第2話 異世界転移
私の名前は瑠璃。中学三年生。
事の始まりは、四月の中頃の土曜日だった。
私はそのとき、その日の夕飯の買い物をしていた。放課後、地元の商店街で、閉店前の見切り品なんかを買っていくのが私の買い物のパターン。うちは母子家庭で、私は料理と洗濯を引き受けていた。お母さんには私しかいないんだから、頑張らないといけないと思って。
それで、私は部活にも入らず、友達づきあいもしなかった。
お母さんは保険会社で働いていて、夜も結構遅く帰ってきていた。土日だって働いていて、親子で話をする時間もほとんどなかった。今日も、仕事だからと出かけていた。私はいつものように商店街に買い物に出かけ、交差点で信号が変わるのを待っているときに、見たんだ。
交差点の向こうの通りを、お母さんが男の人と腕を組んで歩いていた。二人は親しそうだった。
それを見て、私は悟った。
ああ、お母さん、私に嘘をついていたんだ、って。いつも言っていた、仕事で遅くなるよ、というのは嘘だったんだって。今日も朝出るときに、仕事が忙しいから土曜日も出勤なのよと言っていたのに、今、男の人と歩いてる。
今まで遅くに帰ってきていたときも、男の人と会っていたのかも。よく同じ団地の人たちに、お母さんは恋人とかいるんじゃないかって言われてた。私は否定してたけど、でも、本当にそうだったんだ。
私が凍ったように固まっていると、お母さんがこちらに気づいた。お母さんの表情が固まるのが見えた。
私は走ってその場から逃げた。走って走って、商店街から外れて、いつの間にか海沿いまで来ていた。
港の手前の交差点で立ち止まり、信号の歩行者ボタンの傍にしゃがみこんだ。何で私、逃げたんだろう。このまま家に帰っていいんだろうか。どんな顔をしてお母さんと会えばいいんだろうか。
そんなことを考えていたとき、辺りの空気が震えた。
顔を上げると、トラックが私に向かって突っ込んできていた。
そして私は衝撃を感じ、意識をなくした。
次に気がついたとき、私はなま暖かい暗闇の中にいた。目をちらりと開けると、少し向こうに仄かに光が射していた。いつでもそちらに行けるけど、まだここでまどろんでいたいと思って、私はまったりとした眠りに浸かっていた。
と、知った曲が私の耳に届いた。赤トンボの歌。私が鹿鳴の町に来てすぐの頃、おばあちゃんの家に住んでいたのだけど、そこでおばあちゃんがよく歌っていたのをきいた。大抵お夕飯の準備をしているときで、私はおいしそうな匂いが漂ってくるのを待ちながら、おばあちゃんの歌をきいていたものだった。
今、きこえてきた歌声は若い男の人のものだった。暖かみのある声。私は突然目が覚める感じがした。仄かに見えていた光が急に私の目の前まで近づいてきて、その明るさを増したように見えた。
と、光の中から手がぬっと出てくると、私の体を闇の中から引っ張りだした。
そして私は光の中に現れた。光に満ちた中、私を引っ張り出した人がいた。信じられないくらいかっこいい男の人だった。高校生くらいかな?学校で一番かっこいい男子よりも何倍も素敵な男の人。うちにはテレビがないからよくわからないけど、芸能人ってこういう感じなのかもしれないと思って、私はぼうっと見とれていた。
それが、氷上健吾さんだった。健吾さんが本物の芸能人だったのは、そのときの私は全く知らなかったのだけど。
健吾さんの周りには、羽根が生えた小さな子どもたちが飛んでいた。いわゆる、妖精が。
健吾さんは、首を傾げながら私を見て言った。
「ウサギ?」
ウサギ?
私は健吾さんを見つめ返した。妖精たちが「あなた、ウサギになってるのよ」と囁いて教えてくれたので、健吾さんが言うことの意味がわかった。今の私、ウサギになってるんだ。だから体も小さくなって、こんな風に健吾さんに両手で高く掲げられてるんだって。
普通なら受け入れられることじゃないけど、このときはすんなりと納得した。
「なるほど、こういう形に擬態したんだね」
傍にいた小柄な男の人が言った。この人はルエットさんといって、翼の城で隠居生活を送っている人だった。見た目は二十歳くらいなんだけど、実際は数百年生きているんだって後できいた。
健吾さんはルエットさんに訊ねた。
「擬態?」
「そう。この子は本当は人間だけど、今はこの形になっているんだよ。まあ、よその世界に魂の状態で流されていきなり元の世界と同じ人間の形をとることは滅多にないから」
「僕は人間のままだけど」
「キミは流されてきたわけじゃないし、そもそも肉体ごと来ているからね」
健吾さんは私を地面に置いた。そして次に、私が出てきた野バラの茂みのちょっと高いところを見た。
「また歌を歌えばいいのかな?」
健吾さんは妖精たちを見て言った。妖精たちは戸惑ったように顔を見合わせながら、
「そうだけど、でも」
「歌ってほしい歌があるみたい」
「歌ってほしい歌?」
健吾さんに訊ねられて、妖精たちは歌い出した。一つの歌を皆で声を合わせて。それは、シンプルなメロディだけど、ちょっとドラマティックな感じで、素敵な曲だなあと思って私はぼんやりときいていた。
健吾さんは戸惑った様子だった。妖精たちに、この曲じゃないといけないのかと訊いている。知っている曲だけど、それを歌うのはちょっと、というような感じだ。
妖精たちはざわざわと羽をせわしなく動かした。
「だめだよー、この穴の中の子は健吾にこの曲を歌ってほしいんだって」
「ちゃんと歌詞つきがいいんだってー」
健吾さんは仕方なくといった感じで歌い始めた。素敵な歌だった。後で知ったのだけど、その歌は健吾さんが前に演じた特撮のキャラクターのテーマソングだったんだって。
健吾さんが歌う傍でルエットさんが穴に手を突っ込み、中から何かを引っ張り出した。
それは、黒白のハチワレ猫だった。




