第13話 宵という女
追手の手が、街の底にも伸びてくる。
追い詰められた二人を救ったのは、一人の老いた星読みだった。
避難区での暮らしは、長くは、続かなかった。
三日目の朝。俺は路地の向こうに、見慣れない男たちの姿を見た。評議会の外套では、ない。だが目つきが、堅気じゃ、なかった。物陰から物陰へ、視線を配りながら誰かを探している。おそらく、俺たちを。
鴉羽の手の者か、評議会の密偵か。どちらにせよ、この街の底にも、追手の手が、伸びてきている。金になる獲物の匂いを嗅ぎつけて。
「星。行くぞ」
俺はまだ眠そうな星を揺り起こして、わずかな荷物をまとめた。荷物といっても、水の入った革袋と、乾いたパンだけだ。俺たちは、また逃げなければ、ならなかった。落ち着く間もない。それが、逃げる者の、暮らしだった。
狭い路地を追手から逃れて、走る。だが避難区は、迷路のようだった。つぎはぎの建物が、無秩序に、道をふさぐ。逃げても、逃げても、行き止まりに、ぶつかる。じわじわと、追い詰められていく。背後の足音が、だんだん、近づいてくる。
「……くそっ」
俺は星の手を強く、握った。息が、上がっている。星の光も、また薄れかけていた。走り続けて、疲れているんだ。もう逃げ場が、ない。星の力を使わせるしか、ないのか。だがそれは、この子を削ることだ。あの、抜け殻の男たちが、また増えるだけだ。
そのときだった。
路地の壁の、崩れた一角。そこに、ぽっかりと、暗い穴が、開いていた。人ひとりが、やっと通れるほどの、隙間。ふだんなら、気づきもしない、崩れ跡だ。
「こっちだよ」
その穴の奥から、しわがれた声が、した。老いた、女の声だった。
俺は迷った。罠かもしれない。だが迷っている暇は、なかった。背後の足音は、もうすぐそこまで、来ている。俺は星の手を引いて、その穴に、飛びこんだ。賭けだった。だが賭けるしか、なかった。
◇
穴の奥は、思いのほか、広かった。
崩れた建物の、地下だった。石造りの、古い部屋。かつては、倉か、何かだったんだろう。壁には、灯りが、いくつも、ともっている。だがその灯りは、火じゃ、なかった。星屑の、結晶だ。読み終えた終縞の、抜け殻。それが、部屋を青白く、照らしていた。星読みの、住処だ。俺には、すぐに、わかった。
部屋の奥に、一人の女が、座っていた。
年老いた女だった。白髪を無造作に、束ねている。顔には、深い皺が、刻まれていた。だがその目だけは、若い者のように鋭く、光っていた。俺を頭のてっぺんから、爪先まで、値踏みするように見ている。
「追われてるね、坊や」
女は、言った。俺の返事を待たずに。すべてを見透かしたような、口ぶりだった。
「その子を、連れて。……評議会かい。それとも、回収屋かい」
「……あんた、誰だ」
「宵」と女は、言った。「ただの、引退した星読みさ。この、街の底で静かに余生を、送ってる。……もう、長いこと、地上の日の光も、見ちゃいないよ」
星読み。その言葉に、俺は身構えた。星読みなら、この子の正体に、気づくかもしれない。そうすれば、金に目がくらんで、俺たちを売るかもしれない。この街の底では、誰も、信用できない。
宵は俺の警戒を見透かしたように静かに笑った。皺が、深くなる。
「安心しな。あたしは、もう星なんか、読まないよ。読む力もとうに涸れちまった。この目じゃ、もう星屑の一つも、読めやしない。……それに、あんたたちを、売る気も、ない。追われてる子どもを、追手に、突き出すほど。あたしは、落ちぶれちゃ、いないさ」
俺は少し警戒を解いた。この女の言葉には、妙な、信用できる、響きがあった。長く、生きてきた者の、肚の据わった、静けさだった。嘘をつく者の目はどこか泳ぐ。だが宵の目は、まっすぐだった。俺の目を逃げずに、見つめている。
考えてみれば、選択の、余地は、なかった。外には、追手が、いる。ここを出れば、すぐに、捕まる。この、得体の知れない、老いた星読みに、賭けるしか、なかった。だがその賭けは、悪くない、気がした。星読みの勘、というやつが、この女は、信じていい、と告げていた。二年前、姉さんを失ってから。俺の勘は、あまり、外れなくなった。悪いことばかり、当ててきた、その勘が。今度は、めずらしく、いいほうを指していた。
星も宵をこわがっては、いないようだった。頭巾の奥からじっと宵の顔を見ている。子どもは、敵か、味方か、大人より、鋭く、見抜くという。その星が逃げようとしない。それも、俺には、一つの、答えだった。
◇
宵は俺たちに、湯を出してくれた。湯気の立つ、薬草の湯だった。星はそれを一口飲んで、ほっと、息をついた。頬に少し赤みが戻る。
「その子」と宵が星を見て、言った。「ずいぶん、めずらしい体を、してるね。光が、こぼれてる。……あたしみたいな、涸れた目にも、それだけは、見えるよ」
俺はとっさに星をかばった。体を少し前に出して。
「……この子は」
「言わなくて、いいよ」と宵は手を振った。「詮索は、しない。この街の底じゃ、みんな、何かを、抱えて、逃げてる。人に、言えない事情の、一つや二つ。あんたたちも、そうなんだろう。……ただ、一つだけ、聞かせておくれ。坊や、あんた、名前は」
「……冬瀬、灯」
その名を聞いたとたん。
宵の顔から、笑みが、消えた。
皺だらけの手が、湯呑みをことりと、置く。じっと俺の顔を見つめる。何かを確かめるように。まるでその顔の奥に、別の誰かを探すように。
「……冬瀬」と宵はつぶやいた。「冬瀬、灯。……あんた、まさか。詩織の、弟かい」
俺の心臓が、止まりそうに、なった。
「姉さんを……知ってるのか」
宵はしばらく答えなかった。ただ深い、深いため息をついた。そのため息には、二年ぶんの、いや、もっと長い、何かが、こもっているようだった。
「知ってるも、なにも」と宵は静かに言った。声が少し湿っていた。「あの子は……詩織は、あたしの、教え子みたいな、もんさ。灼き落としの前、よく、ここへ、遊びに来てた。星読みの話を、しにね。若いくせに、変わった子でね。星の読み方より、星の、遺し方を、知りたがってた。……いい子だったよ。まっすぐで、優しくて。ばかがつくほど、優しくてね」
俺は言葉を失った。
こんな、街の底の、地下の部屋で。姉さんを知る人間に、出会うなんて。二年、探し続けても、姉さんの面影の一つも、見つからなかったのに。こんなところに、姉さんを覚えている人が、いたなんて。
◇
「……あの子は」と宵は俺の目を見た。「灼き落としの夜に、逝ったんだね」
俺はうつむいて、うなずいた。声が、出なかった。喉の奥が、締めつけられて。
「そうかい」と宵は目を閉じた。「……そうかい。あの、優しい子が」
しばらく二人とも、黙っていた。青白い星屑の灯りだけが静かに部屋を照らしていた。
やがて宵はしわがれた手をそっと俺の肩に、置いた。あたたかい手だった。骨ばって、皺だらけの、けれど、やさしい手。姉さんの手を思い出させる、あたたかさだった。
「……よく、生きてたね。坊や」
その一言に、俺の目から、涙がこぼれた。
よく、生きてたね。誰も、俺にそう言ってくれなかった。前を向け、とは、言われた。お前のせいじゃない、とも。だがよく生きてた、とは。二年間、俺は生きていることさえ、後ろめたかった。姉さんを見捨てて、生き延びた。そのことをずっと責めてきた。その俺にこの人は、生きていて、よかったと、言ってくれた。
逃避行のあいだずっと張りつめていたものが、その一言で、ゆるんだ。堰を切ったように涙があふれた。
隣で、星が俺の背中をそっとさすっていた。小さな手で。薄い光が、俺の涙を静かに照らしていた。
姉さんが遺してくれた縁が、こんなところで、俺を支えてくれている。そんな気が、した。俺はしばらくその、あたたかい手のぬくもりに、身を任せていた。
二年間、俺はたった一人だった。姉さんを失って、師匠とも、縁を切って。誰にも、心を開かずに、生きてきた。星読みの仕事だけを機械のようにこなして。だがこの、街の底で。俺は二人の、大切な存在を得た。腕のなかの、星と。目の前の、宵と。孤独だった俺の周りにいつのまにか小さな、あたたかい輪が、できていた。逃げるなかで、失うばかりだと、思っていた。だがそうじゃ、なかった。逃げる道の途中でも人は、出会い、つながる。俺はそれをこの地下で、知った。姉さんが遺してくれた、この縁を。俺は大切に、したいと、思った。
もう、一人には戻れない。戻りたくも、なかった。この街の底で得たものを、命に代えても守る。そう、静かに誓った。……宵の淹れてくれた白湯の匂いが、まだ、鼻の奥に残っていた。
宵って女は、姉・詩織を知ってた。
二年探しても見つからなかった姉の面影が、思わぬところに残ってた。次で、世界の真相の一端が明かされる。




