第5話 風の道
引っ越しの前夜、湊は一人で工房にいた。
屏風は作業台の上にある。完成した右隻の松と、空白のままの左側。
湊はしばらくその前に立っていたが、やがて椅子に座り、修復用の小さな絵皿を取り出した。
古い絵具の整理をしていたとき、見つけたものだった。
他の絵具とは違う皿に入っていて、蓋にひらがなで「うめ」とだけ書いてあった。
誰が書いたのかはわからない。父の字ではないし、祖父の字でもない。
蓋を開けると、においがした。
梅だ。
細かい粒子の、白い顔料。貝殻から作られる胡粉に、何かが混じっている。
湊は顕微鏡で確認した。花粉だ。梅の花粉が、顔料に練り込まれている。
いつ作られた絵具か、湊には見当もつかなかった。
しかし古いものであることは確かで、そしてこの屏風のそばに置かれるべきものであることは、においが告げていた。
湊は細筆を取った。
描こうとしているのか、と自分に問いかけた。
答えは出なかった。ただ、筆の先に絵具が乗ったとき、手が自然に動いた。
枝から始めた。曲がりくねった、老いた梅の枝。
赤外線で確認した痕跡に沿って、しかしそれをなぞるのではなく、今ここにある梅の枝として描いた。
蕾を付けた。まだ開きかけた、冬の終わりの蕾。
花びらを一枚、また一枚。
何時間かかったかはわからなかった。気づけば工房の外が白んでいた。夜が明けている。
筆を置いて、屏風を見た。
右の松が立っている。左に梅が咲き始めている。
二枚の画面の間で、何かが繋がっていた。風の通り道のような空間が、そこに生まれていた。金地の輝きが、右から左へ、松から梅へ、均等に広がっている。
千年前に描き始められて、途中で飛んでいった梅が、戻ってきたのかどうか、湊にはわからなかった。
ただ、屏風が完成した、と感じた。
一花が工房に挨拶に来たのは、引っ越し当日の朝だった。
タクシーがすでに外で待っていると言っていた。
完成した屏風を見たとき、一花は長い間、何も言わなかった。
やがて「綺麗です」と言った。声が微かに震えていた。
「右の松も、左の梅も、どちらも動けない」と湊は言った。
「でも風は動ける。二つの間を」
「風の道、ですね」と一花は言った。
「来年の春」と湊は言った。
「一番早く梅が咲く場所で、待っていてください」
一花は湊を見た。湊は目を逸らさなかった。
「それは」と一花が言った。「あなたが来るということですか」
「僕が探しに行きます」
一花は少し笑い、それから頷いた。
「……西の、梅が降りてきた場所」
「そこで」
タクシーのクラクションが、外で短く鳴った。
一花は屏風に一礼した。千年間守られてきた松と、戻ってきた梅に。それから湊に向き直り、もう一度だけ頷いて、工房を出た。
足音が遠ざかっていく。今度は途中で止まらなかった。
春になった。
梅の開花を告げるニュースが流れた日、湊は工房を閉じた。
旅支度は軽かった。カメラと、小さなメモ帳と、あの梅の絵具の入った小皿。それだけを鞄に入れた。
出発の朝、工房の屏風に灯りを当てた。松は今日も風の中に立っていた。梅は今日も、咲き始めたままでいた。
二枚の間の風の道に、光が流れていた。
湊は工房の鍵を閉め、西へ向かった。
どこへ行けばいいかは、わかっていた。梅の香りが、千年前から、ずっとそこへ向かって吹いていたから。
どうでしたか?
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それでは。




