯を噛んだ。
また、自分を差し出そうとする星。灯は、それを必死に押しとどめる。
逃げるだけでも、戦うでもない。第三の道を探す。その決意が芽生える。




