【第4章】全年齢版⑤
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【第4章 第5話】
遠くから、救急車やパトカーのサイレンが聞こえる。穴田ママやAntinomie、逃げた皆の安否が頭をよぎる。満身創痍の身体を引きずり、二人は吉岡酒店へと帰っていった。
完全に呪力の切れた身体では、朱雀と玄武の声は、もう届かなかった。傷は癒えず、蹂躙の痕跡だけが、生々しく残っている。
玄関に入るなり、二人はその場に崩れ落ちた。床に膝をついた瞬間、張り詰めていたものが一気に切れる。
「……なぁ、柊。俺たち、間違ってるのかなぁ」
声が、情けないほど震えた。答えを求めているわけじゃない。ただ、胸に溜め込んでいた不安が、言葉になって溢れただけだ。
「好きなだけなのに。一緒にいたいだけなのに……やっと、同じ気持ちになれたのに」
最後の言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。次の瞬間、強く引き寄せられる。柊の腕が、ぎゅっと俺を抱きしめた。
「間違ってるわけないだろ」
震えているのは、声だけじゃない。抱きしめる腕そのものが、小さく揺れていた。
「おれには、蓮しかいない。蓮がいい。蓮と、一緒にいたい」
噛みしめるように、何度も確かめるように。その力強さが、かえって胸を締めつけて、涙が止まらなくなる。しばらくして、柊がゆっくりと身体を離した。
「……蓮。こっち来て」
立ち上がり、静かに手を引かれる。
「汚れ、落とさないと」
導かれるまま、バスルームへ。灯りがつく。
「……脱いで」
その声は、必要最低限の言葉だけを選んだみたいに、短かった。言われるままに動いた、その時。
「……痛っ」
赤く腫れた傷に、柊の手が触れた。
「……ごめん」
小さく、掠れた声。それ以上、柊は何も言わなかった。背後で静かに服を脱ぎ捨てる音がした。浴室の引き戸が閉まると、狭い空間に湿った沈黙が降りた。
罪鬼に叩き伏せられた時の、あの底冷えするような死の気配。内側を削り取られたような感覚に、壁に手をついたまま動けずにいた。蛇口に手が伸ばされ、シャワーの音が響き始める。
「……蓮」
名前を呼ばれた瞬間、肩が跳ねた。振り返るより先に、柊の冷えた額が押し当てられた。
「……黙ってて。少しだけ、こうさせて」
柊の声は低く震えていた。余裕を失い、ただここにいることを確かめるように、蓮を抱き締めている。
「殺されるかと思った……。あの影に、お前を連れて行かれるんじゃないかって」
狭い浴室。立ち上る湯気が視界を白く染める。顎に手を添えられ、そっと唇が触れた。お互いの生存を確認し合うために。
「おれを見て……。おれのことだけ、考えてよ。戦いのことなんて、今は全部忘れて」
柊の瞳には、昏い独占欲が宿っていた。掠れた声で紡がれた切実な願い。
「……おれが守るから。他のやつがなんて言おうと、おれが蓮を絶対に守り抜く」
その声には、決意が込められていた。まだ、終わっていない。
それぞれに身体洗って、風呂を出る。ベッドへと倒れ込むと、慈しむように抱きしめ合いながら、深い眠りへと落ちていった。
⸻⸻
スマホの着信音で、柊が目を覚ました。反射的に画面を見る。表示された名前に、眉がわずかに動いた。
「……穴田ママからだ」
その声に、隣で横になっていた蓮も目を覚ます。
通話を取った瞬間、耳元に飛び込んできたのは、怒鳴り声だった。
『柊! 今どこにいるの!? 蓮ちゃんと一緒!?』
「……うん。二人とも無事」
『怪我は!?』
一瞬、柊は言葉に詰まる。
「……軽いのは、あるけど」
電話の向こうで、短く息を呑む気配。
『……そう』
それだけ言って、少し間を置いてから続ける。
『昼過ぎ、店に来なさい』
「え?」
『話があるわ』
それ以上は説明しない。
『あ、来るときは、帽子被ってきな』
それだけ告げて、通話は切れた。静かになった部屋で、蓮と柊は顔を見合わせる。
「……何だと思う?」
「分からない。でも……」
柊はスマホを置き、息を吐いた。待ち受け画面には大量の着信履歴とメッセージ通知が見えた。
「昨夜の件、何か動いてるのは確かだ」
短い沈黙。
その間に、頭の奥で、聞き慣れた気配が動いた。
(……ようやく起きたか)
玄武の声。
(寝起き早々、厄介そうな気配を連れておるの)
(ったくよ。あいつの強さはなんなんだ)
朱雀が舌打ち混じりに言う。
「……そうだな」
蓮が起き上がり、壁に背を預ける。
「昼まで時間はある。今のうちに整理しよう」
短い時間だが、無駄にできない。
「罪鬼は、罪を裁き償わせる存在じゃ」
玄武が口火を切る。
「力で押し潰す類の物怪ではあるまい。理を量り、理に背くものを償わせる。罪であるうちは攻撃が通らぬのかもしれぬ」
「俺たちの呪力が足りないわけじゃないってことか?」
「正しさの領域に届いてねぇってことだ」
朱雀が、低く唸る。
「向こうは、自分が正しいと疑ってねぇ」
「……でも」
蓮が言葉を継ぐ。
「俺たちに、答えを求めてた」
「番いに意味はあるのかって」
沈黙。
「つまり」
柊が静かに言う。
「俺たちがどう生きるかを示さない限り、あいつは納得しない」
「力じゃなく、在り方か」
朱雀が鼻で笑う。
「厄介だな」
玄武が頷く。
「理に抗うなら、新しい理を示すしかあるまい」
「……行こう」
蓮が立ち上がる。
「Antinomieへ」
Antinomieの前には、見慣れない規制線が張られていた。報道関係者の姿もあるが、数は多くない。「怪物騒ぎ」その言葉が、人を遠ざけている。
裏口から中へ入ると、店内はいつもより静かだった。
「……来たわね」
カウンターの奥から、穴田ママが現れる。
その姿を見た瞬間、蓮の足が、止まった。
「……穴田ママ」
着物の袖の下、包帯が覗いている。動きは普段通りだが明らかに無理をしているのが分かった。
「怪我……」
「大したことないわ」
即答だった。
「掠っただけ」
だが、柊は視線を逸らさない。
「……昨日、あれだけ前に出て、やられっぱなしでいろって?」
穴田ママは肩をすくめる。
「それより」
トン、とカウンターを叩く。
「……動画、見た?」
二人は同時に顔を上げた。
天が、スマホを差し出す。
画面には、昨夜の店内。赤と青の光。はっきり映るのは、穴田ママと天、そして外装する俺と柊。
「怪物騒ぎと一緒に、もう回ってるわ」
穴田ママは、二人を見た。責めるでも、問い詰めるでもない。
「あなたたちは何者なの?」
その問いは、責めではなかった。
「何を背負っているの?」
「穴田ママ、ごめん。今度必ず説明する」
「今夜、またあいつらが来る」
「……だから」
蓮が、静かに言う。
「今夜は、店に近づかないで、今すぐ避難してほしい」
「ここを、守りたい」
穴田ママは、少しだけ目を細めた。それから、ゆっくり頷く。
「分かったわ。男の覚悟を邪魔しちゃ女が廃る。生きて帰ってきなさい」
それだけだった。
Antinomieが入るビルの屋上。レッドとブルーは、背中合わせに立ち、夜を待っていた。いつもなら、会社帰りの足音や、買い物袋の擦れる音、夕食へ向かう人々のざわめきが満ちる時間帯だ。けれど今日は、街全体が不自然なほど静かだった。風の音だけが、高い場所を抜けていく。
「ねぇ、レッド。……いや、蓮」
「んー?」
呼びかけられて、返事をする。
「好きだよ」
「……うん。はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「ど、どしたんだよ。改めて」
「いや、なんかさ。ちゃんと言ったこと、なかったなって思って」
「お、おう……その……ありがとな。俺もだよ」
「俺も……何?」
「……す、好きだよ。ブルーのこと」
「名前で呼んで。はい、やり直し」
「……柊のこと、好きだよ」
外装の仮面のせいで、柊の表情は見えない。でも、たぶん今は満足そうに笑っている。
「……全部終わったらさ。結婚しようか」
「けっ……いや、それは無理だな」
「なんで!?」
ああ、これは絶対に拗ねてる。
「なんかさ。フラグっぽくてヤダ」
「……おれたち、付き合ってていいんだよね」
「バーカ」
即答だった。
「お前が不安になるな。別れるって言われたって、別れてやんねーよ」
沈黙のあと、どちらからともなく、手を伸ばす。赤と青の手袋越しに、指が絡んだ。
この夜も。この街も。この幸せも。絶対に、離さない。
ふっと影が伸びる。黒煙が立ち上り、ゆっくりと形を結ぶ。現れたのは、ただ一人。平安の貴族装束。直衣をまとい、閉じた檜扇を手にした罪鬼だった。
「……来たか」
蓮が一歩、前に出る。
「話がある」
罪鬼は目を細めた。
「命乞いならば、聞かぬ」
「違う」
蓮は即座に否定した。
「ここを壊したくない」
一瞬、罪鬼の視線が足元のコンクリートに落ちる。
柊が続いた。
「君が人の理を裁く存在なら、場所に罪はない。それに……ここで戦えば、罪のない人間を巻き込むかもしれない」
罪鬼の扇が、わずかに揺れた。
「……無辜の者、か」
その言葉に、黒煙がかすかに歪み、檜扇がわずかに止まった。
深く息を吸い吐き出す。
「ここから南東に、放置されたゴルフ場がある。人もいない。建物もない……そこで、続きをしよう」
罪鬼はしばし二人を見つめた後、静かに言った。
「逃げではないのだな」
「守りたいだけだ」
柊が答える。次の瞬間、赤と青の光が弾けた。レッドがブルーを抱え、空へと跳ぶ。二色の光は、南東の夜空へ一直線に流れていった。
その光を、路上にいた数人の一般人と、バイクにもたれた一人の男が見上げていた。
「……なんや、あれ」
フリーのジャーナリストは、にやりと笑う。
「おもろなってきたやん」
エンジン音が、夜を切り裂いた。




