【第5章 見わたせば 花も紅葉も なかりけり】全年齢版④
※ムーンライトノベルズにてR-18完全版を公開しております。
【第5章 最終話】
ホテルの屋上は、異様なほど静かだった。眼下には無数の灯り。ネオン、車の列、止まることのない人の営み。
その縁に、女は背を向けて立っていた。風に揺れる黒髪。着崩れた着物が、月光を浴びて淡く輝く。
「来たのね」
振り返らずに、玉藻前は言った。
「私の可愛いペットたち。せっかく躾けてきたのに、ぜーんぶ台無し」
レッドとブルーの気配を、背中だけで捉えている。
「罪鬼のヤツは、つまらなかったわ」
くすり、と笑う。
「理で繋ぐ、ですって? ずいぶん回りくどいのよ」
夜景を見下ろし、指先で灯りをなぞる。
「答えなんて、単純」
声は冷たく、確信に満ちていた。
「人間なんて、感情を少し弄ってあげれば、勝手に増える」
振り返る。その瞳は、どこまでも澄んでいた。
「愛情なんてね、副産物よ」
一歩、歩み寄る。
「妾がそれを喰らう。空になったら、また感情を刺激して溜めさせればいい。誰にも、迷惑なんてかけてないでしょう?」
肩をすくめる。玉藻前の視線が、ゆっくりと二人を射抜いた。
「あなたたち。その呪力、澄んでいて、上質で、高純度。妾の軍門に降りなさい。愛を差し出すなら……」
楽しげに、唇を歪め、一歩、距離を詰める。
「人の世では味わえぬ感情と感覚を、いくらでも与えてあげる。人間ごときが千年経ってもたどり着けない向こう側。どうせ愛を語り合うなら、魂まで蕩けるような世界をね」
強烈な甘い香りが、周囲に溢れた。頭の中に、映像が浮かび、目の前の景色が変わる。
⸻⸻
先ほどまでいたベッドルーム。向き合った柊が蓮を抱き寄せる。
「柊……っ」
胸の奥にじんわりとした温もりが広がる。愛しさが溢れ出すほどの熱い視線が交わる。
違う。……知っている。これはさっき、あの男が柊にやっていたのと、全く同じ動きだ。
(お前がさっき見て絶望した光景。心の奥では望んでいたはずよ。相手が自分だったらって……嫉妬だって我慢する必要なんてないの)
柊の腰に腕を回し、抱きしめ返す。胸に顔を埋め鼓動を感じる。
違う。違う。違う。これは……こんなんじゃ……!
⸻⸻
大量の水の中に沈む。ブルーの呪符から滝のような水流が放たれ、レッドにまとわりつく呪香を洗い流す。
「……あ……れ? 俺、柊と……」
「目、覚めた? なんか変だったから」
ブルーが、一歩前に出た。
「呪力を使い切った今なら、堕とせると思ったのだけれど……お気に召さなかったかしら?」
ブルーに、迷いはもうなかった。
「いらない」
玉藻前が、目を細める。
「……ふん。強がりね」
レッドが、ブルーの隣に並ぶ。呪力は消耗しきっている。膝は、まだ震えている。それでも、声は揺れなかった。
「俺たちは」
「今のままで、十分幸せだ」
玉藻前の表情が、初めてわずかに歪む。
「幸せ?」
レッドは、続けた。
「誰かに与えられるもんじゃない」
「奪うもんでもない」
ブルーが、静かに言葉を継ぐ。
「二人で作っていく」
「失って、悩んで、それでも選び続ける」
「それが、おれたちの幸せだ」
沈黙。
やがて、玉藻前は小さく笑った。
「……愚かね」
けれど、その声には、どこか楽しげな響きがあった。
「いいわ。なら、見せてちょうだい」
夜風が、爆ぜた。玉藻前の足元から、影が広がる。それは九つに分かれ、尾のように揺れた。
「選ばなかったのは、あなたたちよ」
甘く、絡みつく声。
「与えられる幸福を拒んで、自分たちで作る? ……面倒な子たち」
瞬間、景色が歪む。ネオンは溶け、夜空は紅に染まり、屋上は獣の巣へと変わる。
レッドが踏み込む。
赤い軌跡が、屋上を斬り裂いた。炎を纏った祭祀刀が、玉藻前の首元を狙う。
刃は、空を斬った。
玉藻前の姿が、音もなく揺らぐ。そこにいたはずの身体は、霞のようにほどけて消えた。
「甘いわ」
背後から、囁く声。蓮は即座に振り返り、二太刀目を放つ。だが、その瞬間……
「レッド、右!」
ブルーの声が飛ぶ。矢が放たれる。青い光を引き裂いて、一直線に玉藻前を射抜く。
……はずだった。
矢は、途中で軌道を歪められ、九尾の影に絡め取られるように霧散した。
「……っ、また幻術か!」
次の矢をつがえる。視界が、安定しない。玉藻前の位置が、定まらない。屋上に立っているはずなのに、距離感が、狂わされる。
「焦らなくていいのよ」
玉藻前は、楽しげだった。
「そろそろ、強がるのをやめたら? 連携は、悪くない、でもね……」
屋上全体に、影が落ちる。九つの尾が、夜空に広がった。
レッドは肩で息をしながら、刀を握り直す。ブルーは、弓を引いたまま、蓮の背を見据える。
当たらない。斬れない。それでも、二人の立ち位置は、崩れていなかった。
「……そろそろだな」
「うむ」
低く、確信を帯びた声。
「何か、策を見つけたのか?」
「さっきから、見えておるだろう。あの尾が……」
一瞬、夜風に揺れる九尾。
「完全に隠せなくなったということは、ヤツは、消耗しておる」
玄武の声が、静かに続く。
「ブルーよ、全力を、二本の矢に込めよ」
「当てる場所は、ワシに、任せろ」
「……おれは?」
「全力で、切れ」
「それだけ?」
「おう」
余計な言葉はいらない。
「……ブルー」
「うん」
短い呼吸のやり取り。それだけで、十分だった。
「次、いくぞ」
「合わせる」
赤と青が、再び動き出す。
九つの尾が、夜を薙いだ。暴風のような一撃が、屋上を横断する。
「……っ!」
コンクリートが抉れ、破片が宙を舞う。同時に、二つの勾玉が、即座に動いた。弾かれるように軌道を変え、蓮と柊の前へ滑り込む。
尾の一撃が、盾に叩きつけられる。轟音と共に衝撃が走る。だが、凌いだ。
「……今だ!」
玄武と朱雀の声が、重なる。
ブルーは、迷わなかった。弓を引き絞る。息を吸い、呪力を一気に収束させる。
一本目。
青い矢が、風を裂いた。
玉藻前の身が、わずかに仰け反る。脇腹を、貫いた。
「――っ!」
獣じみた声が、喉の奥から漏れる。止まらない。
二本目。
ほとんど間を置かず、次の矢が放たれる。狙いは首筋。九尾の影を縫い、正確に、深く。
「……あああッ!!」
悲鳴とも、呻きともつかぬ声。玉藻前の動きが、完全に止まった。
「レッド!!」
「分かってる!!」
レッドが踏み込む。祭祀刀が、燃え上がった。炎が、刃そのものを喰らい尽くす。
「……業火一閃!!」
赤い軌跡が、一直線に走る。玉藻前の胸元へ。迷いなく、振り下ろされた。
「……この、攻撃は……!」
玉藻前の目が、見開かれる。
「あの時の……!!」
絶叫が響き渡る。炎が、九尾の影を包み込む。
影が、震えた。悲鳴のように。怨嗟のように。
九つの尾が、次々と霧散していく。
形を失い、力を失い、屋上に確かな重さが落ちた。
膝をつく、玉藻前。
風に煽られ、黒髪が乱れる。
血が、コンクリートに滴る。
「……なるほど」
息を切らしながらも、彼女は……笑った。
悔しさでも、恐怖でもない。どこか、納得したような笑み。
「見誤ったわけか」
次の瞬間。玉藻前の身体が、眩い光に包まれる。輪郭が、崩れ。肉が、形を失い。光が、凝縮していく。
やがて、巨大な石が、その場に現れた。ずしりと、重く。夜風が、止む。屋上に残ったのは、砕けた幻と、封じられた存在。
そして、肩で息をする、赤と青だけだった。
月明かりを受けて、石の表面に、淡く九つの影が浮かび上がる。
「……殺生石」
玄武が、低く告げる。
「完全ではないが……今は、ここに縛られておる」
朱雀が、鼻で笑った。
「派手に暴れやがって。結局、元の寝床に戻ったってわけか」
レッドは、刀を下ろしたまま石を見つめる。もう、敵意は感じない。呪力の流れも、完全に沈黙していた。
「……終わった、のか」
「封じた、が正しいな」
玄武が応じる。
「いずれ時が巡れば、また形を得るやもしれぬ。だが、少なくとも、今代ではない」
外装を解除し、蓮は、静かに息を吐いた。
「柊、帰ろう」
「そうだね。今回も、もう限界だ」
ふと、柊が首を傾げる。
「……あれ? なんか忘れてない?」
蓮は少し考えてから、肩をすくめた。
「確かに。でも……まあ、なんとかなるだろ」
⸻⸻
夜が、やけに静かだった。
傷の匂いも、欲の熱も、今宵は遠い。
「酒呑童子様……」
控えめな声に応じることなく、酒呑童子は、白磁の杯を静かに傾けた。
月光を受けるその横顔は、人の世にあっては不自然なほど整っている。若々しく、端正で、だが、その瞳の奥には、幾世を越えた退屈が沈んでいた。
「……封じられたか」
声は低く、落ち着いている。
「賢いやり方だったが」
くつり、と喉を鳴らして笑う。
「欲を煮詰めるには、少し……優しすぎたか。あの女にしては、な」
脳裏に浮かぶのは、赤と青。
「情を求める者は、祓われ」
「理を裁く者は、眺めることを選び」
「欲を育てる者は、封じられ」
杯が、静かに卓へ置かれる。否定はしない。嘲りもしない。ただ、興が湧いた。
「壊れぬまま、どこまで持つ」
夜風が吹き抜け、その笑い声をさらっていく。
ゆっくりと立ち上がり、夜空を仰ぐ。
「『見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮』とでも読もう。会えるのが楽しみだよ」
その微笑みは、あまりにも優雅で、あまりにも残酷だった。




