【第6章 この世をば 我が世とぞ思ふ】全年齢版⑥
※ムーンライトノベルズにてR-18完全版を公開しております。
【第6章 最終話】
車が走り出してから、しばらくどちらも口を開かなかった。後部座席では、蓮が浅い呼吸を繰り返している。
「……吉岡酒店のことやけどな。もう手ぇ回してある」
沈黙を破ったのは、鷹宮だった。柊は、はっとして顔を上げる。
「穴田ママにお願いしてな。二人とも無事で、少し怪我しとる。しばらく表に出せん事情がある。そこまでや」
それ以上は言わなかった。だが、柊には十分だった。
「……ありがとうございます」
「礼、言われることやない」
鷹宮は前を向いたまま、続ける。
「吉岡さんにはな、うちで何日か面倒みる、ってだけ伝えとるみたいや」
「……信じとったで」
その一言が、胸に落ちた。吉岡酒店に着いたのは、夜もだいぶ更けた頃だった。表の灯りは落ちている。だが、裏口に回ると、小さな明かりが残っていた。
扉が開く。
「……おかえり」
吉岡さんが、そこに立っていた。視線はまず、蓮に向けられる。意識のない顔を見て、眉がわずかに動いた。
「生きてるな」
それだけ言って、深くは聞かない。一瞬、柊に視線を向けてから、首を振る。
「帰ってきた。それで十分。無理はするな。もっと大人を頼れ」
その声は、穏やかだった。蓮を運び入れながら、柊はふと気づく。また、守られている。何も知らなくても。何も聞かなくても。それでも、この場所は、自分たちを受け入れてくれている。目頭に熱いものが込み上げる。一人きりだったら、ここまで戻ってこられなかったかもしれない。
入り口を開け、中に入る。二人の生活の痕跡。日々の生を繋いだ証。
「蓮の声が聞きたい」
自分でも意識することなく、呟いていた。
蓮をベッドに寝かせる。いつもなら、たまらなく愛しい時間のはずだった。だが今は、目を覚まさない蓮。脳裏から離れない、酒呑童子の圧倒的な強さ。不安が、どうしようもなく心を掻き乱す。
そっと蓮の頬に触れた。生きていることを確かめるように。そして、迷いなく身を屈める。
触れるだけの、静かなキス。願いを込めるように。呪力の補充。緊急事態。だが、本人に意識はない。繋がるのが最高率……なにか方法は……。
その時、予備に残された呪符が、淡く光を放っていることに気がつく。玉藻前は、呪力を香りに乗せて幻術を使っていた。その応用ができれば。自分に残された僅かな呪力で何ができるか。とにかく試してみるしかない。
蓮の額に、呪符を当てる。呪符に手をかざし、繋がるイメージ……。
「……戻ってこい、蓮」
囁いた、その直後だった。呪符から、呪力の波紋が広がる。直感だった。瞳を閉じ、呪符越しに額を重ねる。
足元が消え、暗闇に放り出される感覚。何もないはずなのに、確かにどこかに立っている。胸の奥に残った、微かな熱が、かすかに、前へと引いていた。呪力の残滓。向かうべき場所は……わかる。
暗く長い道のりをひたすらに歩いた。会いたい。声が聞きたい。また、二人で笑いたい。
「柊……?」
愛しい声が響く。
「……っ、蓮!!」
声の方向に走り出す。その最奥には、一糸纏わぬ姿で膝を抱えて座り込む、蓮。膝に顔をつけて俯いている。
「蓮。やっと見つけた。こっち見て」
「ごめん。見られない。俺は……酒呑童子に穢されちゃったから」
酒呑童子に、呪力を奪われる蓮の姿が脳裏に浮かぶ。
「穢れてなんかない。あれは蓮の意志じゃない。おれが全部上書きするから。蓮の心は、今も、綺麗なままだよ」
蓮の冷たく冷えた手を取る。
「一緒に帰ろう。おれたちの家に。おれたちの居場所に」
「今は……何も着てない。恥ずかしい……から見ないで……」
手を握ったまま、背を向ける。ゆっくりと立ち上がる感覚。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
遠くに、淡い呪力の光があった。
「柊……本当に、俺でいいのか? 柊以外と……キスしたんだよ」
弱々しい声に、唇を噛み締めた。
「関係ないよ。おれには蓮しかいない。蓮にも、おれしかいないと思ってる」
握り返された手に力が込められる。
「おれじゃ……役不足かな……また、蓮を守れなかった」
「それはっ……違う……柊は、いつも守ってくれてる。俺の隣にいて、それだけで、いつも救われてる」
蓮が、続ける。
「これからも、側にいてくれる?」
「バカ。当たり前だろ。絶対に離さない」
光の源に辿り着いた。
「蓮、準備はいい?」
「帰ろう。一緒に」
光が大きく広がる。眩い光に目を瞑る。
感覚が戻り、ゆっくりと瞳を開くと。見慣れた自分たちの部屋。そして、眠ったままの蓮。だが、不思議と不安は感じない。
「……ん……」
かすかな声。指先が、微かに動く。
「……柊……?」
聞き間違いじゃない。柊の心臓が、大きく跳ねた。
「蓮……!」
呼びかけると、ゆっくりと、蓮の瞼が持ち上がる。まだ焦点の合わない目が、それでも確かに、柊を捉えた。
「……ここ……?」
震える声。流れ落ちる涙。
「……おかえり、おかえり」
柊は、そう言って、もう一度だけ、そっと額を重ねた。蓮が、そっと手を伸ばし、おれの手の上に重ねてきた。握り返すと、そこから静かな熱が伝わってくる。それは互いの熱が、ゆっくりと溶け合っているようにも感じられた。
「あいつに……全部持って行かれたらどうしようって。二人の気持ちも、二人の時間も。全部、なくなったらどうしようって……蓮が目を覚ますまで、すごく不安だった」
「大……丈夫、だよ」
蓮が、静かに答えた。
「今までと、何も変わらない」
指先で、蓮の髪を愛おしそうに撫でる。酒呑童子は言っていた。肉体の接触が、最も効率的だと。あいつは、二人の混ざり合った呪力を、味わうだけ味わって、挙げ句、二人の絆……記憶だけを残して去っていった。
これも、玉藻前の時と同じだ。ただの餌として、値踏みされているに過ぎない。
「……柊、泣いてた?」
蓮の親指が、乾きかけた涙の跡を、そっと辿る。
「ごめんな。心配かけた。俺が……もっと強ければ」
「違う。蓮は、悪くない」
視線が絡む。どちらからともなく、目を閉じ、唇が触れた。
「ん……ごめん……目、覚ましたばっかりなのに……」
蓮の胸に、そっと手を当てて押しとどめる。
蓮が、くすりと笑う。何も言わず、もう一度、唇を重なる。
「俺、今回のことで気づいたんだ。ありふれた言葉かもひれないけど……俺ら、明日死ぬかもしれない。だからさ……二人の時間を、精一杯楽しまなきゃいけない」
また、軽く触れるだけのキス。
「もし、記憶を奪われても、何かのきっかけで、思い出しちゃうくらいに。呪力とか、愛とか、恋とか、難しいことは、全部置いといて」
視線が、真っ直ぐ柊を射抜く。
「柊、好き、だよ」
きつく蓮を抱きしめ、胸の鼓動を確かめる。
「蓮……ドキドキしてる」
「バカ……んなこといちいち言うな」
呪力を奪われた身体は、その欠落を埋めようとするかのように、二人の呼吸が重なり、一つの生命体のように呪力が巡る。
「……愛してる、蓮。絶対に、奪わせない」
耳元で届けるように囁く。瞬時に蓮の耳に熱が集まるのがわかる。
「俺も、愛してる」
蓮の心臓の音が、おれの胸にも伝わってくる。生きている。二人で、ここに。
俺たちはまだ、完敗の泥の中にいるのかもしれない。けれど、この夜の熱がある限り、何度だって立ち上がれる。
二人の未来を繋ぐ。終わりにはさせない。
カーテンの隙間から、朝日が漏れる。その光はいつもより輝いて、とても温かく感じた。




