第16話 静かな敵
平穏を破って、あの男が静かにやってくる。
灯の元師匠、久遠。世界をやり直すことを、本気で信じてる男だ。厄介なやつが出てきた。
その男は、やはり静かにやってきた。
平穏な日々が半月ほど続いたころだった。俺が水を汲みに地下を出ようとしたとき。入り口の穴の外に、灰色の外套の男が立っていた。黒い傘を手にして。雨も降っていないのに。
久遠だった。
俺はとっさに身構えた。全身がこわばる。だが久遠は動かなかった。攻める素振りも見せない。ただ静かに俺を見ている。あの、底の見えない目で。
「……よく、ここが、わかったな」
「探すのが、仕事でね」と久遠は穏やかに、言った。「この街の底に、詩織の、古い知り合いが、いることは、知っていた。宵という、涸れた星読みがね。あの子が、匿われるとすれば、ここだろうと、当たりを、つけた。……久しぶりだね、宵は、元気かい」
俺は答えなかった。この男は何もかも知っている。宵のことも。姉さんと宵の縁も。俺がたどり着く先まで読んでいた。手のひらの上で転がされている。そんな感覚がした。
「安心しなさい」と久遠は言った。「今日は、力ずくで、連れていく、つもりはない。兵も、連れてきていない。ただ、話を、しに来ただけだ。……入っても、いいかな」
断れる空気じゃなかった。俺はしぶしぶ道を空けた。だがいつでも星をかばえるように。体は、こわばったままだ。
◇
地下の部屋で、久遠と宵は向かい合った。
宵は久遠を見て、苦々しい顔をした。眉をひそめて。
「……久遠。あんた、まだあんなことを、考えてるのかい」
「あんなこと、とは」
「世界を、やり直す。原初の終縞を、読んでね。……昔から、あんたは、そればっかりだ。若い頃から、ちっとも、変わっちゃいない」
久遠は静かに微笑んだ。だがその目は、笑っていなかった。氷のように冷たい光をたたえていた。
「宵。君は、この世界が、このまま、続くと、思うのか」と久遠は言った。「星は、減り続けている。読めるものは、どんどん、少なく、なる。あと、何十年か、すれば。この街は、命をつなぐ星屑を、失う。そのとき、我々は、緩やかに、死んでいくんだ。飢えと、病で。少しずつ。誰にも、看取られずに、一人ずつ」
久遠の声は、静かだったが、そこには、鋼のような、確信が、あった。長年、温めてきた、揺るぎない、信念だった。
「私は、それを、待つ、つもりはない。原初の終縞を、読み、天網を、再起動する。焼ける前の、豊かな世界を、取り戻す。星屑に、頼らずとも、人が、人らしく、生きられた、あの世界を。……そのために、この命を、使う。惜しくは、ない」
「そのために」と宵が遮った。声を荒らげて。「今、生きてる、みんなを、消すってのかい。この、街の底で、必死に生きてる、あの人たちを。名も知らぬまま、明日を、生きようとしてる、あの人たちを。……それが、あんたの言う、救いかい。それは、救いじゃ、ない。皆殺しだよ」
久遠は答えなかった。ただ静かに目を伏せた。反論も、しない。ただ自分の信じる道を疑わない。その、沈黙。
その沈黙が、俺にはいちばん恐ろしかった。この男は迷っていない。今の世界を犠牲にすることに、罪の意識すら感じちゃいない。もっと大きな救いのため。そう本気で信じてやがる。悪人ならまだいい。憎めばすむ。だがこの男は、善意で動いている。それが、いちばん、たちが悪いんだ。
俺は久遠の若い頃を少しだけ知っている。俺に星読みを教えてくれた、あの頃の久遠は優しい人だった。読むたびに、他人の死に心を痛めていた。星読みは尊い仕事だが悲しい仕事でもある、と。そう言って、俺の頭をなでてくれた人だ。あの久遠はどこへ行っちまったんだろう。いつから、こんなにも冷たい確信に、取りつかれたのか。姉さんが死んでからか。それとも、もっと前からか。わからない。ただ目の前のこの男は、俺の知っていた師匠とは、別人だった。同じ顔で、同じ声で、まるで違うことを語っている。それが、悲しかった。憎しみより、悲しみのほうが、先に立った。
◇
「灯」と久遠は俺に向き直った。「評議会は、正式に、決定した。原初の終縞を、確保し、読む。……街の、存続のために。もう、これは、私一人の、考えじゃ、ない。街の、総意だ」
俺の心臓が、どくりと跳ねた。街の総意。つまりこの街のやつら全員が、星を差し出せと言ってる。俺と星のたった二人を除いて。たまらねえ話だ。世界を守ってるのは、この子なのに。当の世界のほうが、この子を殺せと言ってくる。笑えねえ皮肉だった。
「その子を、渡しなさい。抵抗すれば、君も、ただでは、すまない。……だが、素直に、渡せば、悪いようには、しない。君には、詩織の、弟として、相応の暮らしを、保証しよう。もう、逃げ隠れする必要も、ない。星読みとして、上層で、暮らせる」
「……断る」
俺は即座に、言った。考えるまでもなかった。一瞬の、迷いも、なかった。
「久遠さん。あんたの言うことは、筋が、通ってる。星が、減れば、街は、いつか、死ぬ。それも、わかる。……でも、だからって。目の前の、生きてる、この子を、殺していい、理由には、ならない」
俺は星を背中に、かばった。
「星は、道具じゃ、ない。世界を、やり直すための、鍵でも、種でもない。……この子は、笑って、泣いて、飯を食う。花を見て、きれいだと、言う。あたたかい湯を、あたたかいと、喜ぶ。……生きてる、一人の、女の子だ。それを、殺すなんて。俺は、絶対に、認めない」
俺は一歩、前に出た。星を背にかばったまま。
「あんたは、正しい。正しすぎるんだ、久遠さん。……だから、俺は、間違うほうを、選ぶ。あんたの正しさで、みんなを救うくらいなら。俺は、間違ったまま、この子と、生きる」
久遠はしばらく俺を見ていた。その目に、あの、悲しみのような色が、また浮かんだ。
「……相変わらず、だな。灯」と久遠は静かに言った。「その、優しさが。その、まっすぐさが。……詩織を、殺したというのに」
俺の息が、止まった。
「なんだと」
「詩織も、そうだった」と久遠は続けた。「目の前の、一人を、救うために、自分の命を、投げ出した。大きな絵を、見なかった。燃える建物に、飛びこんで。名も知らぬ子を、助けて。……その結果、どうなった。あの子は、死んだ。君を、残して。優しさは、時に、いちばん、大切なものを、奪うのだよ」
俺はぐっと拳を固めた。怒りで、体が、震えた。爪が、手のひらに、食いこむ。
「姉さんを……侮辱するな」
「侮辱では、ない」と久遠は首を振った。「私は、詩織を、惜しんでいるのだ。あの子のような、人間が、報われる世界を、作りたい。優しさが、優しさのまま、生きられる世界を。だから、やり直す。……君も、いつか、わかる、ときが、来る。優しさだけでは、誰も、救えないと」
◇
久遠は立ち上がった。傘を手に、取る。
「今日は、これで、帰ろう。だが、灯。よく、考えなさい。……次に、来るときは。話し合いでは、すまない、かもしれない」
その言葉を残して、久遠は静かに地下を去っていった。来たときと、同じように。足音も、立てずに。
部屋に、重い、沈黙が、残った。
俺は震える手を握りしめた。姉さんを引き合いに出された。あの人の生き方を否定された。優しさが姉さんを殺した、だと。それが、たまらなく悔しかった。だが心の、いちばん暗いところで。俺は久遠の言葉に揺れていた。もし姉さんがあの子を見捨てていたら。姉さんは今も生きていたんだろうか。そんな考えがよぎる。よぎって、俺は頭を振った。だめだ。そんな考えに、のまれてたまるか。
それに久遠は本気だ。次は力ずくで来る。兵を連れて。この、つかのまの平穏は――もう終わりに近づいていた。
宵が俺の隣で、低く、つぶやいた。
「……あの男は、変わっちまった。昔は、あんなふうじゃ、なかったんだよ。星を読むたびに、涙を、こぼすような、優しい男だった。……何が、あいつを、あそこまで、追い詰めたんだろうねえ」
その声には、旧い知り合いを悼むような響きがあった。俺は何も言えなかった。ただ久遠が去った暗い戸口を見つめていた。あの人も、かつては姉さんと同じ側にいたのかもしれない。優しさで動く側に。それがいつのまにか優しさを捨てる側に回っちまった。人は変わる。悲しいほど、変わる。俺は変わりたくない、と思った。姉さんの優しさを継いだまま。この子を守り抜きたい。たとえそれが、久遠の言うようにいちばん大切なものを奪う道だとしても。
星が俺の背中で、服の裾をきゅっと握った。その手が、震えていた。俺はその手を後ろ手に握り返した。大丈夫だ。まだ大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながら。だがその言葉がどれほど頼りないものか。俺自身が、いちばんよく知っていた。それでも言い続けるしかない。大丈夫だ、と。この子を安心させるため。そして自分を奮い立たせるためにも。
久遠は、悪人じゃない。善意で、今の世界を犠牲にしようとしてる。それが、いちばん恐ろしい。
憎めたら、どんなに楽か。次の話で、つかのまの平穏も、いよいよ終わる。




