【第3章 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば】全年齢版⑤
【第3章 最終話】
「あら? 蓮ちゃんじゃない?こんなところで会えるなんて、奇遇ねぇ!」
遠くから、やけに弾んだ声が飛んできた。
顔を上げると、そこにいたのは、穴田ママだった。今日は休みなのか、それとも出勤前なのか。ラフなスウェット姿のお兄さん。
「隣は……お友達? それとも彼氏かしら?」
一瞬、間を置いてから、わざとらしく首を傾げる。
「……やだ。そんなわけないわよねぇ?」
たぶん、俺と柊は同時に目を泳がせた。
「ふぅ〜ん。あら、そう」
何かを察したように、穴田ママはにやりと笑う。そして今度は、値踏みするみたいに柊をじっと見つめた。
「ねぇ、アンタ。アタシの蓮ちゃんを泣かせたら、承知しないわよ?」
低くドスの効いた声に、空気が張り詰める。
「やだなぁ」
柊は、にっこりと笑ったまま言った。
「蓮は、ずっとおれのですよ」
……待て。何の話だ。俺の頭の中には、ハテナがいくつも浮かんでは消えていく。
「……はん。アンタ、言うじゃないの」
穴田ママは腕を組み、満足そうに鼻を鳴らした。
「気に入ったわ。明日から、うちの店に来な。面倒、見てあげる」
「え?」
「実はね、ケンジから聞いてたのよ」
ケンジ?
「アンタが、蓮ちゃんの家に転がり込んだ男だって」
……あぁ。吉岡憲司さんか。
そんなことまで相談するくらいの仲だったのか。知らないところで、俺の生活圏が、少しずつ勝手に繋がっていく。
詳しい話は、明日、Antinomieで聞くことになったらしい。
「……なんか、穴田さんって強烈な人だったな」
歩きながら、ぽつりと呟く。
「びっくりするよな。でも、ああ見えて、みんなから慕われてるいいママだよ」
「そのママってのが、まだよく分からないんだけど」
「あはは。まぁ、明日行ったら分かるって」
俺がそう言うと柊は軽く肩をすくめた。
街の明かりが少しずつ増えていき、昼間よりも街の輪郭がはっきりしてきた。
玄関の鍵が閉まる音が、やけに大きく響く。灯りをつけると、昼間より少しだけ狭く感じる部屋が、現実を連れ戻してくる。
「……なぁ」
靴を脱ぎながら、つい声が漏れた。
「俺さ。あの施設も、街も、全部守れるつもりでいたんだと思う」
自分でも、驚くほど素直な声だった。
「でも、無理だった。結局、みんなを別の場所にやって、静かになった街を見て……」
言葉を探して、少し間が空く。
「これでよかったのか、分かんなくなる」
責める声でも、助けを求める声でもない。ただの、疲れきった独り言。
柊は、すぐには何も言わなかった。
「蓮」
名前を呼ばれて、顔を上げる。柊は、いつもの距離より一歩だけ近かった。
「おれは、蓮を守りたい。でもそれは、蓮の後ろに立つって意味じゃない」
言い切る声。
「一緒に立つ。一緒に選ぶ。逃げないって、決めた」
返事を待たず、柊は一瞬だけ躊躇うように指を止め、
俺の頬に触れた。不意に近づく柊の顔に咄嗟に目を瞑る。
唇が触れ合う。
ほんの一瞬。確かめるような温度と整髪料の香りを残して離れていく。そっと目を開ける。長く親友だったはずなのに、初めて見るその表情。逃げも照れもない、まっすぐな視線に、胸がどうしようもなく高鳴った。
もう、元には戻れないと分かっていて……それが、嬉しかった。
⸻⸻
闇の奥、月明かりを背にして、烏帽子を戴いた影が静かに立っていた。乱れのない衣の奥から放たれるのは、殺気ではなく、裁定。その背後には、衛士の姿を模した物怪たちが居並び、主の一言を待つ。
「子を成し、育てよ。血の絶ゆるは、人の世の理にあらず」
「その営み、すべて吾が力となるなり」
「さすれば、罪を償ふべし」
穴田グローリー
年齢不詳。クラブAntinomieのママ。
髭を生やし、スウェットを着ている時は、世を忍ぶ仮の姿。




