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【第4章】全年齢版⑤

※ムーンライトノベルズにてR-18完全版を公開しております。

【第4章 第5話】


 遠くから、救急車やパトカーのサイレンが聞こえる。穴田ママやAntinomie、逃げた皆の安否が頭をよぎる。満身創痍の身体を引きずり、二人は吉岡酒店へと帰っていった。


 完全に呪力の切れた身体では、朱雀と玄武の声は、もう届かなかった。傷は癒えず、蹂躙の痕跡だけが、生々しく残っている。


 玄関に入るなり、二人はその場に崩れ落ちた。床に膝をついた瞬間、張り詰めていたものが一気に切れる。


「……なぁ、柊。俺たち、間違ってるのかなぁ」


 声が、情けないほど震えた。答えを求めているわけじゃない。ただ、胸に溜め込んでいた不安が、言葉になって溢れただけだ。


「好きなだけなのに。一緒にいたいだけなのに……やっと、同じ気持ちになれたのに」


 最後の言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。次の瞬間、強く引き寄せられる。柊の腕が、ぎゅっと俺を抱きしめた。


「間違ってるわけないだろ」


 震えているのは、声だけじゃない。抱きしめる腕そのものが、小さく揺れていた。


「おれには、蓮しかいない。蓮がいい。蓮と、一緒にいたい」


 噛みしめるように、何度も確かめるように。その力強さが、かえって胸を締めつけて、涙が止まらなくなる。しばらくして、柊がゆっくりと身体を離した。


「……蓮。こっち来て」


 立ち上がり、静かに手を引かれる。


「汚れ、落とさないと」


 導かれるまま、バスルームへ。灯りがつく。


「……脱いで」


 その声は、必要最低限の言葉だけを選んだみたいに、短かった。言われるままに動いた、その時。


「……痛っ」


 赤く腫れた傷に、柊の手が触れた。


「……ごめん」


 小さく、掠れた声。それ以上、柊は何も言わなかった。背後で静かに服を脱ぎ捨てる音がした。浴室の引き戸が閉まると、狭い空間に湿った沈黙が降りた。


 罪鬼に叩き伏せられた時の、あの底冷えするような死の気配。内側を削り取られたような感覚に、壁に手をついたまま動けずにいた。蛇口に手が伸ばされ、シャワーの音が響き始める。


「……蓮」


 名前を呼ばれた瞬間、肩が跳ねた。振り返るより先に、柊の冷えた額が押し当てられた。


「……黙ってて。少しだけ、こうさせて」


 柊の声は低く震えていた。余裕を失い、ただここにいることを確かめるように、蓮を抱き締めている。


「殺されるかと思った……。あの影に、お前を連れて行かれるんじゃないかって」


 狭い浴室。立ち上る湯気が視界を白く染める。顎に手を添えられ、そっと唇が触れた。お互いの生存を確認し合うために。


「おれを見て……。おれのことだけ、考えてよ。戦いのことなんて、今は全部忘れて」


 柊の瞳には、昏い独占欲が宿っていた。掠れた声で紡がれた切実な願い。


「……おれが守るから。他のやつがなんて言おうと、おれが蓮を絶対に守り抜く」


 その声には、決意が込められていた。まだ、終わっていない。


 それぞれに身体洗って、風呂を出る。ベッドへと倒れ込むと、慈しむように抱きしめ合いながら、深い眠りへと落ちていった。


⸻⸻


 スマホの着信音で、柊が目を覚ました。反射的に画面を見る。表示された名前に、眉がわずかに動いた。


「……穴田ママからだ」


 その声に、隣で横になっていた蓮も目を覚ます。


 通話を取った瞬間、耳元に飛び込んできたのは、怒鳴り声だった。


『柊! 今どこにいるの!? 蓮ちゃんと一緒!?』


「……うん。二人とも無事」


『怪我は!?』


 一瞬、柊は言葉に詰まる。


「……軽いのは、あるけど」


 電話の向こうで、短く息を呑む気配。


『……そう』


 それだけ言って、少し間を置いてから続ける。


『昼過ぎ、店に来なさい』


「え?」


『話があるわ』


 それ以上は説明しない。


『あ、来るときは、帽子被ってきな』


 それだけ告げて、通話は切れた。静かになった部屋で、蓮と柊は顔を見合わせる。


「……何だと思う?」


「分からない。でも……」


 柊はスマホを置き、息を吐いた。待ち受け画面には大量の着信履歴とメッセージ通知が見えた。


「昨夜の件、何か動いてるのは確かだ」


 短い沈黙。


 その間に、頭の奥で、聞き慣れた気配が動いた。


(……ようやく起きたか)


 玄武の声。


(寝起き早々、厄介そうな気配を連れておるの)


(ったくよ。あいつの強さはなんなんだ)


 朱雀が舌打ち混じりに言う。


「……そうだな」


 蓮が起き上がり、壁に背を預ける。


「昼まで時間はある。今のうちに整理しよう」


 短い時間だが、無駄にできない。


「罪鬼は、罪を裁き償わせる存在じゃ」


 玄武が口火を切る。


「力で押し潰す類の物怪ではあるまい。理を量り、理に背くものを償わせる。罪であるうちは攻撃が通らぬのかもしれぬ」


「俺たちの呪力が足りないわけじゃないってことか?」


「正しさの領域に届いてねぇってことだ」


 朱雀が、低く唸る。


「向こうは、自分が正しいと疑ってねぇ」


「……でも」


 蓮が言葉を継ぐ。


「俺たちに、答えを求めてた」


「番いに意味はあるのかって」


 沈黙。


「つまり」


 柊が静かに言う。


「俺たちがどう生きるかを示さない限り、あいつは納得しない」


「力じゃなく、在り方か」


 朱雀が鼻で笑う。


「厄介だな」


 玄武が頷く。


「理に抗うなら、新しい理を示すしかあるまい」


「……行こう」


蓮が立ち上がる。


「Antinomieへ」


 Antinomieの前には、見慣れない規制線が張られていた。報道関係者の姿もあるが、数は多くない。「怪物騒ぎ」その言葉が、人を遠ざけている。


 裏口から中へ入ると、店内はいつもより静かだった。


「……来たわね」


 カウンターの奥から、穴田ママが現れる。


 その姿を見た瞬間、蓮の足が、止まった。


「……穴田ママ」


 着物の袖の下、包帯が覗いている。動きは普段通りだが明らかに無理をしているのが分かった。


「怪我……」


「大したことないわ」


 即答だった。


「掠っただけ」


 だが、柊は視線を逸らさない。


「……昨日、あれだけ前に出て、やられっぱなしでいろって?」


 穴田ママは肩をすくめる。


「それより」


 トン、とカウンターを叩く。


「……動画、見た?」


 二人は同時に顔を上げた。


 天が、スマホを差し出す。


 画面には、昨夜の店内。赤と青の光。はっきり映るのは、穴田ママと天、そして外装する俺と柊。


「怪物騒ぎと一緒に、もう回ってるわ」


 穴田ママは、二人を見た。責めるでも、問い詰めるでもない。


「あなたたちは何者なの?」


 その問いは、責めではなかった。


「何を背負っているの?」


「穴田ママ、ごめん。今度必ず説明する」


「今夜、またあいつらが来る」


「……だから」


 蓮が、静かに言う。


「今夜は、店に近づかないで、今すぐ避難してほしい」


「ここを、守りたい」


 穴田ママは、少しだけ目を細めた。それから、ゆっくり頷く。


「分かったわ。男の覚悟を邪魔しちゃ女が廃る。生きて帰ってきなさい」


 それだけだった。


 Antinomieが入るビルの屋上。レッドとブルーは、背中合わせに立ち、夜を待っていた。いつもなら、会社帰りの足音や、買い物袋の擦れる音、夕食へ向かう人々のざわめきが満ちる時間帯だ。けれど今日は、街全体が不自然なほど静かだった。風の音だけが、高い場所を抜けていく。


「ねぇ、レッド。……いや、蓮」


「んー?」


 呼びかけられて、返事をする。


「好きだよ」


「……うん。はぁ!?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。


「ど、どしたんだよ。改めて」


「いや、なんかさ。ちゃんと言ったこと、なかったなって思って」


「お、おう……その……ありがとな。俺もだよ」


「俺も……何?」


「……す、好きだよ。ブルーのこと」


「名前で呼んで。はい、やり直し」


「……柊のこと、好きだよ」


 外装の仮面のせいで、柊の表情は見えない。でも、たぶん今は満足そうに笑っている。


「……全部終わったらさ。結婚しようか」


「けっ……いや、それは無理だな」


「なんで!?」


 ああ、これは絶対に拗ねてる。


「なんかさ。フラグっぽくてヤダ」


「……おれたち、付き合ってていいんだよね」


「バーカ」


 即答だった。


「お前が不安になるな。別れるって言われたって、別れてやんねーよ」


 沈黙のあと、どちらからともなく、手を伸ばす。赤と青の手袋越しに、指が絡んだ。


 この夜も。この街も。この幸せも。絶対に、離さない。


 ふっと影が伸びる。黒煙が立ち上り、ゆっくりと形を結ぶ。現れたのは、ただ一人。平安の貴族装束。直衣をまとい、閉じた檜扇を手にした罪鬼だった。


「……来たか」


 蓮が一歩、前に出る。


「話がある」


 罪鬼は目を細めた。


「命乞いならば、聞かぬ」


「違う」


 蓮は即座に否定した。


「ここを壊したくない」


 一瞬、罪鬼の視線が足元のコンクリートに落ちる。


 柊が続いた。


「君が人の理を裁く存在なら、場所に罪はない。それに……ここで戦えば、罪のない人間を巻き込むかもしれない」


 罪鬼の扇が、わずかに揺れた。


「……無辜の者、か」


 その言葉に、黒煙がかすかに歪み、檜扇がわずかに止まった。


 深く息を吸い吐き出す。


「ここから南東に、放置されたゴルフ場がある。人もいない。建物もない……そこで、続きをしよう」


 罪鬼はしばし二人を見つめた後、静かに言った。


「逃げではないのだな」


「守りたいだけだ」


 柊が答える。次の瞬間、赤と青の光が弾けた。レッドがブルーを抱え、空へと跳ぶ。二色の光は、南東の夜空へ一直線に流れていった。


 その光を、路上にいた数人の一般人と、バイクにもたれた一人の男が見上げていた。


「……なんや、あれ」


 フリーのジャーナリストは、にやりと笑う。


「おもろなってきたやん」


 エンジン音が、夜を切り裂いた。

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