三十六本目
13時。遠くで響く子供たちの声と冬の柔らかな日差しに、一度だけ意識が浮上した。けれど、身体は鉛のように重く、脳はまだ休息を求めている。俺は考えることを放棄し、再び深い眠りの底へと沈んでいった。
夢を見ていた。
それは、セピア色の記憶の断片。小学6年生の、まだ幼い俺たちの姿だ。
当時の雫は、いつも同じ服を着てそろばん塾に来ていた。子供という生き物は時に、驚くほど純粋に残酷だ。「その服一着しかないのかよ」「貧乏一家」「親が無職」。心ない言葉の礫が雫に浴びせられる。彼女は感情を殺した顔で、ただ無視を決め込んでいた。
雫の母親がいなくなってから、彼女の家にはまともな生活の気配がなかった。成長して着れる服がなくなっても、無関心な父親には言い出せなかったのだろう。彼女は母親が置いていった、今の自分には少し不釣り合いな一着を、守るように着続けていた。
俺は、からかう連中を軽蔑していたが、正義の味方になれるほど器用でもなかった。だから、自分なりのやり方を選ぶことにした。
ある日、俺は雫を公園に呼び出した。足元には、家から持ち出した大量の白いTシャツと、絵の具のセット。
バケツに水を張り、そこに絵の具のチューブを絞り出す。塗料のようなものを混ぜて、真っ新な白い服を次々と浸していった。呆然と立ち尽くす雫を無視して、俺は染まった服をハンガーにかけ、公園の小さな木に干していく。
青、赤、黄色。冬の風に揺れる色とりどりの服を見て、雫はようやく俺の意図を理解した。
「……『無色』だからさ。どんな色にだってなれるんだよ、俺たちは」
俺の精一杯の言葉に、雫は顔を真っ赤にして叫んだ。
「うちのお父さんは無職じゃない!」
的外れな反論に、俺は少し面食らった。けれど、雫の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
「薫くん……ありがとう。私、絶対に薫くんと将来結婚する!」
唐突な宣言に、今度は俺が恥ずかしくなって顔を逸らした。
「……うるさい。帰るぞ、雫!」
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……目が覚めると、17時だった。
夕暮れのオレンジ色が、ベンチの脚を長く伸ばしている。
「俺は、何をやってるんだ……」
独り言が冷たい空気に溶ける。夢かと思ったが、それは紛れもない過去の事実だ。そして、数時間前の出来事も、記憶の隅々まではっきりとしている。
酔い潰れて、俺の膝を枕にして、幸せそうに寝息を立てていた雫。
目が覚めた瞬間、ゆで蛸みたいに顔を赤くして、「絶対嫌われた」と絶望的な顔をしながら逃げ帰っていった、あの後ろ姿。
かつての記憶と、今の彼女の姿が重なり合う。
不器用で、意地っ張りで、それなのに誰よりも脆くて愛おしい、一人の女の子。
俺はもう、雫のことを「ただの幼馴染」という枠に閉じ込めておくことはできなくなっていた。
自分の心の中に灯った、言葉にするのも躊躇われるような熱い感情。
膝に残った微かな温もりと、鼻先を掠める彼女の匂いが、逃げようのない現実として俺の胸を締め付けた。
「……参ったな」
俺は立ち上がり、彼女が逃げていった方向をじっと見つめた。
もはや「ミュート」できないほど、俺の中で彼女の存在が、あまりに大きな音を立てて鳴り響いていた。




