四十本目
「……あ」
雫は、開いた口が塞がらなかった。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたゴミの山ではなく、丁寧に掃き清められたフローリング。そして、窓際で腕まくりをしたまま、少し疲れているけれど、どこかやり遂げたような清々しい顔で自分を見下ろしている薫の姿だった。
「薫……。なんで、どうして……」
状況を理解するにつれ、雫の顔は一気に沸騰した。酔い潰れて寝過ごした失態。そして何より、誰にも見せたくなかった、自分の心の壊れ際を形にしたような、あの無残なゴミ屋敷を見られてしまった。
「あ、あああああ! 見ないで! 出てって!!」
雫は叫びながら、布団を頭から被って丸まった。恥ずかしさと情けなさで、心臓が破裂しそうだった。あの日、彼が命懸けで守ってくれた「雫」の成れの果てがこれだなんて、死んでも知られたくなかった。
「……無理だよ。もう全部見たし、全部片付けた」
薫の静かな声が降ってくる。
「……っ、バカ! なんで勝手に……! 嫌いになったでしょ? こんな私、気持ち悪いでしょ……?」
雫の声は、最後の方は震える泣き声になっていた。すると、ベッドの縁が沈む感触がした。薫が隣に座ったのだ。
「逆だよ」
薫の手が、布団越しに雫の頭にぽんと置かれた。
「お前がこんなになるまで溜め込んでたこと、気づけなくて悪かった。……雫、顔出せよ。話があるんだ」
雫は恐る恐る、眉間のあたりまで布団を下げた。そこには、蔑むような色など微塵もない、真っ直ぐな薫の瞳があった。
「本当は遊園地で言うつもりだった。でも、この部屋を見て思ったんだ。……お前がいろんなことを『後回し』にして、一人で抱え込んで壊れそうになってたみたいに、俺も自分の気持ちをずっと『後回し』にしてたんだなって」
薫は自嘲気味に、けれど愛おしそうに部屋を見渡した。
「汚いものを隠して、なかったことにして、明日でいいやって先延ばしにするのは、もうやめた。お前の部屋を片付けるのに、明日なんて待てなかった。それと同じで、俺がお前を好きだって伝えるのも、もう一秒も後回しにしたくない」
薫はまともに彼女ができたこともない。正攻法も知らない。けれど、心の底から溢れた言葉を、喉の奥に押し戻すことはもうしなかった。
「俺と付き合ってくれなんて、今の俺にはおこがましくて言えない。ただ、雫のことを一生かけて守らせてください」
部屋を埋めていたゴミをすべて捨て去った後の、真っ白な空間。
嘘も言い訳も、隠し事さえも入る余地のない、静まり返った夜の部屋。
「失ってから悲しいって思うのが、本当に好きな人なんだって気づいたんだ。だから、もうお前を一人でこんな場所に置いときたくない」
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「……ちょっと、なによそれ!」
雫は真っ赤な顔をしたまま、布団から飛び出して薫の胸元をポカポカと叩き始めた。
「なによ『一生かけて』って! 急にカッコつけたこと言って、バカじゃないの!? 部屋が汚いとか、こんな場所とか……余計なお世話よ! 自分だって1人飲みとかして毎日酔っ払ってるくせに、偉そうに……っ!」
怒鳴り散らしてはいるけれど、その拳には力なんて入っていなかった。叩くたびに、雫の大きな瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出していく。
「バカ、薫のバカ……! なんで……なんでそんな……」
最初は照れ隠しの怒りだったはずなのに、気づけば彼女は声を上げて号泣していた。薫のシャツをギュッと掴んだまま、顔を埋めて、まだ何かを文句を言っている。けれど、その震える肩からは、ずっと一人で背負ってきた重荷が解けていくような、安堵の響きが伝わってきた。
窓の外ではいつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から差し込む月光が、何もなくなったフローリングを青白く照らしていた。街の喧騒は遠く、遮光カーテンの隙間から入り込む夜風が、少しだけ熱を帯びた二人の空気を静かに撫でていく。
薫は黙って、"壊れ物"を扱うような手つきで、震え続ける彼女の背中にそっと手を回した。




