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【第4章】全年齢版④

【第4章 第4話】


 罪鬼が姿を現してから数日が経った。Antinomieは、今日もいつも通りだった。グラスの触れ合う音と、笑い

声、ゆったりとしたBGM。


 仕事終わりの蓮は、店のカウンターに腰掛けていた。柊を迎えに来たついでに、仕事が終わるまで、軽く酒を飲んで待つつもりでいる。グラスを傾けながら、蓮は何度か視線を上げた。カウンターの中では、柊が手際よくグラスを洗い、注文を捌いている。目が合うと、言葉は交わさず、ほんの一瞬だけ視線が重なった。特別なことは何もない。ただ、それが当たり前になっていただけだ。


「最近さ、この辺、騒がしいよね」


 店の奥から、そんな声が聞こえた。


「夜に変なのが出たって話」


「なんか、昔のコスプレの人たち? 赤と青だったとか?」


 その言葉に、蓮の指がグラスの縁で止まる。ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなった。だが、すぐに何事もなかったように、もう一口酒を飲む。カウンターの中の柊は、グラスを棚に戻しながら、そのやり取りに気づく様子もなく、次の注文に応じていた。


 物怪、そして赤と青の話。夜に現れた何かの話。その話題が店内に溶けていく前に、ふっと、音が軽くなった。グラスの触れ合う音も、笑い声も、まるで一枚薄い膜を隔てた向こう側にあるように、遠い。


「……なんか、寒くない?」


 誰かが、冗談めかして言った。その瞬間だった。


「此処は、理に背きし処、名も家も血も問わぬ、不毛な寄合なり」


 声は低く、はっきりと響いた。どこから聞こえたのかは分からない。だが、店内にいる全員が、同時にそれを聞いた。


 空気が、変わった。冷たくて心ごと押しつぶされてしまいそうな圧迫感が、判断を鈍らせる。


「汝らの振る舞い次第で、裁定は下されよう」


 その言葉を最後に、店の入口に黒い煙が、音もなく立ち上った。煙は床を這うように広がり、やがて人の形を結ぶ。


 先に現れたのは、四、五の影。着物に似た装束。色はくすみ、時代を失ったような佇まい。頭には烏帽子。手には弓を携え、無言のまま整然と並ぶ。


 生きた兵ではない。だが、従う意思だけは、はっきりとそこにあった。そして、その中央。一歩遅れて、黒煙の奥から姿を現したのが……罪鬼だった。平安の貴族がまとう直衣。乱れひとつない衣の合わせ。手には、閉じられた檜扇。顔立ちは穏やかですらあるのに、そこに宿る気配は、明確に人のものではない。


「名も家も血も問わず、己が欲望のまま交わり、夜を過ごす」


 静かな声が、店内を満たし、檜扇が、かすかに揺れた。


「子を成さず、血を繋がず、それでもなお、絆を語る」


 視線が、ゆっくりと店内を巡る。


「それは罪か。それとも、新しき理か」


 兵士たちは、何も語らない。ただ、罪鬼の言葉を待つだけだ。


「裁かれしものは、奪われる」


 淡々と、事実を述べるように。


「名を。役割を。そして、居場所を」


「理に適わぬ存在は、やがて人の世から、零れ落ちる」


 一瞬、檜扇が開かれた。


「ゆえに、今宵は見定める。この夜が、罪の巣か、それとも、理の芽か」


 静寂。黒煙が、再び揺らぎ始める。


「え? なに?」

「どこから入ってきたの? イベント?」

「あのコスプレ、さっき噂に出てたやつじゃ……」


 客やスタッフの間に、ざわめきが走る。


「これ、やばいんじゃ……」

「け、警察呼ぶ……?」


 不安が、泡のように膨れ上がりかけた、その瞬間。


「……ちょっと、アンタら」


 低く、芯の通った声が割って入った。


「何者だい。飲みに来た様子には、見えないじゃないか」


 テーブルで接客をしていた穴田ママが、ゆっくりと立ち上がる。そのまま迷いなく、入口へと歩み出る。視線は、一直線に罪鬼を捉えていた。


「蓮……」


 柊と、一瞬だけ目が合う。


「最悪なタイミングだ。ここで今すぐに外装したら、みんなを巻き込む」


(おい、のんびり考えてる暇はねぇぞ)


 頭の奥で、朱雀の声が跳ねる。今にも飛び出してきそうな気配。


「汝」


 罪鬼の声が、静かに響いた。


「生まれ出でし性を捻じ曲げ、運命に背く者か」


 檜扇が、わずかに揺れる。


「理に逆らう愚かさ。償う覚悟は、あるか」


 空気が、凍りつく。穴田ママに狙いを定めた。


「ごちゃごちゃとうるさい男だね」


 穴田ママは、一歩も退かない。


「ここは、アタシのステージだよ。悪いけど、お帰り願おうか」


 低く、しかしはっきりとした声。


「天!」


 ママが、背後に声を飛ばす。


「念のためだ。アンタら、裏口から客を逃がしな」


「聞く耳を持たぬか」


 罪鬼の声が、冷たくなる。


「よかろう。なれば、汝の記憶をもって償わせよう」


 檜扇が、ぴたりと止まる。


「衛士。前へ」


 合図と同時に、兵たちが一斉に踏み出した。


「……やろうってんなら、買ってやろうじゃないか」


 穴田ママが、ふっと笑う。


 袖から腕を抜き、着物をはだけさせる。背中から右腕にかけて、彼岸花と紅葉の和彫りが覗かせる。裾を力任せに開き、床を踏み鳴らした。


「誰がぁ、呼んだか知らねぇが、夜を彩る一輪の華。鳴かした男は数知れず。千客万来、花吹雪。アンチノミーの大看板。穴田グローリーとは、あ、オレのことよ!」


 口上が、店内に響き、拳を構える。


「入店拒否はアンチのみ! さぁ、かかってきな!!」


(おいおいおい……マジかよ)


 朱雀が、息を呑む。


(あの姉さん……物怪と、やり合う気か!?)


 穴田ママが、腰を低く落とす。


「ママ! ダメだ! 危ない!!」


 柊の声が飛ぶ。


「……やるしか、ないか……!!」


 俺と柊が覚悟を固める、その一瞬よりも早く、穴田ママが動いた。


 重心を低く保ったまま、床を蹴る。一直線に衛士へと詰め寄り、そのまま押し倒した。


「なっ……!」


 武器を構える暇すら与えない。重心低く腰にタックルを入れて倒すと、床に叩きつけて、関節を極めるように体を絡めて締める。間髪入れず、次の衛士へ。放たれた矢が、壁に突き刺さる。だが、狭い店内と、穴田ママの動きがそれを許さない。すり抜ける。潜り込む。組みつく。無駄のない動き。洗練されたレスリングのような体術。


「きゃー! さすが穴姉!!」

「流石! アナコンダを締め落とした伝説の女!!」

「穴姉の寝技に落ちない男はいないわ!!」


 スタッフから、思わず声が上がる。


「穴ねぇ、穴ねぇうるさい! 穴はあんだよ!!」


 穴田ママの言葉は意味深だ。


「……感心してる場合じゃないよ!!」


 天が叫ぶ。


「あんたら! 早く客を逃がしな!!」


 その一声で、店内が動き出す。


「朱雀……」


 呆然と、目の前の光景を見つめたまま、呟く。


「なんで……物怪に、打撃が効いてる……?」


(……なるほどな)


 朱雀の声が、低く唸る。


(あいつ、とんでもねぇぞ。愛の総量が、一般人の域じゃねぇ)


(ふむ)


 玄武が、冷静に続ける。


(極々微弱じゃが、無自覚に呪力を自ら生み、まとっておる。ゆえに、打撃が通るのじゃ)


 視線の先で、倒された衛士が、ぎこちなく起き上がる。


(だが、祓うほどの力はない)


(……足止めできたら上出来ぐらいじゃな)


 その言葉通り、衛士の動きが戻り始めていた。


「蓮!」


 柊が、俺を見る。


「……やろう!!」


「……お、おう!!」


 もう、迷う理由はなかった。


「式神外装!」


「朱雀!!」

「玄武!!」


 二人の声が、重なる。青と赤の、眩い光が二人を包み込む。


「なぁ、朱雀。もしかして……穴田ママも、外装できたりする?」


「それは、無理だろうな」


 朱雀が、あっさり答える。


「主らは、別格じゃ」


 玄武の声が、静かに重なる。


「……そっか」


 柊が、小さく息を吐いた。


「よかった。こんなの、おれたちだけで、十分だもんな」


 視線が、まっすぐ俺に向く。


「蓮。おれが攻撃を防ぐ。まずは、衛士を片づけよう」


 赤と青の光が、店内を満たす。その眩しさに、穴田ママが思わず視線を向けた。


「今度はなんだってのよ!」


 ほんの一瞬の隙。穴田ママの足に矢が刺さる。


「……っ!」


穴田ママの体が、ぐらりと傾ぐ。膝が、床に落ちた。


「穴田ママ!」


 二つの影が穴田の前に出る。赤と青。交差するように駆け、衛士を弾き飛ばす。連携は完璧だった。ブルーが前に出る。盾のように立ち、矢を弾き、刃を受け止める。その背後で、レッドが一瞬だけ呼吸を合わせた。


「今だ!」


 ブルーが体勢を崩した衛士を押し返す。その隙間を縫うように、赤い斬撃が走る。一体、二体。祓われた影が、光となって弾けた。


「次、左!」


「分かってる!」


 声を交わすまでもなく、視線だけで次の動きが繋がる。二人で一つの陣形だった。確実に衛士の数を減らしていく。


 だが。倒したはずのその背後で、闇が、再び形を成す。


 一体、また一体。同じ姿の衛士が、何事もなかったかのように現れる。


「キリがねぇ! 柊! 罪鬼を狙うぞ!」


 罪鬼は、こちらを見たまま動かない。レッドの祭祀刀が、確かに罪鬼を捉えた。布を裂く感触。衝撃。


「……?」


 手応えが、ない。刃は霧散するようにすり抜け、罪鬼の姿は、何事もなかったかのようにそこに在り続けている。


「効いてねぇ……!」


 罪鬼は檜扇を閉じたまま、静かにこちらを見下ろしていた。


「番い、か」


 その一言で、胸の奥がざわつく。


「子を成さぬ番いに、何の意味がある。名も血も継がぬ関係に、その行く末に、何が残る」


 空気が、ひび割れた。


「……っ」


 ブルーが、息を呑む。反論しようとして、言葉が出てこない。否定できないわけじゃない。だが、即座に言い切れる答えを、まだ持っていなかった。


「柊、来る!」


「分かってる!」


 ブルーが前に出る。


「祓え! 勾玉!」


 展開され浮遊する盾が、矢を受け止め、レッドが踏み込む。


「朱雀、もう一度!」


「……ダメだ」


 朱雀の声が、低く割り込んだ。


「攻撃は入ってる。だが、あいつの領域に、届いてねぇ」


「玄武! あいつの弱点は!?」


「見たことがないのじゃ」


 玄武の声は重い。


「我らの時代より後に生まれし、あるいは、理そのものから生じた物怪かもしれぬ」


 背後で、空気が歪む。新たな衛士が、闇から生まれる。一体、二体、三体。倒しても、倒しても、尽きない。


「……このままじゃ、店が持たない。レッド、外に誘い出す」


「でも……」


「ここは、守る場所だ。戦場にしていい場所じゃない!」


 その言葉に、レッドは一瞬だけ迷い、そして、頷いた。


「……分かった!」


 二人同時に跳び、罪鬼の前を横切る。罪鬼は、興味深そうに目を細めた。


「よかろう。汝らの選択を見届けよう」


 夜の空気が、外気へと変わる。路上に出た瞬間、罪鬼は檜扇を掲げた。


「汝らには、迷いが見える」


 扇が、振り下ろされると、闇が爆ぜた。今までとは比べものにならない数の衛士が、路地を埋め尽くす。


「……っ、数が!」


(まずいぞ!)


 朱雀の声が、明確な焦りを帯びる。


(呪力の消耗が早すぎる!)


(退け! 今は退くのじゃ!)


「まだ、いける……!」


 レッドが、無理に踏み込む。刃を振るうたび、身体が重くなる。呼吸が、乱れる。ブルーの盾にも、細かなひびが走り始めていた。


「蓮……!」


「大丈夫だ!」


 そう言いながら、視界が揺れる。罪鬼の声が、静かに響く。


「子を成し、育み、次代へ繋ぐ。それこそが自然の摂理。政も、血も、名も、継がれねば、人は滅ぶ」


 問いは、正しい。俺と柊の関係は、理に反するのか。その問いに、感情以外の理由で、答えを持っていない。


「……それが、答えか」


 罪鬼が、淡々と告げる。


「汝らは、己の罪を認めておらぬ」


 檜扇が、再び掲げられる。


「ならば」


 再び、闇が爆ぜた。無数の衛士に蹂躙される。赤と青が、同時に崩れる。


 変身が、解けた。


 路上に倒れ伏す二人を、罪鬼は冷ややかに見下ろす。


「刻限は、明日の夜なり」


 その声だけが、夜に残る。


「それまでに、答えを得よ」


 次の瞬間、罪鬼と衛士たちは、闇に溶けるように消えた。冷たい空気と入れ替わり、緑風が香る。残されたのは、胸の奥に残る、嫌な確信だけ。


「……負けた、な」


 息を整えながら、蓮が呟く。柊は、答えなかった。ただ、拳を握りしめている。否定されたのは、力じゃない。存在でもない。


 俺たちの愛だ。

衛士えじ

平安時代、宮中や門の守護を担当する兵士。

本作では、罪鬼の眷属として、裁きを執行する。

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