【第4章】全年齢版③
【第4章 第3話】
深夜一時すぎ。柊は、くたくたな表情で帰ってきた。
「おかえり。Antinomieはどうだった? 刺激的だったろ」
「蓮ー……先に寝ててくれてもよかったのに」
靴を脱ぎながら、少し照れたように笑う。
「うん、すごい刺激的だったけど、楽しかったよ。みんな、良い人そうだし」
慣れない仕事のはずなのに、表情はどこか晴れている。それを見て、胸の奥がほっと緩んだ。
「蓮……」
眠そうな声と一緒に、柊が抱きついてくる。ほのかに香るお酒の匂い。仕事中に飲んだのだろうか。体温はいつもより少し高くて、無防備に甘えてくる。
……可愛い。正直、悪くない。いや、めちゃくちゃいい。
「よし。じゃあ、先に風呂入ってこい。それで、もう寝ようぜ」
「そうだね」
一拍置いて、柊がこちらを見る。
「……あ。久しぶりに、蓮も一緒に入る? 」
潤んだ瞳で、悪気なく聞いてくる。ひまわりの里を出て以来、泊まった時もタイミングが合わず、一緒に入る機会は一度もなかった。魅力的すぎるだろ、それは。頭の中で余計な妄想が走り、身体の芯が僅かに熱くなる。
「……おほん。呪力を高め合う邪魔はしたくないのじゃが」
低く落ち着いた声。柊の背後から、玄武が姿を現した。
「蓮と朱雀に、報告がある」
……おあずけか。
玄武から聞かされたのは、Antinomie周辺で囁かれている奇妙な噂。時代がかった装束の集団。記憶を失う人々。俺と朱雀、玄武で話し合い、明日から繁華街の見回りを強化することに決めた。
柊には、明日話そう。だって今、俺の腕の中で、柊は気持ちよさそうに眠っている。起こせるわけがなかった。髪に指を通し、眠ったままの唇を、親指でそっとなぞる。
……今度。飲んでない時に、風呂も誘ってみよう。
⸻⸻
数日間、夜の街を巡った。仕事の合間に繁華街を中心に見回りを続ける。
今日は朱雀と俺の番。Antinomieのある通り。その裏路地。人の気配が消えやすい場所。
これまで、大きな戦闘はない。下級の物怪が、たまに現れる程度だ。それでも、街の空気は、確実に変わっていた。
夜が、静かすぎる。笑い声が減り、足音が早くなり、誰もが、何かから目を逸らすように帰路を急いでいる。
「……気づいてねぇだけだな」
朱雀が、低く呟く。
「表に出てねぇが、いる。確実に、だ」
実際、奇妙な噂は増えていた。記憶を失った人間。夜中に見た行列。平安貴族のような装束で、まるで平安時代の兵士みたいな一団を見た、という話。誰もいないはずの路地で聞こえる、衣擦れの音。
柊からも、連絡が入る。
Antinomieの客の中に、「役人か貴族みたい兵士を見た」という噂が出ている、と。
点と点が、少しずつ繋がっていく。夜の巡回も、そろそろ終わりに近づいていた。人通りのない大通り。街灯の光が、やけに白く感じる。
(……待て)
朱雀の声が、低く沈んだ。
「どうした」
(風が、止まった)
言われて、気づく。空気が重い。
まるで、音だけが削ぎ落とされたみたいに、街が静まり返っていた。
そのときだった。通りの向こう。月明かりを背にして、人影が立っている。
……ひとりじゃない。その背後に、同じ形をした影が、いくつも並んでいる。
平安貴族のような古めかしい装束。一切の無駄がない、整然とした立ち姿。兵だ。だが、生きている人間じゃない。
(……冗談だろ)
朱雀が、息を呑む。
(数が、違う)
中央に立つ影が、ゆっくりと一歩、前に出た。烏帽子。乱れのない衣。顔は影に落ちて見えない。
けれど、見られているという感覚だけが、はっきりと伝わってくる。
声が、響いた。低く、落ち着き、感情のないそれでいて、逃げ場のない声。
「夜の巡察か」
喉が、鳴った。
(蓮……こいつは)
朱雀の声が、明らかに緊張を帯びる。
「名乗る必要はない」
影は、こちらを見たまま続ける。
「汝らが、秩序を乱す存在であることは、既に、量れておる」
背後の兵たちが、一斉に、地に足を揃えた。音は、しない。ただ、空気だけが震えた。
(……動くな)
朱雀が、囁く。
(今はまだ、裁定の段ではない)
中央の影は、ふっと視線を逸らした。まるで、こちらに興味を失ったかのように。
「今宵は、良い。人の世には、人の理がある……されど」
一瞬だけ、その視線が戻る。
「理を踏み越えた時、罪は、必ず償われる。吾は重なりし者、罪鬼」
次の瞬間。強い風が吹いた。月明かりが揺れ、気づけばそこには、誰も、いなかった。
残されたのは、冷え切った夜気と、胸の奥に残る、嫌な確信だけ。
(……見ただろ、今の)
朱雀の声は、低く、硬い。
「ああ」
拳を、強く握る。
「今までの物怪とは……格が違う」
夜の街は、何事もなかったかのように静かだった。だが、俺たちは、はっきりと理解していた。
もう、始まっている。




