第11話 捨てる街
鐘楼で、灯は星を選んだ。第二章「逃げる星」のはじまりだ。
帰る場所をなくした二人の、長い逃避行が幕を開ける。
仕事場には、帰れなかった。
鐘楼を出て、俺たちは、いつもの仕事場のほうへ、足を向けた。夜明けまでには、まだ間がある。あの、ボロ家の寝台で、星を休ませてやりたかった。あんなに、力を使ったんだ。ゆっくり眠らせてやりたかった。
だが路地の角まで来て、俺は足を止めた。
仕事場の前に、人影があった。二つ、三つ。松明の明かりが、闇のなかで、揺れている。その手が照らす外套には、評議会の印が、染め抜かれていた。夜だというのにじっと動かない。俺の帰りを待っているんだ。
鴉羽の一件で、あの場所は、もう知られちまった。回収屋に、嗅ぎつけられ、そして評議会にも。星をあそこで匿っていたことが、露見したんだ。久遠が手を回したのかもしれない。あの人なら、俺の住処くらい、とっくに、把握していただろう。
俺はとっさに星の手を引いて、路地の陰に、身を隠した。冷たい壁に、背をつける。息を殺した。心臓が、痛いほど、鳴っている。
「灯……?」
「しっ」
俺は口の前に、指を立てた。星もそれだけで、察したらしい。頭巾の奥で、こくりと、うなずく。夜色の瞳が、暗がりのなかで、不安そうに、揺れていた。
もうあの部屋には、戻れない。姉さんの形見の外套も、二年ぶんの、ささやかな暮らしも、全部、あそこに、置いたままだ。皿も、寝台も、繕いかけの服も。だが惜しんでいる暇は、なかった。あの明かりに見つかれば、星は連れていかれる。読まれて、消される。
あの家には、二年ぶんの、暮らしが、あった。姉さんの形見。星と過ごした、短い日々。それを全部、捨てなければ、ならない。惜しくない、と言えば、嘘に、なる。だが今、大事なのは、物じゃ、ない。この、握った手の、あたたかさだ。それだけを守れれば、ほかは、どうでもよかった。
「星。よく聞け」と俺は声を限界まで落として、言った。「あの家には、もう帰れない。今夜から、俺たちは、逃げる。……どこか、あいつらの手が、届かない場所へ」
星はじっと俺を見た。不安そうな目だった。行くあてもない。頼れる者もいない。ただ逃げろと言われて。それでもその目には、迷いが、なかった。
「灯と、いっしょなら、へいき」
星はそう言って、俺の手を握り返した。小さな手だ。だがその一言が、迷いかけていた俺の背中をまっすぐに、押した。
――そうだ。行くしかない。この子を守ると、決めたんだ。
◇
街の底へ向かって、俺たちは、暗い坂を下りていった。
終端は、すり鉢の形をした街だ。中心の底にいくほど、古く、貧しく、日の当たらない区画になる。上層には、評議会の白い塔があり、金のある星読みたちが、暮らしている。だが底へ下りるほど、街は、荒れていく。明かりは、まばらになり、道は、細く、入り組んでいく。
逃げるなら、下へ。評議会の目が、届きにくいほうへ。俺はそう決めていた。
夜の街を人目を避けて、進む。表通りは、通れない。細い路地を猫みたいに縫っていく。曲がり角のたびに、立ち止まり、耳を澄ます。追手の足音が、聞こえないか。誰かが、こちらを見ていないか。
星は俺の手をずっと握っていた。慣れない道を裸足のまま必死についてくる。文句ひとつ、言わない。転びそうになっても、声も、上げない。ただ俺を信じて、ついてくる。その健気さが、かえって、俺の胸を締めつけた。
どれくらい、歩いただろう。人けのない、崩れかけた広場まで来て、俺はようやく、足を止めた。ここまで来れば、追手も、そう簡単には、たどり着けない。少し休んでもいいだろう。
「少し、休むか」
俺は崩れた石段に、腰を下ろした。星も隣に、座る。膝が、笑っていた。息も、切れている。逃げるというのは、こんなにも、体力を削るものなのか。
◇
息を整えながら。ふと隣を見て、俺は気づいた。
星の体の光が、いつもより、薄い。
ふだんなら、指先から、絶えず、こぼれている、あの光の粒。それが、ほとんど、出ていない。体の輪郭もどこかぼんやりして、見えた。まるで灯りの油が、切れかけているみたいに。夜の暗がりのなかで、その薄さが、やけに、目立った。
「星、お前……」
俺は思わずその顔をのぞきこんだ。星の頬は、青白かった。血の気がない、というのとは、違う。光そのものが、弱っている。生命の、灯りが、細くなっている。そんな感じだった。
「へいき」と星は言った。だが声に、力がない。「ちょっと……つかれた、だけ」
疲れた。その言葉で、俺は思い当たった。
鐘楼で、星は力を使った。鴉羽たちの記憶を消した。あの、まばゆい光をあふれさせた。それも、二度。仕事場の襲撃のときと、鐘楼のとき。立て続けに。
――力を使うと、この子は消耗するのか。
背筋が、冷たくなった。あの力は、ただの武器じゃない。使えば使うほど、星自身の光が、削られていく。まるで自分の命を燃やして、光を放っているみたいに。
「星。力を使うと、しんどく、なるのか」
星はこくりと、うなずいた。俺に隠しごとは、できないらしい。
「ひかりが……へる。つかうと、へる。……でも、だいじょうぶ。ねむれば、すこし、もどる」
「戻らなかったら、どうなる」
俺の問いに、星は答えなかった。ただ少し目を伏せた。その沈黙が、答えだった。
戻らなければ、消える。この子はそう言おうとして、言わなかった。俺を心配させまいとして。優しさで、口をつぐんだんだ。
◇
俺は着ていた上着を脱いで、星の肩に、かけた。少しでもあたたかいほうが、いい。根拠なんて、なかった。だがそうせずには、いられなかった。
「無理に、力を、使うな」と俺は言った。「守るのは、俺の仕事だ。お前は、光を、減らすな」
「でも……灯が、あぶない、ときは」
「そのときは、俺が、なんとかする」
言いながら俺は自分の無力を噛みしめていた。星読みの腕は、あっても、腕っぷしなんて、たいして、ない。鴉羽の手下に、あっさり、組み伏せられたばかりだ。守る、と口では、言う。だがいざとなれば、頼れるのは、星の力しか、ない。その力が、星を削っていく。守るための力が、守りたい相手を殺していく。皮肉な話だった。
星は俺の肩に、こてん、と頭を預けた。上着のなかで、小さく、丸くなる。
「灯」
「なんだ」
「わたし、いえ、なくしちゃった。灯の、しごとも」
その声が、あんまり、申し訳なさそうだったから、俺は少し笑った。
「気にするな。あんな、ボロ家。惜しくも、ない。……それより、腹が、減ったな」
「うん。……へった」
星がくすりと、笑った。薄い光が、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。この子は笑うと、光が、強くなる。だから俺はなるべく、笑わせてやりたいと、思う。こんな、逃げ隠れの暮らしのなかでも。
俺は夜空を見上げた。人工の夜。無数の星屑。そのなかに、姉さんの星がある。二年間、俺はあの空を見上げて、探し続けてきた。
だが今夜からは、違う。空を見上げている場合じゃ、ない。俺は地に足をつけて、この子と逃げなければならない。姉さんの星は探せなく、なるかもしれない。二年間の、あの執着を手放すことに、なるかもしれない。それでもいい、と思った。今は、この、腕のなかの光のほうがずっと大事だった。
ふと俺は二年前の、あの夜を思い出した。街が焼けて、姉さんと逃げた夜。あのときも、俺はこうして、暗い道を走っていた。だがあのときは、逃げ切れなかった。姉さんの手を離しちまった。今夜は、違う。俺は星の手を握りしめている。決して、離さない。あの夜の、繰り返しには、しない。
星の寝息が、肩越しに、聞こえてきた。眠っちまったらしい。よほど、疲れていたんだろう。俺はその体を崩れないようにそっと抱え直した。この子の命は、俺の腕のなかに、ある。その重みが、恐ろしくもあり、いとおしくもあった。守れるだろうか。こんな、無力な俺に。だが守るしかない。ほかに、この子を守れる者は、いないのだから。
俺は隣の、小さな重みを確かめた。あたたかい。まだあたたかい。この光を消させはしない。何が、あっても。
――逃げよう。どこまでも。この子の光が、消えない場所まで。
崩れた広場に、二人ぶんの影が、寄り添って、落ちていた。長い、長い逃避行の、最初の夜だった。空の星がそんな俺たちを静かに見下ろしていた。冷たい光で。だがその冷たささえ、隣のぬくもりが、あれば、こわくは、なかった。俺は星を抱えたまま夜明けを待った。
何もかもを捨てて、この子と生きると決めた夜。のちに俺は、この始まりの夜を、何度も思い返すことになる。隣で立てる小さな寝息だけが、いまの俺の、たった一つの道しるべだった。
星の力には、思わぬ代償があった。使えば、光が減る。命が削れる。
守るための力が、守りたい相手を脅かす。次は、街の底へ潜る。




